日本と世界

世界の中の日本

BC級戦犯裁判

2023-04-13 18:27:10 | 日記
弁護士会の読書

2008年2月14日

BC級戦犯裁判

日本史(現代史)
著者:林 博史、出版社:岩波新書
 東京裁判の被告が28人、BC級戦犯裁判では7ヶ国によって5700人が裁かれた。死刑になったのは東京裁判で7人に対し、BC級裁判では934人にのぼっている。
 うむむ、この差はなんということでしょう。これは、『私は貝になりたい』というケースがたくさんあったことを意味しているようです。
 アメリカ政府は、1944年夏まで、戦争犯罪の問題に積極的には取り組んでいなかった。その状況が一変したのは、財務長官がナチス・ドイツの指導者たちをつかまえたら即決処刑すること、「人道に対する罪」の責任者は軍事法廷で裁くことを提案したことからだった。ルーズベルトもチャーチルも、この考えに同調していた。しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は危機感を抱いた。そのような政策では、かえってドイツを徹底抗戦に追いやってしまうので、やはり裁判によって処罰すべきだと批判した。
 そこで、即決処刑方式は連合国全体に共通するもっとも基本的な正義の原則に反するとして否定され、主要戦犯は裁判にかけることになった。
 ドイツ指導者を裁判にかけることにチャーチル首相のイギリス政府は抵抗したが、ヒトラーが1945年4月末に自殺し、法廷でヒトラーの演説を聞かなくてよくなったので、国際裁判案をイギリスも受け入れた。
 A級とは平和に対する罪、B級とは通例の戦争犯罪、つまり戦争法規または慣例違反、C級とは人道に対する罪のこと。
 スガモプリズンで執行された最初の死刑判決は、1946年1月7日の福岡俘虜収容所第17分所(大牟田)の由利敬所長(中尉)だった。死刑は4月26日に執行された。
 捕虜への犯罪が43%、民間人への犯罪が55%を占めている。
 死刑になったのは、准士官と下士官が圧倒的に多い。将校では下級将校に集中しており、とくに大尉が多い。高級将校のなかでは、中将と大佐が比較的多い。軍人のなかでは、憲兵が高い比率を占めている。憲兵は死刑の30%、全件数の27%、人数の37%である。朝鮮人の俘虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者も少なくない。
 アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜となった連合軍将兵は35万人。そのうち29万人が開戦後、半年内につかまっている。そのうち15万人がイギリス人、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。
 日本は捕虜の「無為徒食」を許さないという方針をとり、各地で捕虜を強制労働に従事させた。きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。6ヶ国の捕虜15万人のうち4万人、28%が死亡した。これは、ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7%、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が10%だったのに比べると、きわめて高い死亡率である。
 『私は貝になりたい』という映画で2等兵が戦犯裁判で死刑に処せられているが、2等兵が死刑に処せられた事実はない。曹長ならあった。曹長と2等兵では、軍の中での立場はまったく違う。
 『私は貝になりたい』の原作者は上官の命令であったということだけでは免責されない、侵略戦争に協力した世界のすべての人の一員としてのあなたの責任が問われているという趣旨のことを指摘しています。
 イラク戦争に相変わらず狂奔するアメリカの下働きをする新テロ特措法を成立させた自民・公明の政府と、それを側面から支えている民主党の責任は重大です。
 戦争は、ある日突然に始まるものではない。この言葉を今こそかみしめるときではないでしょうか

洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された

2023-04-13 17:49:31 | 日記
洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された。それは氏の少年時代,洪中将が大尉だったころのことである。当時の日本における韓国人への差別・蔑視はいわば「あたりまえの状態」であり,帝国陸軍の大尉に向って直接こういう態度をとる者はいないとはいえ,家族は例外ではない。従って少年の国善氏にとって「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか,これはどうにかならないものか」
と父に訴えた。当時の洪大尉はこれに答えて次のように言ったという。
「これは大変に困った問題,むずかしい問題,また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが,アイルランド人とイギリス人の間に,非常によく似た問題がある。それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで,どのような扱いをうけても,決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして,どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とはっきり言い,決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」
と。

洪思翊は、朝鮮人であり、日本軍の中将出身であり、第二次世界大戦の戦犯

2023-04-13 17:22:57 | 日記
洪思翊(ホン・サイク)…

近代史の中で、彼ほど、興味深い人生を送った者はいない。

洪思翊は、朝鮮人であり、日本軍の中将出身であり、第二次世界大戦の戦犯として戦後、フィリピンで絞首刑された人物だ。

朝鮮人の中では、英親王(李垠)が日本軍の中将出身だが、洪思翊のように王族ではない一般人が、それも日本軍で将軍になるというのは、本当に興味深い人物である。

また、日帝時代に、日本の陸軍大学を卒業した人物は、英親王、李鍵、李グウ、そして一般人出身としては洪思翊が唯一である。

洪思翊は、安重根が伊藤博文を暗殺した年に純宗皇帝の命を受けて日本留学の途に出る。

純宗の軍人勅諭を持って、朝鮮の軍人として日本に国費留学し韓日併合後、日本陸軍士官学校を卒業して日本軍に入った洪思翊。

日本軍で将軍にまでなれば、親日派と後ろ指を指されてもおかしくないが、今もなおこの洪思翊という人物が、親日派と言うのには疑問がある(もちろん、親日派名簿には入っているが…)。

四書三経を丸ごと覚えた朝鮮の天才であり、最後まで創氏改名をしなかった。将校階級章をつけ、一線の舞台に配備されれば、必ず「私は、朝鮮人だ」と堂々と身分を明らかにした。

勤務先でも日本の陸軍士官学校の同期で、日本軍の中尉から独立軍に転身した池青天と連絡を取り、独立軍に加勢して家運が傾いた池を自分の給料から捻出して助けたりした。

朝鮮人の日本陸軍士官学校出身であれば、朝鮮で勤務し、偉ぶるのが当たり前の時代だったが、彼は朝鮮では一度も勤務したことがなかった。

息子の友達が、日本軍から脱走して逃げ出すのを知りながら、知らないふりをしたりもした。

日本の敗色が濃厚になった頃、東京で毎日朝鮮新報の東京特派員キム・ウルソルと会って、なぜ脱走して独立軍に加担しないのかと聞かれると…「今、朝鮮人の軍属数十万人(徴用)が連れてこられているが、将軍である私が中国の赴任地から脱出して朝鮮独立軍に行ったら、その軍属たちはどんな被害を受けるだろうか?」と話したという証言もある。

また、日本が敗戦すると、副官が「閣下、すぐに朝鮮に帰って素晴らしい仕事ができそうですね」と言うと、「私はまだ軍人だ。私がこの軍服を着ている限りは、そのような話は聞きたくない」と言ったという。

本当に興味深い…
洪思翊は軍人として生きていたかったのではないだろうか?
それが朝鮮であれ、日本であれ。

洪思翊が、フィリピンで絞首刑になった後、家族に渡った遺品はたった二つだった。
それは、純宗皇帝が中央武官学校入学生46人を日本に留学させた時に与えた軍人勅諭と陸軍大学を卒業した時に、日本の王から与えられた懐中時計だった。

純宗皇帝の軍人勅諭を37年間保管していたのだ。

日本の軍人勅諭と朝鮮の軍人勅諭は似ていた。
朝鮮は6個で、日本は5個だった。
忠節・礼儀・武勇・信義・質素…この5つは韓日で似ていたが、朝鮮だけにあったことは「軍人は言葉を慎みなさい…」だった。

洪思翊は、戦犯裁判の中で、一言も弁解もせず、証言もしなかった…
勅諭を守ったのである。

ちなみに、洪思翊は日本軍中将だったが、最後まで創氏改名をしなかったという。

翻訳元:http://www.ilbe.com/7895109574


洪思翊中将と民族の誇り

2023-04-13 17:09:49 | 日記
洪思翊中将と民族の誇り

洪思翊中将と民族の誇り

  小名木 善行  2022/3/29(火)  韓国・北朝鮮 


 人は成長することができる生き物です。同様に人種も国家も成長することができるものと思います。民族の誇りというものは、差別されたの強制連行されたの創氏改名を強要されたのと、ありもしないでっちあげで相手を非難したり中傷したりしたら生まれるというものではありません。立派に生きた先人たちに学び、自らも立派に生きようと努力するところに、本当の誇りが芽生え、育まれるのです。
 歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。


洪思翊陸軍中将

ウィキペディアより

 帝国陸軍の中将というのは、並みの努力でなれる役職ではありません。陸軍士官学校をとびきり優秀な成績で卒業し、限りない軍功を立て、人物、識見ともに誰からも尊敬を集めるだけのものがなければ、なれる役職ではありません。単なる年功序列でなれるような甘い役職ではないのです。そしてその中将となられた方に、洪思翊(こうしよく)という人がいます。朝鮮半島の出身者です。
 洪思翊中将は、李王家の縁戚でも、かつての朝鮮貴族であるヤンバンの出身でもありません。朝鮮半島の極貧の家庭に生まれ、努力して体力、知力とも優秀な成績を修め、当時の日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した人です。彼は軍人として、古今の戦史、戦術に深く通じるだけでなく、四書五経から英語にまで精通し、相撲も武道も強い人でした。
 洪中将は、新しい部隊に赴任すると、居並ぶ日本兵の前での初訓示で、毎回、次のように語ったそうです。
「自分は朝鮮人の洪思翊である。
 唯今より天皇陛下の御命令により指揮をとる。
 異義のあるものは申し出よ」
 実に堂々とした態度です。彼は、当時、多くの同国人から、「洪さん、あなたも日本人名に改名したらどうか」と勧められそうです。しかし頑として朝鮮名を名乗り通しました。彼にとって、それはあたりまえのことだったのです。自分が生を受けた自国の名を捨てるということは、自らの郷里や父祖を否定し捨てることになる。朝鮮人である自分は、日本人より遥かに立派に生きてみせる。それが誇りある男の態度というものです。
 彼がまだ大尉だったころ、彼の息子の洪国善が、近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたのだそうです。どこにでも悪童はいるものです。そのとき洪思翊は息子に、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したそうです。
 洪中将は、終戦時、南方軍総司令部の兵站総監を勤めていました。そしてB級戦犯として、捕虜虐待の罪を着せられ、フィリピンで刑死されました。洪中将が捕虜を虐待したという事実はまったくありません。要するに単なる結論ありきの、戦勝国による復讐裁判です。しかしその茶番裁判に、洪中将は判決のあと、周りの人に笑って答えたそうです。「絞首合格だったよ」と。
 絞首の「こうしゅ」を、徴兵検査の「甲種合格」にかけたのです。そして平然として処刑台に向かわれました。
 辞世の句は、
 
 昔より 冤死せしもの あまたあり
 われもまたこれに 加わらんのみ
 当時の朝鮮人の中には、洪中将の他にも、日本人部隊を率いて抜群の武勲を立てて、軍人としての最高の名誉褒章である金鵄勲章を授与された金錫源陸軍大佐、陸軍士官学校を抜群の成績で卒業し、終戦時は満洲国軍の中尉となり、後に韓国大統領となった朴正熙、朝鮮出身者でありながら特攻兵に志願し、沖縄の空に散った金尚弼ら14人の航空隊員、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じ、同国の独立のために最後まで戦った梁七星、その他、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名など、多数の人たちがいます。
 昭和18年に行われた朝鮮志願兵の募集(それまで支那事変や大東亜戦争を戦いながら、日本は朝鮮半島での志願兵募集をしていません)には、6300人の募集枠に対し、なんと30万人以上の青年の応募が殺到しています。合格倍率は、なんと48倍です。血書による嘆願も、数百人にのぼり、採用されず、自殺までした青年も現れて、当時の朝鮮総督府を困らせました。
 大東亜戦争に、自ら進んで軍人、軍属として出征したKoreanの青年は合計24万人です。そのうち2万1000人余りが戦死し、いまも靖国神社に祀られています。東京裁判で、A級戦犯として禁錮20年の判決を受け、獄死した東郷茂徳外務大臣も朝鮮人です。
 人は成長することができる生き物です。同様に人種も国家も成長することができるものと思います。民族の誇りというものは、差別されたの強制連行されたの創氏改名を強要されたのと、ありもしないでっちあげで相手を非難したり中傷したりしたら生まれるというものではありません。立派に生きた先人たちに学び、自らも立派に生きようと努力するところに、本当の誇りが芽生え、育まれるのです。
 一部の方々は、筆者を差別主義者だとレッテルを貼って嫌います。
筆者が、拒否しているのは、韓国や在日コリアン活動方針の反日活動です。
 それは、空想を宣伝し、自分たちを空想で正当化し、自分たちだけの利益を図ろうとし、人々の生活を奪う身勝手な行動だからです。
まっとうに生きる個々の人ではありません。
 真面目に一生懸命生きようとしているすべての人が、「おほみたから」です。それぞれが本分をわきまえ、しっかりと生きていくところに、人にも国家にも幸福があります。したがって、これを自己の利益のために破壊する者は、人体のがん細胞と同じです。癌細胞は、好きも嫌いもなく、退治しなければなりません。けれど、がん細胞を拒否することと、人体そのものを拒否することとは、まったく別次元の問題です。
 洪思翊中将のように、民族として真の誇りがあるのなら、正々堂々と真実を受け入れ、嘘と虚構を排除することです。
 日本をかっこよく!
お読みいただき、ありがとうございました。






日本よりはるかに大変! 低出生率に悩む韓国の人々の声

2023-04-13 11:48:25 | 日記
日本よりはるかに大変! 低出生率に悩む韓国の人々の声

牧野 愛博 | Official Columnist

2022年に生まれた子どもの数が初めて80万人を下回った。厚生労働省によれば、2022年の出生数は79万9728人。21年より約4万3千人(5.1%)減った。出生率の減少は7年連続で、80万人を下回ったのは統計を取り始めてから初めてのことだ。異次元の少子化対策を掲げる岸田文雄首相は記者団に対し、「これは危機的な状況だと認識をしています」と語った。

さらに日本よりも深刻なのがお隣の韓国だ。韓国統計庁が2月22日に発表した資料によれば、韓国の22年の出生率は0.78で、前年の0.81を下回った。経済協力開発機構(OECD)加盟国では最低の数字だ。ソウルに住む自営業の韓国人男性(50代)は「日本の出生率はまだ、1を上回っているじゃないか。我々に比べればずいぶんマシに見える」と語る。

韓国の少子化の原因を巡っては、不動産価格の高騰や社会制度の不備など、いろいろな指摘がある。なかでも、最も深刻だと言われるのが教育を巡る問題だ。韓国の学歴競争は「熾烈」の一言に尽きる。

子供は未就学児のころから、「学院(ハグォン)」と呼ばれる塾に通い始める。下校時間になると、学校の周りに黄色いバスが集まり始める。塾の送迎用バスだ。そこで、子供たちは毎晩、午後10時過ぎまで勉強する。子供を集めるために塾の競争も過熱し、地方自治体によっては「深夜から未明にかけての塾の営業禁止」という条例を定めているほどだ。

この男性には数年前に就職した長男がいる。長男はめでたく、最難関のソウル大を卒業した。男性は長男が小学校のころから、毎月200万ウォン(約21万円)の「私教育費」を投じてきた。この男性は「ソウル大の合格者の住所をみると、みなソウル・江南(カンナム)などに集中している。評判が良い学院があるところばかりだ」と語る。こうした地域は高級住宅街であることが多い。

男性の知人は、子供のために江南に移り住んだ。20坪(約66平方メートル)の小さなマンションだったが、毎月の家賃の代わりに大家に支払った「チョンセ」と呼ばれる保証金は20億ウォン(約2億1千万円)にものぼったという。

韓国では最近、ドラマ化もされて有名になった「イルタ講師(カンサ)」という存在がある。

「イルタ(一発)でどんな難関校にも入れてしまう凄腕講師」という意味だ。韓国のSNSをのぞくと、「年収5億ウォン」とか「高級外車を買った」などバブリーな生活を謳歌する「イルタ講師」たちの書き込みが目に留まる。こんな職業が存在すること自体、「何としても良い大学へ」と願う親や子供が数多くいることを物語っている。

また、韓国では「親の責任」が長くついて回る。海外暮らしが長かった60代の元外交官は「米国の場合、親の責任は子供を大学に入れるまで。子供は大学の入学金を自分の責任で支払う。親も気が楽だから、子供を持つことにそれほど抵抗がない。それに比べ、韓国は延々、子供の面倒を見る羽目になる」と語る。

韓国では、子供が結婚する際、親が結婚式や新居の費用まで面倒をみるケースが一般的だ。韓国では長く、共働きが定着している。社会制度の不備を補うため、夫婦が働いている間、双方の親が孫の面倒を見ることも多い。

さらに、「孫を良い大学に入れる条件」として、韓国人が口をそろえるのは「父親の無関心、母親の情報力、祖父母の財力」だ。元外交官も「いつまで立っても、子供の面倒をみる羽目になる。だから、子供を持つことが負担になる」と語る。

韓国のメディアで働く30代の未婚女性は「私もいずれ、結婚することになると思う。でも、背負わなければいけない巨額の教育費や将来への負担を考えると、夫になる人に子供を持ちたいとはとても言えない。こんな熾烈な学歴競争はやめてしまえばよいと思うが、周りをみて、自分の子どもにだけやめさせる勇気がどうしても出てこない」と語る。

厚労行政に詳しい武見敬三参院議員によれば、しばしば、少子化政策が成功した「お手本」とされるフランスに比べ、日本や韓国が置かれた状況は厳しい。武見氏は「少子化対策は最大の高齢化対策だ。しかし、65歳以上の高齢者が全人口に占める割合が7%から14%に増えるのに、フランスの場合は90~100年かかった。少子化対策の準備にかける時間的な余裕があったわけだ。これに対し、日本は22年、韓国も19年しかかからなかった」と語る。

韓国メディアや世論の一部からは、「このままでは国がなくなってしまう」という悲痛な声も漏れ始めている。