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異論抑えて臨んだ日韓首脳会談、見返りの少なさに保守派も尹錫悦擁護を躊躇

2023-04-14 18:45:07 | 日記
(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

異論抑えて臨んだ日韓首脳会談、見返りの少なさに保守派も尹錫悦擁護を躊躇

 韓国の尹錫悦大統領は、国内の世論を押し切るかたちで元徴用工問題の解決に取り組み、訪日して行った岸田首相との首脳会談で、日韓のシャトル外交を復活させた。尹大統領の行動は、韓国の国益という観点から極めて意義深いものであった。

 しかし、元徴用工や市民団体の主張よりも日本側の立場に近い線で問題解決を図ろうとする尹錫悦政権に、前大統領の文在寅派などから激しい批判が浴びせられることになった。文在寅派による批判には驚かない。問題なのは保守派でも尹錫悦大統領の擁護に躊躇するようになってきていることである。

「国賓訪米」で支持回復を見込んでいたが…
 文在寅派の反対は想定されていたことだった。

 それでも尹大統領が徴用工問題解決案を発表した時点では、大統領を支える保守派の結束は固いかと思われていた。解決案発表直後に行われた、与党「国民の力」の代表選挙では尹錫悦氏に近い金起鉉(キム・ギヒョン)氏が1回目の投票で選ばれ、最高委員も尹大統領に近い人々で固めた。

 ところが、尹大統領の訪日で潮目に変化が出てきた。日本の立場に寄り添ったつもりだった尹大統領だったが、岸田首相との首脳会談で、韓国側が期待していたほどの「見返り」が日本から提示されたかったことから、韓国保守層の結束が揺らぎはじめているように見える。これがいま尹錫悦大統領の外交姿勢を強く批判する動きに結びついている。こうした流れがどこまで続くのか懸念される。

 尹大統領は、徴用工問題の解決案発表の翌日、バイデン米大統領から国賓として招待され、4月末に米議会で演説することも決まっている。また尹大統領の徴用工問題解決に向けた行動は、欧州諸国の外相等からも評価されていた。

 尹大統領にとって米国訪問は、日米韓を中心に西側諸国との固い連携をとる韓国の外交姿勢を表明する良い機会になるだろう。同時にこの米国訪問が大統領の外交の成果となれば、「失地回復」にも結び付くという期待もある。

 ところがそうした中、米国政府の機密文書流出によって、米CIAが韓国大統領室の国家安保室を盗聴・通信傍受をしていたことが濃厚となった。そのため米国と米国を庇おうとする尹政権に対し、野党を中心に「軟弱外交」として強い非難が生じている。

 訪米を機に支持率を高めようとしていた尹大統領にとって、先行きが危ぶまれる事態となっている。

(略)

 最近の尹錫悦大統領の支持率低下の原因として、保守層の支持が揺らいでいることは気がかりである。もともと革新系は尹大統領を支持しない、中間層の支持率は高くない。そこに来て基盤である保守層の支持が揺らいでいることは尹大統領の今後の政権運営に悪影響を及ぼしかねない。

 しかもその発端となったのが対日関係であり、韓国国内では、先般の大統領の訪日においては韓国側から一方的に譲歩し、日本側の持ち出しはないとの認識が広まっている。尹大統領にとって今後対日関係で動ける余地は少なくなっている。

(略)

 日本側としては、このサミットを機に日米韓の連携を一層強化させることはもちろん、日韓関係を今後どのようにしようとしているのか、明確な展望を持って尹大統領との会談に臨むことが必要だろう。そのためにも、日韓の経済関係をいかに強化できるかポイントとなろう。

 その象徴的なものは、半導体素材の輸出に関し韓国を、輸出手続きが簡単な「ホワイト国」へと復活させる措置である。そのための条件を整備させるべく話し合いを加速化させる必要がある。また日韓のビジネス連携を深めることが重要である。

(略)

 ハッキリ言えば、尹政権を窮地に追いやり、文在寅氏やその支持者グループの復権を手助けすることは日本の国益を害することになる。これまでの韓国のちゃぶ台返しによって、日本国民の韓国への不信感が募っているのはわかるが、その原因を作ったのは韓国の革新系政党と市民団体である。今後の日韓関係を考えれば、日本としても、韓国に革新系の政権が再度誕生しないようにするために尹錫悦政権と協力していく以外ないことは疑いのないところである。その意味で現在は重要な分岐点に差し掛かっている。そうした視点で日韓関係に取り組むことが重要である。

東京大空襲78年 「生き残ったから、記憶は伝える」鷲山洋子さん

2023-04-14 18:14:59 | 日記
東京大空襲78年 「生き残ったから、記憶は伝える」鷲山洋子さん

2023/3/8 22:42深津 響

東京大空襲後に避難先となった浅草小で、大石京子校長(右)から、当時の校舎の手すりについて説明を受ける鷲山洋子さん=東京都台東区(深津響撮影)

先の大戦で、米軍の無差別爆撃によって老人や子供ら非戦闘員10万人以上が犠牲になった東京大空襲から、10日で78年となる。ときの経過によって、空襲の経験者は少なくなるなか、当時、浅草で空襲に遭った大田区の鷲山洋子さん(90)は、今年初めて追悼集会で講演を行う。鷲山さんは「友達は話したがらないが、私は記憶に残っているので話す。私は生き残ったから…」と理由を語る。
「軍隊が持ってきてくれたおにぎりだったんですね」
鷲山さんは今月3日、当時避難していた台東区立浅草小を訪ねた。同校に残っている記録について、大石京子校長から説明を受け、そう言葉を漏らした。
浅草小は空襲時、職員の消火活動により、被害を免れ、避難所として使用された。鷲山さんは母親と3人の兄弟とともに身を寄せ、当時、学校には2千人以上が避難していたという。
「おにぎりを食べて、毛布をもらったことだけ覚えている」という鷲山さん。学校の記録によれば、軍がトラック2台分のおにぎりを運んできたという。
「怖さと寒さでいっぱいだったのだと思う」。避難者数や食料配給の経緯を知った鷲山さんは、こう振り返った。
鷲山さんは昭和8年生まれ。両親のほか、2歳上の兄と2人の弟がおり、浅草・雷門の裏通り沿いに住んでいた。昭和19年秋、小学6年生だった鷲山さんは、同級生40人とともに、茨城県の寺院へと疎開。翌年3月3日に、進学準備のため、浅草へと戻ったという。父は召集され、家を離れていた。
1週間後の10日未明、東京大空襲が始まった。寝ていた鷲山さんは、母に「起きなさい、起きなさい」とたたき起こされ、目覚めた。枕元の防空頭巾をかぶり、バッグを肩にかけて外に出ると、B29爆撃機が屋根に乗っていると思うほど、低空を飛行していたという。


上野方面も浅草寺方面も火災で空が赤く染まっていたことから、隅田川沿いの隅田公園へ逃げることにした。リヤカーに卵や砂糖を載せ、その上に布団をかぶせ、家族で押しながら移動を始めた。だが、空襲による火災の影響で「風が渦巻いて、前からも後ろからも強風が来て、一歩一歩進むことが大変だった」と振り返る。
吾妻橋までたどり着くと、松屋浅草の窓から火が吹き出し、対岸では強風にあおられて、大きな板が舞っていたという。川べりにある隅田公園には防空壕(ごう)があったが、いっぱいで入れなかった。壕の外は「強風の中に火の粉が混じっていて熱かった」。川のそばに行き、母がバケツで水をくんで、鷲山さんにかけることで耐えた。
空襲が収まると、浅草小へと避難。道中、母が防空頭巾で視界を隠し、街の惨状をみせないようにしてくれたという。家を訪ねてみると、建物は全て焼け落ち、地下の部屋に備え付けた水道から、ポタポタと水が垂れていた。1週間後、浦和にある知人の家へ、家族で身を寄せ、その後、高円寺へと引っ越し、終戦を迎えた。

終戦後も母と空襲の記憶については話さなかったという。「楽しい記憶ではないので話さなかったのだと思う」。だが、鷲山さんは講演に向けて、記憶を整理したり、かつて逃げた道をたどったりしたという。

世界では、ロシアによるウクライナ侵略から1年以上がたち、多くの民間人が戦災に巻き込まれている。鷲山さんは「ウクライナの報道を聞くと、私が体験したように、家を焼かれたりして本当にかわいそうだと思う」と語った。

(深津響)


早乙女 勝元

2023-04-14 18:04:12 | 日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



早乙女 勝元
(さおとめ かつもと)誕生死没職業言語国籍最終学歴ジャンルデビュー作活動期間
1932年3月26日
東京府東京市足立区
2022年5月10日(90歳没)
埼玉県
作家
日本語
 日本
東京都立墨田川高等学校
平和文学
『下町の故郷』(1952年)
1952年 - 2022年
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早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - 2022年5月10日)は、日本の作家・児童文学作家。東京府東京市足立区出身。

生涯[編集]

1945年3月10日未明、12歳の時に東京大空襲を体験し、九死に一生を得る。この体験が生涯にわたる反戦・平和運動の原点となった。
1946年に義務教育を終え、鐘紡附属東京理化学研究所(当時)に少年工として勤務する。かたわら旧制都立第七中学校(現・都立墨田川高校)夜間部に入学。
1952年に「下町の故郷」で直木賞候補。
1956年、「ハモニカ工場」で作家として独立[1]。
1962年に音楽大学を卒業したばかりの金子直枝と結婚。直枝は小学校教師となった。
1970年に「東京空襲を記録する会」を結成[1]。
2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任[1]。2019年退任、名誉館長。
2022年5月10日、老衰のため死去[1]。90歳没。

人物[編集]

  • 東京の働く姿を描いた作品が多く、また反戦・平和をライフテーマとした。
  • ベトナム戦争のときの空爆被害の救援にも力をいれていた。
  • 山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。
  • 毎年3月9日前後には必ず朝日新聞の投書面「声」に、東京大空襲を忘れてはならぬ旨、投書し採用されている。

早乙女勝元「東京大空襲」

2023-04-14 18:00:00 | 日記
早乙女勝元「東京大空襲」

NHKの特別報道番組「東京大空襲」に触発されて、早乙女勝元さんの「東京大空襲」(岩波新書)を三十数年ぶりに読み返した。

早乙女さんがこの本を書いたのは1970年というから戦後25年がたっていたわけだが、その時点でも、この歴史的な事件についての調査は殆ど進んでおらず、全容の把握が困難な中で、早乙女さんは奇跡的に生き残った人々の記憶を頼りに、この空襲がどんなものだったか、再現して見せた。

初めて読んだ時も衝撃をうけたが、今読んでも身の毛がよだつような興奮を覚える。

早乙女さん自身がこの空襲を、身を以て体験したひとりだった。

だからこの空襲の非人間的な性格や、殺された人々の無念さは、現場感覚を以て理解できる立場にある。

その自分自身の体験のほかに、協力してくれた数人の人々の記憶を寄せ集めて、この空襲の実態を再現して見せてくれたわけである。

早乙女さんを含めてこの空襲を体験した人々が共通して感じたことのうちで最も印象的だったのは、自分たちを攻撃しているアメリカ兵の存在を間近に感じたという彼らの証言だ。

B29はそれこそ地面すれすれの低空飛行を行って、いたるところに焼夷弾を落したばかりか、逃げ惑う人々を標的に銃弾射撃を行った。

 証言した人々は、自分たちを狙い撃ちにしてほくそえんでいるアメリカ兵の顔が見えたとも言っており、この空襲が抽象的なものではなく、極めて身近で人間的な暴力の性格をもっていたことを物語っている。

次に印象的なことは、この空襲が非常に綿密なプランに従って整然と行われたということであり、そこに悪魔の冷酷な意思のようなものが感じられるということである。

B29の編隊の最先端はいったん東京上空に現れてすぐに去るという行為をすることで東京市民を油断させておいて、その数時間後に大編隊で再度現れるや、まず下町の周辺部に焼夷弾を落して火の壁を作り、市民の逃げ場を塞いでおいてから、じわじわと火の壁の内部の町を焼き尽くし、逃げ惑う人々を殺しつくした。

焼夷弾にはいくつか種類があった。まずナパーム弾といわれる油脂焼夷弾は、燃焼力が強力でしかも時間が長続きする。これでもって下町の周囲をぐるりと包囲するように、火の壁を作る。

 次にM69型といわれるものは、落下した瞬間真っ赤な炎と5メートルにも上る黒煙を上げる。水をかけてもかえって燃え広がるといった立ちのわるい焼夷弾だ。これが逃げ惑う人々の頭上にそれこそ雨あられのように降り注いできた。

また「モロトフのパンかご」と称されるものは、空中で親爆弾が爆発してそこから子供の焼夷弾が飛び散り、至る方向に火の玉をまき散らすというものだ。早乙女さん自身、逃げ惑う途中でこの子ども焼夷弾に見舞われる寸前の危機に陥ったという。もしも御見舞いされていたら、今頃は生きてはいなかったはずだというから恐ろしい。

3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。

米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、使者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

これは空襲をした当事者の調査結果だが、空襲を受けた当事者である日本国の政府は、被害の実態についてまともな調査を行っていない。

これはハンブルグなどに深刻な空襲を受けたドイツ政府が、被害の実態について詳細な調査を行っていることと比べて、信じられないほどの無作為ぶりである。

だいたい、政府は国民に対してこの空襲の被害の実態をまともに知らしていない。3月10日の正午に大本営がラヂオを通じて次のような発表をしただけだ。

「本3月10日零時過より2時40分の間B29約130機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
「右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省首馬寮は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり
「現在までに判明せる戦果次の如し
「撃墜15機 損害を与へたるもの約50機」

空襲の規模を過小に見積もり、ありもしない戦果を誇示する、その一方で宮内省のことばかりを心配し、膨大な数の被害者については歯牙にもかけない、日本政府のスタンスが文面から透けてみえるというものだ。

こんなわけだから、日本政府は、死んだ人には敬意を払わず、被害を受けた人々の救済にも無関心だった。

そんなわけで、この空襲の事は戦後も公に触れられることは殆どなく、歴史の闇に埋もれようとしていたところを、早乙女さんたちが立ち上がって、記録の運動を繰り広げたというわけなのだ。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。

ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。

 こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。

韓国の中国離れは、外交面にハッキリと現れて来た

2023-04-14 16:42:16 | 日記

2023年04月14日

  • 中国経済ニュース時評韓国経済ニュース時評
   
韓国の中国離れは、外交面にハッキリと現れて来た。広島で5月に開催されるG7首脳会議で、ユン韓国大統領は日本からゲスト国として招待される。韓国外相は、「G7と共に歩む」と発言するほどになっている。文政権時代とは異なり、旗幟(きし)を鮮明にした形だ。

これに驚いたか、中国の習近平国家主席が4月12日、広州に立地する韓国のLGディスプレイ工場を電撃視察した。2012年の国家主席就任以来、習氏が韓国企業の現地工場を訪問したのは初めてだ。

中国国営「新華社」によると13日、習主席は12日広州にあるLGディスプレイ工場を訪問して約1時間にわたって説明を受けた。習主席はこの席で、「外国投資家は機会をつかんで中国に来て、中国市場に根をおろして企業の発展が新たに輝く時代を創造するよう希望する」と述べた。複数の消息筋は習主席が韓中間の友情を強調する話をしたとも伝えた。以上、『中央日報』(4月14日付)が報じた。

習氏のこうした「見え見え」の行動の裏には、韓国外交が「二股」を精算しようという動きを警戒し、中国へつなぎ止めようという狙いであろう。だが、中韓貿易関係はすでに構造変化を起こしている。韓国の輸出1位国が、これまでの中国から米国へ移ったのだ。中国経済の停滞がもたらす輸入減が、中国の産業構造変化もあって韓国の対中輸出を減らし、逆に米国が1位へ浮上している。韓国が、経済的にも米国へ顔を向けるのは当然であろう。

『ハンギョレ新聞』(4月13日付)は、「韓国の輸出1位の国、20年ぶりに中国から米国へと大移動」と題する記事を掲載した。

長期化する米中貿易紛争や、コロナ禍を経て明確になったサプライチェーンの変化、世界経済のブロック化現象などが、韓国の輸出に波紋を起こしている。この20年の間、中国が占めてきた韓国の輸出市場1位の座が、米国へと移る兆しをみせているのも、このような構造的な流れによるものだ。

(1)「韓国政府と韓国貿易協会の貿易統計資料によると、今年に入り1~3月の韓国の総輸出に占める対中輸出の割合(金額ベース)は19.5%。第1四半期の実績ではあるが、中国への輸出の割合が20%以下に下がったのは2005年以後初めてだ。昨年の対中輸出の割合は22.8%だった。昨年初めから続くDRAM価格の急落で、半導体輸出が大幅に減ったためだ。中国への輸出に占める半導体の割合は、この3年間で約30%水準だった」

韓国の対中輸出シェアは、今年1~3月期に20%を割り込んだ。2005年以来のことである。問題は、この減少傾向が2018年以来ずっと続いている点にある。

(2)「変曲点は2018年から発生している。対中輸出の割合は2000年に10.7%だったが、2001年末の中国の世界貿易機関(WTO)加盟後、中間財輸出ブームに乗って4~5年で21.3%(2005年)に上昇。2018年には26.8%にまで拡大した。しかし2018年秋に起きた米中関税紛争が半導体・通信・二次電池などハイテク部門にも広がり、対中輸出の割合は最近5年間で7.3%ポイントも下落。現在、対中輸出の割合は2004年(19.6%)とほぼ同じだ」

韓国の対中輸出比率は、中国のWTO加盟以来一貫して上昇し。2018年には26.8%と4分の1強に達した。文大統領(当時)が、中国へ最敬礼した背景だ。だが、その後は下降を辿っている。現在は、2004年のレベルまで低下した。

(3)「中国の輸入市場における韓国製品シェアは、7.5%(2022年)で、2001年以来最も低い。韓国は2013~2020年の8年間、日本を抜いて中国輸入市場シェア1位だったが、最近2年連続で台湾に押され2位にとどまっている。この3年間の韓国の中国輸入市場シェアの平均下落幅(1.9ポイント)は、中国と対立してきた米国製品の下落幅(1.3%)よりも大きい。輸出がマイナス(前年同期比)に転じた昨年8月以前から、すでに中国市場の輸出に構造的変化が進んでいたというもう一つの証拠だ」

中国の輸入額1位は、2013~2020年の8年間は韓国であったが、その後は台湾に首位を譲っている。非メモリー半導体が台湾を押し上げたのだ。こうして韓国は後退したが、中国での輸入シェアでは米国以上の落ち込みになった。中国輸入での韓国の退潮が著しいのだ。
(4)「国際金融センターは、最近出した報告書で「中国が『製造2025戦略(2025年までに重要部品・材料の国産化率70%達成、2015年に公表)を本格的に推進してから、韓中二国間の輸出同調化現象も大きく弱まった」とし「韓中輸出はすでに補完関係から競争関係へと転じた」と評価した。中国の技術力向上と内需中心の成長構造への転換、グローバルサプライチェーンの分節化の進展などの要因が、このような変化を招いているという意味だ」

下線部のように、中国は「中国製造2025年」目標に沿って2018年以来、国産化率の引き上げが進んでいる。中間財の国産化進捗はその手始めだ。韓国製品が、中国と競業関係になったことは確実で、「輸入代替化」が進んでいる。韓国製品の輸入を国産品で代替できるようになったのだ。

韓国の対中輸出は、大転換期を迎えたのは確実である。こうなるともはや、中国へ遠慮して「二股外交」する必要性は薄れる。正々堂々、主張すべきは主張することだ。韓国外交が、独り立ちできる環境が整ったのだ。