完璧さを見る-See a perfection
ボルショイバレエを見ると
Seeing a Bolshoi Ballet performance
完璧さの意味やその状態を確かめることができる
Can verify the meaning of perfection or its state
劇場のスクリーンからではあったが
Although the ballet performance was from screen in cinema
ボルショイバレエの白鳥の湖を観て
完璧さに胸を激しく打たれた
My heart was touched intensely
-watching the perfection of Bolshoi Ballet, Swan Lake
その完璧な舞を見ながら
While I was watching the perfect ballet
坐禅における自我の扱い方と
Between treating of an ego in zazen and
バレエにおける自我の扱われ方には
-how an ego treated in ballet, these two
どこか共通の要因があるのではないかと思った
I thought that there somewhat might be common factors
要するに、坐禅をすると
Point is, by doing zazen
自我への執着から起因する重苦しい煩悩を
The gloomy passions that caused by obsessing onto ego
少しでも軽減することはできる
-it can be reduced at least
我を無にすることはできなくても
Even though it would not able to empty possessed ego
その我が煩悩を作っていると気づくことはできる
-it leads to be realized that the ego makes possessive passions
バレエの稽古をすると
By practicing ballet
バレエの形式に近づくために
To getting close to the ballet form
我を忘れるほどの演習が必要になってくる
-it is in need the necessary of practicing that enough to forget a self
バレエの正しい立ち方
The accurate ballet standing form
バレエの正しい歩き方ができるためには
To be able to ballet walking accurately
体の限界まで自分を鍛えなければならない
Must train body to the physical limit
プリマバレリーナ、スベトラーナの舞を見ると
Svetlana the prima ballerina, look her ballet performing
彼女が到達した境地、つまり
The eminence where she reached, in briefly
彼女自身の肉体上の限界を遥かに超え
It has exceeded far beyond her own physical limits
バレエの厳格な規律も遥かに超え
It has passed far beyond the rigid ballet regulations
人間の体の可動閾値も遥かに超え
It also has passed far beyond the human body movable threshold
完璧の閾値の境地さえも超え
The threshold of perfection even passed the eminence
超越さを見せている
Her transcendence comes into display
また彼女の優雅さは感覚の閾値も超えて
Her elegance also exceeded sensing threshold
あるべきバレエそのものを見せているのだ
It shows the ballet which should be
彼女からは限定された自我が見えない
Her ego which is limited is not be seen
だが、彼女が引くバレエの動線は
However, the ballet flow line she draws
誰も真似できない彼女だけのエネルギーがある
Her flow line has its own energy which nobody can imitate
爪先だけで回転をしても
Pirouetting on her toes only
全くぶれない不動性がある
-it has immobility that never blur
その自我の限定性を無くす過程が
The process of eliminating that restraint of ego
坐禅の演習に似ている
-it is similar with zazen practicing
自我の限定域から解脱すると
Breakaway from the threshold of egoity restriction
個人の自我を決める閾値を超えることができる
Can exceed the threshold value that make an individual’s ego
解脱した閾値の領域も超えることができる
Also, can exceed the region of threshold value that has been breakaway
悟りを計る閾値さえも超えることができる
Even can exceed the threshold scale of enlightenment
スベトラーナが見せている計りの閾値を超えた境地が
The eminence Svetlana shows that exceeded threshold value
悟りの境地かもしれない
-maybe it is the eminence of enlightenment
坐禅の稽古で
With zazen practicing
自我が持つ限界性や限定性を超えられる
It makes exceeding the ego’s limitation and restrained ego
スベトラーナのように
Like Svetlana
自我に執着しないで
Not possessive on ego
バレエの稽古そのものに成り切れば
If can certainly become ballet practicing itself
その結果、完璧なプリマバレリーナとしての自我を確立できる
As the result, can establish an ego as a perfect prima ballerina
坐禅の稽古も
Also, practicing zazen
自我に執着せず
Not to be possessive on ego
五感そのものに成り切れば
If have completed as being five senses
その結果、完璧な自我の核心を確立できる
As the result, can establish egoic core perfectly
バレエが体の限界を超えて完璧になれるように
As ballet becomes perfection as it exceeds physical limits
坐禅の演習で自我の限界を超えて
Practicing on zazen leads to exceeding ego’s limits
自我の解脱状態に到達することができる
Can reach to the states of breakaway ego
煩悩にぶれない不動な核心に迫ることができる
Can draw closer to the immovable core which does not blur by passions
彼女のバレエは私の心の迷いを祓い
Her ballet exhorted ambivalences in my mind
完璧というのはどういうものかを見せてくれた
Showed me how to be a perfection and what it is
注:スベトラーナに書いた以前の記事は下のURL
Note: Previous article URL about Svetlana
http://blog.goo.ne.jp/hasunohana1966/e/06d5fdd30699060b2cb1d0dfa295e6f0
I am pleased to display my full name even if it is not unique. And I have no issue displaying my name even if my last name in Japanese is Ringonoki. :-)
More seriously, previous commenter (T) (Very short name, but perhaps unique. How many people do you know named "T" Ha!!!) noted the following: "It seems that there are still many acquired factors that are not only congenital DNA takeover."
I support this proposition and provide the following data: The child psychologist Jean Piaget showed that humans are only partially hard wired, and the brain goes through multiple developmental stages after birth, almost wholly dependent on environment, upbringing, etc.
Additionally, criminal law experts in the united states are debating the punishment of offenders between the ages of 15 and 21. The latest studies indicate that the human brain is still developing (wiring up its synaptic links) into the early 20's. Here in America some say this data supports relaxed punishment for offenders 21 and under as their sense of self and decision making ability is not yet fully developed, according to psychologists and clinical researchers.
Regardless of your stance on criminal punishment, it is interesting concept.
The adaptability of the human brain, its apparent plasticity for over two decades during development after birth, suggest that clones may be highly divergent, but not necessarily in every case.
If anyone reading this has a twin, you experience would be interesting to read about.
また出生時自然分娩の時は赤子は産道の雑菌を引き継いでくるので免疫力を獲得するが、クローン人間では其れが出来無いなどと言う事も後天的な性格形成に影響が在るともいえる。
注)帝王切開の場合は医者は赤子に産道の雑菌をこすりつけるのだそうだ。
先天的なDNA引き継ぎのみでない後天的要素はまだいくらでも考えられる様だ。
。
GenotypeとはDNAの遺伝子(Gene)から来るもので、先天的な性格を形成し、人格(自我)の50%以下だとされている。
Phenotypeとは育った環境(Phenomenon)で、後天的に獲得する性格で人格(自我)の50%以上を形成しているらしい。
生みの親と育ての親が互いに親権を争う場合は、法廷では育ての親が勝つとかだそうだ(多分?)。なぜなら育ての親から与えられた後天的なフェノタイプがその子の性格を決定しているからだとからしい。
しかし他方に於いて、
誕生当初に遠くに引き離された1卵生双生児が
同じ能力・生理状態・性格を持つ傾向にあるとかいう研究も無きにしも非ずのようだ。
しかし常識的に考えると人は受ける教育・友人・周りの環境で大きく変わると考えた方が妥当な気がする。
Tが知る一卵性双生児姉妹(一緒に住んでいる)を父親が区別する時は一つの耳たぶにほくろがあるか無いかで見分けると言っていたが、一人は建築家になり、もう一人は社会学を専行した。
これはジノタイプなのかフェノタイプなのか分からない。
アインシュタインの細胞からクローンを作っても
アインシュタインにはなれない筈と考えて良いようだ。
左脳が30%
右脳が70%であった。
私の夫の結果は
左脳75%
右脳25%であった。
Tの分析を期待しておりまする。
その人のDNAは全く同じで
Aから採集したDNA情報から
Bのクロン人間を作ったとしたら
Bの自我はAの自我とどう違うだろうか。
Bの自我はAと全く同じだろうか?
もし、そのAとBが
同じ時間を費やして
坐禅をしたら
同じやり方をして
到達する時点は同じだろうか?
生きている実感も同じだろうか?
これらについて
納得のいく返答ができたら
上記の見解(T的な解釈)は
一般論を帯びた論拠として
成り立つだろう。
女脳の方が右脳のウェイトが(男脳の場合よりも)かなり大きいという事が出来るであろうか?
(注)但し左脳機能も十分残っている筈であろう。なぜなら一般的には女の方が地面に根を張って現実世界でしっかり生きているのだから・・・
それに比べて男は左脳特有の空論を弄ぶ。現実認識が素直に出来ず必ず(とかく)理屈を前に出す。男の「無我」論も頭の中での概念に過ぎないのかもしれない。無我と言わずに(なんか訳の解らない)変性意識と言い換える事に成る。
(=女の無我は実感が伴う生きてる無我だが、男の無我は自分に課せた目標概念に過ぎぬ)。
ーーーーーーーー
処で、もし人間に初めから右脳機能だけしか無かったとしたら、
100%「無我」の世界で生きることに成ると考えられるが、その時は自分が「無我」の世界で生きているという事を認識出来ないのだと思う。
実に「無我」という意識は左脳の認知機能という事に成る。すなわち、左脳自身の自我意識と右脳の世界観とを、左脳が対比して眺めたとき初めて「無我」と言う概念が生れて来るという事だろう。
ならば「無我」が右脳機能であるとして、
坐禅で見えて来る「本我」(=真我)はどちらの脳の機能なんだろうか??
一般的に問われるその手のQ&Aで、男の僧侶の回答は
かなり観念的で教義的で、あまり実践的に役に立たない言葉が出て来る傾向があるようだ。難易度が高い。
女脳からの答えはかなり右脳の感性の世界に直結している様だ。平明で感情に訴えかける。
心理学的には実に面白い言葉なんだと思えて来た。
それこそ一冊の本が書けそうな感じがする・・・坐禅とも相性が良い命題だ(総括するのは・・・レンさん、頑張って下さい!)。
TにはT風の「生きている実感」への個人的究明への動機が有る。人さまざまな見方があるのだろう・・・たぶん??
でもその本質は何なのだろうか??
どういう精神状態の時そう感じるのだろうか??
そう感じる事は人間に必要なのか??
そう感じる様にするためのテクニックはなにか??
mmmこれは万人が知りたいことだ。DNAの基本設計基準書だ。
仏教的な一般論としては、
「生きている実感」なんて無いのが当然だと言う。人が生きているというのは幻想に過ぎないから・・・ヒトは生きているのではないのだから・・・仏教ではそれを「無我」と言うのだ・・・とかなるようだ。
レンさんが言う様な形だと、自傷行為(苦行)で「生きている実感」を感じるとした。
ならば坐禅で二時間も坐っていれば足が痺れて充分自傷行為をしたと言う事で、「生きている実感」がヒラメクのか?
又は坐禅で「自分が自分の主人公であることを取り戻す、自分を自由に開放する、自分の存在を許せる、ありのままを認める、自分が本当にやりたいことを見出す~~」と言う事の方にこそ「生きている実感」が出て来るものなのか??
T的に言えば、
日々の些細な事に、自然界の小さい森羅万象に、
小さな新しい発見や新しい出来事を見いだし、それを自分の人生そのものとして感じ同化する事の中に「生きている実感」を感じるという事であろうかと思う。
そう思える気持ち的余裕は、自分の人生の過去において熾烈な苦闘を乗り越えて来た事を基礎にして、その上に成り立っている今の安堵感(達成感)が、
今の自分の思考の源流になっている様に思える。
心理学では氷山の浮いている部分で例えられて、黒板によくかかれました。
無意識は点、点、点の情報@Tの解説の方が、意識されてない意識だという説明よりはリアルです。
Cache memoryに用語は探してみます。
脳波の種類や電波の種類はとても面白いですので、喜びで読みました。
残念ながら補足を加えられない知識の欠如のため、さらに追加説明できません。
教わるばかりです。
恐れ入ります。
ベータ波れべる・・・>ベータ波レベル
ガンマ波(30~80ヘルツ)…イライラしている時、極度の緊張、興奮状態、強い不安等、精神活動や気付きに関する脳波。
ベータ波(14~30ヘルツ)・・・開眼状態で、普段日常生活をしている時、仕事をしている時、軽めの緊張、多少のスツレスの時の脳波です。
ベータ波は、視覚・味覚・聴覚・嗅覚・時間空間感覚が活性化しており、覚醒状態で仕事・複雑な計算・困難な仕事など外界に立ち向かって緊張している時にベータ波れべるとなって臨戦態勢をしめす。・・・但しガンマ波ほどの緊急異常警報レベルでは無い。
アルファー波の補足としては「思考・ヒラメキ・集中・カン」が働き、夢中で何かに没頭している時、集中している時起きる脳波で、驚異的な脳の力が発揮されるようだ。
シータ波は【深い瞑想】とか【まどろみ】状態であり、
眠りと意識の間を行き来している状態だといえる。だから夢を見るとか禅病を見るとかなのであろうか??
「無意識」とは、情報として(=点、点、点の個別的情報記録として)脳内に蓄えられているもの。
量的には90%を占める潜在意識の世界の事(=現時点では不活性的)であり、
コンピューターの世界で言えばハード・ディスク記憶装置を意味する・・・というのがTの理解です。
こんばんは!
モンゴル時間は11日午前3時15分
深夜族の爺さんですから毎日、起きて一人ゴソゴソと蠢いています
普通の爺さん婆さんは起きる時間ですが私は前日から起きっぱなし
偶然、ブログを開きアクセス状況を見ていたらみんなのブログ紹介欄に記事紹介するから記入しろと案内が、こんなものはブログ記事を書いた後に紹介すりゃいいのに今更と思いながらチャンスとばかりコメント記入
少し時間が経過して紹介欄を覗くと偶然ですかブログ村の悪戯ですかhasunohanaさんと連なるチャンスに思わず万歳三唱!
きっと今日は一日、好い事ありそう!(嬉しい)
深夜一人でニタニタ案内板を見て喜んでいます
通常は左脳の言語野が絶対的優先で論理=意識=自分=現実世界、という区別感を支配しているが、
坐禅によって左脳への血流を低下させる(身体操作する)と、
相対的に右脳活動が浮かび上がって来る。
ジルボルトテーラーの言うように左脳と右脳は全く異なる世界観を持つから必然的に脳の知覚状態が変って来るする。
これを意識の変性、【変性意識】と言っているのだと思います。
因みにどちらの時でも脳に行く血量は何時もほぼ一定で、
意識活動(計算・思考・質問解答)に消費される分は20%の血流に過ぎないんだとかですよね。
あとの80%の脳内血流はDefault Modeとして潜在意識エリアの細胞を常時生かしているんだとか・・・(たぶん?)
「海馬活動による生命力活性化だ」に等しいと考えると、
それは睡眠中のノンレム状態での脳波「デルタ」中の情報処理様式だと考えられる。海馬がそのような自動操縦が出来る為には睡眠状態が必要な訳であるが・・・。
坂田氏は坐禅中、脳波がアルファー波となるとしている(@坐禅の科学的根拠②)が、元来アルファー波は、
覚醒時(=起きている時)で【閉眼】の時は8ヘルツ位の低い周波数のアルファー波であり、リラックス状態を示し、
【開眼】(含む半眼)の時は13ヘルツ程の高い周波数のアルファー波で意識集中がなされている、と言う事のようだ。
このアルファー波の域において思考の鎮静が出たりする。瞑想状態(の初期形態)だ。
処がもっと深い瞑想に入ると4~7ヘルツの低い周波数のシータ波が出る事が実証されている。
潜在意識が表面に出て来て、サイキック能力が開花し生命体エネルギーが発生するとされている。
浅い睡眠で、レム睡眠中で、夢(主に怖い夢)をみる状態に等しいようだ。
(注1;夢とは情報処理に伴ったバカげたノイズの事)
(注2;レム=REM=Rapid eye movement=眼球がクルクル動き回っている状態)。
処が脳波が更に低い(0.5~3ヘルツ)の時はデルタ波がでて、無意識状態・深い睡眠(=ノンレム睡眠)状態になる。ただしこの時は感覚器官と繋がっているので弱い刺激でも目を醒ますとされている。
このノンレム睡眠の時、脳内の配線の整理が行われる。即ち海馬が正解を求めて自動操縦を始める時間帯だ。オレキシン分布がこの状態を維持する。
T曰くの【睡眠座禅】は明らかにこの特性を利用していることに成るが、
覚醒時(=起きている時)坐禅はシータ波からデルタ波まで行きつくのかTには分からない(調査命題)。
因みにレム睡眠とノンレム睡眠とは90分ごとに交互に繰り返すといわれている。
意識の根源はまだ分かりません。
意識の正体も分からず、
意識が変性していると、どうやって分かるのでしょう?
幽体体験・臨死体験・神秘体験・心霊現象・超常現象・超越現象・幽霊現象等の全てを、
心理学者・脳科学者は、それらを心理学的に、および脳科学的にすべて説明できる・・・としている様だ。
無神論者の立場での解明をはかる。無神論を貫いても論理の整合性を保てると信じてやまない。
無神論は実証可能と言う事でもあろう。
一方有神論者は実証不可能を前提としているから、
無神論者に打ち勝つ為には龍樹バリの帰謬論法で、
無神論者の論理の破綻(=論理の整合性の破れ)を突くことに命を賭けざるを得ない。。
昔から今に至るまでの延々と続いた論争だ。
今では【心=脳】と言う事が実証されているのだから、心理学とは脳理学のことであり、脳理学は脳科学の事となり、
全て実証可能の範囲で、全ての異常体験・異常現象を説明しきれなければいけないと言う事となる。
心理学的坐禅と言う立場で論理を進める時はそこを明らかにすべきだという事であろうか??
【弓と禅】で言われている ‟それ”とは、
脳科学で言う「海馬の自動操縦」から引き出された結論(=ヒラメキ)の事だ・・・、という
有神論から無神論への置き換えが可能なのかもしれない。
あるいは ‟それ”とは幽体体験の一種であると言い換えられるかも知れないが、
幽体体験とは、(うろ覚えだが)脳の言語野だかが不活発になり、感性の脳部位だかがが異常活性化した時起こる脳の幻覚症状だと実証されて来ているようだ。
睡眠のメカニズムと坐禅のメカニズムには深い相関性が有る様だ。睡眠も坐禅も【意識】のメカニズムの中での情報活動応用問題(変性意識)の事であり、神秘体験説を排除しようとする事のようだ。
添付されたリンク先を辿って読み、聞きました。
他人の視点から描いた、ブックレビューなのであくまでも参考に読みましたが、直接読んでみようと思えてくる本ですね。
坐禅を研究する看板を掲げているのに、文献やデーターが不足しているので恥ずかしく思いました。
Tの指導がなかったら、
一人称観察者視点でしか書けないでいるでしょうね。
情報を発信する側として偏る危険性があると思い知らされました。
今は、頂いた本を全部目を通すことを目標に毎日読んでいこうと思っています。
この目標がクリアできたら
弓と禅を読もうと思っています。
初耳の本なので、聞いてからまた感想書きます。
二人で一緒に読んでいるような感じになります。
一人で一方的に読むより面白いです。
何でそこ受けるんだよ。
何で?マークを付けているの?
暗号みたいだけど何の意味?
など思いながら読んで、
濃い線が引いているところは
前後しながら読んでいます。
私も生徒に受験のために
論文の読み方
長文の読み方
英文の読み方(受験と英検)
ずるする方法を教えてました。
分からないまま正解を当てる方法など
生徒はそのようなズルが大好きで
目がキラ☆キラ
☆彡
して、食い入るように聞いてましたね。
勿論、ある程度勉強してきた生徒にでしたが、
でも私は一字一字確かめて読むのが好きです。
気が付くと書いていた内容に関連した経験に溺れて、目は読んでいるのに頭は読んでいないですけどね。
しかし、頂いた本が多いので
全部流し読み試みます。
今くっきりと真意が掴めた。
それはオイゲン・ヘリゲルが著した『弓と禅』で描かれた精神世界そのものである事に気が付いた。
レンさんはダンス(バレーのプリマ「スベトラーナ」)を通して、坐禅との関わり合いを述べ、
ヘリゲルは弓術(1930年頃、弓の神様と言われた「阿波研造」)を通して、禅の精神を知った。
両方とも超越的な ‟それ”と一体になる(=神秘的な何かへの到達)がテーマになっている。
ーーーーーーー
『弓と禅』の中に江戸時代剣術指南役の柳生十兵衛の逸話が這入っている。
或る腰抜け弱虫小心者の若い侍が、自分の不甲斐なさに自暴自棄になっていたが、ある時ふと思った。
「こんな自分は死んだ方がましだ・・・じゃあ死んだ気になって一切を投げ捨てたらいい・・」と。
そんな気持ちでフッと柳生道場に飛び込んだ。
「私は未だかって一度も刀を抜いた事がありません。どうぞ剣道を教えて下さい・・」と。
で、十兵衛はそのひ弱侍が刀を構えるのを見て驚いた。どこにも付け入る隙が見えなかったからだ。
「mmm、剣道とは相手が死にたくない死にたくないと身構える隙を突いて相手を倒すものだ。
でもこの若者は死ぬ覚悟を持っている。死(の恐怖)を超越している・・・だからどこにも付け入る隙が無い、此れではワシ(=十兵衛)は勝てない・・・」と。
参考文献
正義と微笑(numb_86のブログ)、『弓と禅』のブックレビュー
http://numb.86hatenablog.com/ertry/20150404/14
武田鉄矢「朝の三枚おろし」スチーブ・ジョブズが愛した名著『弓と禅』二週間まとめ(66分ラジオトーク)。
www.youtube.com/watch?v=YBi3fpYGdCQ
中学生の時は図書館で小説を丸読みが好きだった様に思う。
高校時代は書物を読む事は無くなった(=受験勉強一本やり)。
大学(工学系)では教授から学術論文の読み方を教わった。膨大な資料・論文群を、一字一句を丁寧に読むのではなく、パラパラとハス読みして素早く要点のみ抽出するというやり方だ。
アメリカ留学での英語のクラス「スピード リーディング法」でそのテクニックに磨きをかけた。
「英文学」「英作文」「スピーチ」のクラスで膨大な英文小説群を読んで感想文を書かされる課題の時もクリフスノートで誤魔化した。クリフスノートとは長い小説・論文等を、短く(30~40頁位か?)纏めた大学生向抄訳本集だ。
就業中(自家営業)は、生き残りの為に、一週七日、一日15時間くらい仕事関係に埋没していたので楽しみの為の本を読む時間がなかった。
だから隠居して十分な時間が出来ても、一冊の本をじっくり読むなど出来る筈が無いと思っていた。一文字一文字を味わうなんてとてもまどろしくって耐えられないだろうと思った。
で、隠居生活に入って実際ためしてみると、意外や意外、小説を読んで、一句一句作者の心を感じながら、言葉の重みを感じながら、何故作者がこう表現したのか想いを巡らしながら、読む途中で自分の思考と重ね合わせながら、一冊の小説(及び一般本)をジックリ読み続ける事が出来る自分を発見した・・・但し読む価値を見出した時だが・・・。
いまの私は両方できる。サラッと見て即座に内容を把握する手法(広角レンズ系)と、一字一字じっくり読んで味わう手法(望遠レンズ系)と・・・・・・。
隠居生活の醍醐味であろうか。
でも、ブログを拝見して~(@_@)!
素晴らしいです。自分の人生を送られてますね。
平々凡々で頭の悪い私は、禅の事はチンプンカンプン~。
英語もわからない私ですが、hasunohahaさんのブログ~とても 見やすいです。
なんか、私も頭がよくなりそう~
お気に入りに追加しましたが、読者登録ボタンが分かりません。
でも、ランキングボタンはポチッしましたよぅ~。
外国の事は無知ですが、今日の日本は寒いです・・・。
ご自愛くださいね。
つまり忙しさから解放される事で「遊び」が生れ、真に創造的な時間を過ごす事ができる。社交は極力控える。好きな事しかしない。微笑む老年で有田着物だ!!
遊びと自由を謳歌する。等身大の人生を楽しむのが良い、身の丈に合った生き方を追求すればよい(命短し恋せよおばあby与謝野晶狐)
⑭.老人心得帖;
否応なしに生きざるを得ない・・・小さい声で・・・でも生きる!!。 環境に応じてしなやかに変化していく老人になる。 人の苦しみに共感できる老人でありたいね。
一日一日何か感動を見つけて、無常の中に「生かされている」という感謝の心があれば、それは恵みの時なのだ。個性的に自由に生きられるのだから・・・・、蓄積された知恵で想像力を働かす事が出来る。
常に独り歩き、常に独り行く。人生は一人旅である。大丈夫たる者は何物も頼りにしない。真の自己に成り切り、大道闊歩、直下(じきげ)に第二人なし(乾坤ただ一人の意気)・・・という事も有る。全て自由や!!、今んとこ!!
⑮.ホスピス心得帖;
人生最後の尊厳の局面!
そろそろ落ち目やから、これから先、長生きしても、かえって人様にマイナスになるかもわからん。まあここらが頃合いというモノやろ。お迎え来てもろうてありがたいことよ!! ほな一足お先に、さいなら!!
ハイデガー「死というのは、人生に於ける最後の挑戦である(=死もまた生の一部)」。
シェイクスピア「人生の過程に於いて、何らかの役を持った人間として登場し、また退く場が有る(=人間全て舞台役者だ)。私に許された時間を私たちはひたすら生きるしか道はない」。
論語「朝(あした)に道を聞けば、夕べ(ゆうべ)に死すとも可なり」(=人生の最後を自然の賜物として静かに受け取れるよう、生涯を通して学び続けたいものだ)。
オ・ワ・リ・・・・・
副交感神経系が活性化する。パニック解消法である。先の事を思い煩うな(=苦労は手に触れてからしましょう)。
指をパッと拡げる、作り笑いでも笑顔を作る、ユッタリ息をする・・・・>言葉に表情を持たせる事が大切だ・・・これで副交感神経系が活性化する。心に平安が灯る。
⑪.力を抜いた時、初めて何かが出来る。
自然体への自己到達。意識してやるのではない。
今呼吸しているという意識がなくならない限り、呼吸はあなたのものにならない(=脱力の意識からも抜け出せ)。意識するなと言われても、どうすれば意識しない事が出来るのかが禅の修行の目的なのだ。
自分自身からの離脱!!・・・すると【それ】が出現する。 【それ】が事を執り行う。
弓を引いて矢を放つのはあなたではない。【それ】がさせるのだ、或る時それは突然わかる(=悟りの境地)。機は熟した・・・それまで待つ力、機が熟した事を知る感性が必要だ(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』より)。
⑫.合気道の教え
無意識になる。強くなりたいと思う気持ちは弱さに縛られている。幸せに成りたいと思うよりも、幸せにしたいと思う方が人を大きく変える。
眠ったままの9割の力(=無意識の力)があなたの人生を劇的に変える。心の倉庫にマイナスのものを入れない、貯めない。
なるべく、汚れた言葉・呪いの言葉・恨みの言葉を口にしない。そうやって「無意識」を綺麗にする。ささやかだがいつも良い言葉を5つ以上思い出すという訓練を毎日続ける。
そうすれば心は平穏に戻ります。
不安・悩みを感じたら、フゥ~とため息をついてみてください・・・、嫌なことが吹き消されます。
勇者とは怖れを知らない人間ではない。怖れを克服する人間の事だ。人は不幸な出来事によって不幸になるのではない。其の事を不幸だと思うから不幸になるのだ。
どんな状況に於いても、それに向き合う態度は自分が決める。
「いつでも私らしく!」を心がけて、
私の魂の望みを叶えてあげられるように、
私はなるべく自分の心の在り方を意識して、
それに誠実に行動して行きたいと思います・・・・
⑧.(五木寛之)
ギリシャ時代の人々の平均寿命は17歳。哲学は10代で死んでゆく人々の中で生まれた。
19世紀に入ってさえも、ヨーロッパの人間たちの平均寿命は26歳だった。
(だから)現代人はなんとも信じられない位な不自然な生き方をしていると思わざるを得ない・・・どうなってるんだ??(=いまさら四の五の言うな、不平を言うな、自分の幸運に感謝しろ!!)
⑨.本当の自信とは・・・
自分の弱さを隠さない事。欠点を誤魔化そうとしない事。持っていないのに持っている様なフリをするから人はぎこちない。知らない事は決して知っているフリをしない。知らないとはっきり言う。持たないモノは持たないという。欠点や弱みを誤魔化す事をやめる・・・。
これだけで人は相当の確信を自分に対してモテる筈だ
私の人生は
山登りも、波乗りでもない
高速道路の100㎞完走でしたね。
そうでないと
遅れた分を追いつくせなかったと思います。
皆がゆっくり、のんびり
走っているのを見て
羨ましく思ってました。
どんなにその高速から降りたかったか、
出口はありましたが、
出られなかったです。
涙を汲んで走り続けました。
出たら二度と戻れないと思ったからです。
今は自分が走ってきた
高速道路を眺めていますが、
途中下車しなかった自分に
よくやったと言いたいなと思っています。
これらもTのすべて良し考察ですかね。
18年前にそれに気づかされて、丸1日泣いたことがありましたね。
自分が可哀想に思えて、自己憐憫からか相当泣きました。
当時は3泊4日のエンカウンターグループでしたから、三重県まで行って全く知らない人達と一緒に寝たりしましたね。
あの気づきが切っ掛けで
『無理をする』
『無理をしなくてはならなかった』
状況について、客観的に捉えるようになりました。
Tの究極的な見解は
私の煩悩の歴史をひっくり返したりしますが、
他者の視点で自分を振替えてみることにもなっています。
Tは心理など専攻していないはずなのに
下手なカウンセラーよりも
真髄をつきますね。
医師って恐ろしい、と思いました。
別種の人間かもと思っています。
心の無駄な反応を止める事で、一切の悩み・苦しみを抜ける方法論だった。
無駄な判断を止める、相手の悪感情に反応しない、喜び・楽しさを大事にする、人間関係を丸く収める・・・
これらが「快」を増やす極意だ。
⑤.人が本当に必要としているのは、静かに孤独や絶望に耐える力だと言える。世界は変わらない。変わるのは自分である。世界を見ている自分が変われば世界は変わる。知るとはその事を境に、昨日までの自分とは変わってしまう事を意味する。
⑥.人生はゴールの有る山登りでは無く、波乗りである。今日この日を兎に角必死に生きて、波がやって来たら、何で乗るんだみたいな事を考えずに兎に角乗る。きっと何処かで考えているんだろうけど、あんまり囚われずに、今日この日この出会いに乗って行けばよい。そして時にはフウ~っと休憩する。。。
「降りて行く生き方」言うのもある。「人は愛されていなくても、必要とされていなくても生きて行けるし、生きていてよいのである。自分を大事にしよう、疲れたら休めばよい。人はそんなに遠くへは行けない」。
②.生きているという幸せを数えようとすれば出来るのに、人は不幸の種を探し出す。いやな気持を自製する。人間の感情は複雑な反面、実に単純だ。ハッピーな人は毎日ハッピーな事を考えている人だ(もやもやメモとハッピーメモを毎日書く事で大変化あり!!)。
③.成熟とは・・・
自分の人生のプロデューサーとなる事だ。この場を主催しているのは私だという気構えでその場に相対する事である。
プロデューサーのやる事は何か?・・・それは床のゴミを拾う事、自分の眼の前のゴミを拾う事だ。
失敗しても次の技を思い付くかどうかが成熟への階段である。危機の真っただ中にあって、いかに楽観的になれるかどうかで、生き延びれるかどうかが決まる。
成熟の技が宿ってる人とは・・・
何故人は人の言う事を聞くか・・・それはその人が醸し出すしみじみさに「私がいなくなったら、そんなことを言う人が居なくなってしまいますよ!!」という迫力が感じられるので人は思わず聞いてしまう。
「私の替わりをする人はこの世に居ません」とそうしみじみとした雰囲気で伝えられる人には成熟の技が宿っている(釈迦がその例だ。。。)
「完璧さをみる!!」
「完全燃焼!!」
「上昇思考が私の神様!!」とかという言葉に弱い・・・・
多分、完璧主義者のジレンマというところであろうか。
完璧になれない自分を許せない
完璧を求める気持ちが萎えてしまう自分が許せない
努力しない自分が許せない
それが高じて努力しない他人がゆるせない。
そういう人を軽蔑してしまう。
ーーーーーーー
処方箋は
「そこそこ人生も有り!!」と認める事
野球選手も3割打てれば稀世の大打者だ
人は2割打者を目指すのが妥当・上出来と知る
1割人生でもおおいに結構毛だらけと知る
完璧主義は妄想だと知る
わたしって駄目ね【ウフフ】ってハスに構える!!
人間は不完全な生き物だ、をサラッと認めようぜ
92.5%の完全燃焼が一生一度出来れば自分を褒めてあげましょう・・・・
そんな感じで「ゆるキャラ」へ宗旨変更がよいのかも・・・I am OK=自分は自分の主人公!!
私はだめだ、私はだめだ、今の私は最低だ・・・と
I am OK, I am OK, 今の私もなかなか素敵だ・・・
の境界線をどこに引くかと言えば、
mmmmmなんかなかなか難しいけど・・・、
冷静客観的な情勢判断ということか???
坐禅して自らに聞く、縁起の流れに聞く、信頼できる老師に聞く、友人もありか?占い師(恐山ではイタコっち)もありか?精神科医も占い師と大体同じだが役に立つかもとか、書籍の金言・名言に聞く、又はネット情報で(他者の在り様と)比較研究するとか、~~、~~
情勢判断のやり方はいろいろありそうだ・・・
それからおもむろに、自分の立ち位置をきめる!!
それもあり!!、
他方、天上天我唯我独尊を突っ走れ!!もまた一つの人生観。
人生に定見なんて無い。
自己の実存にはそうあらねばならないという思想の根拠は何もない・・・全ては無根拠だ(恐山パロディ)。
言わば、私の魂の表れでもある。
本当に書きたいものである。
アクセスが減る、同意を得られない性質であるのは覚悟の上で書いた。
私の生き様を比喩したかもしれない。
或いは、そうでなかったら、
そうなって欲して暗示したつもりでもある。
予想に屈して
アクセスは落ちた。
フェイスブックのからのリンクも激減した。
だが、書いていた時は
自分に対してずれがなかった。
にもかかわらず、
あまりにも
書きたいものばかり書くと
人は遠ざかる、落とし穴である。
百の承知でもある。
燃え尽き症候群の枠に当てはまるかな。
まだ、書ききれていない残存感がある。
私はブログを書く際に
読んでもらいたい人を決める。
今回は3人であった。
二人には応じてもらったが、
最後の一人は読んでもいないようだ。
まあ、それも仕方ないか。
㋺.猪突猛進できる(=気が散らない)環境だ
㋩.周りからのサポート体制が充実している
㋥.目的意識が明確である
㋭.そうせざるを得ない(=必要上しょうがない)@
上記の項目別解析は、個人的な尺度から当てはまる感じですね。
だから生きてきた道に悔いが残らないかもです。
スベトラーナの場合も上記の条件が全て当てはまると思います。
恐山師もそうかな~~
Tもそうですよね?
燃すべき目的物を完全に燃し切った状態(=充分な燃焼エネルギー保有)、
するべき事を全て成し遂げたという満足感の境地。
②.燃え尽き症候群は、自分の持つパワー(エネルギー、火力)が(目標遂行に)必要なエネルギーに届かない為に、完全燃焼が出来なかった状態、くすぶった、燃え残った、不満足感で挫折した状態を指すと考えて良い。
人間としては、多くの場合②になる事が多い(92.5%)と想定される。
①は一生一度か、せいぜ二度だけ起こる事なのかも知れない。
だから平常時は①でも②でも[I am OK]と気を取り直す方便もある。軌道変更する手もある。
しかし絶対①でなければいけない事もあるだろう。
では①が出来る時は何故そう出来るかと言えば、
㋑.あり余るエネルギーに満ちている
㋺.猪突猛進できる(=気が散らない)環境だ
㋩.周りからのサポート体制が充実している
㋥.目的意識が明確である
㋭.そうせざるを得ない(=必要上しょうがない)
まだあるかも知れないが、
どうしても①であらねばならない時には、自分をそう仕向けられるか検討するのが良いのかもしれない。
しかし大体の場合は自分が其処までしなくても大丈夫と思って居て、そこまではしたくないと感じているという事なのだろう。
で、実際そこまで気負わなくてもこの世は何とかなるモノだというのも又、事実のようだ。肩の力を抜いた人生というのもおおいに有り得る訳だ(人さまざま!!)。
Svetlana's teacher who is
Ludmila Semenyaka is the Soviet union generation prima ballerina.
Guessing that in those days so called iron curtain, they had lesser freedom for art performances but the era had strict traditional and strict classic ballet forms.
Personally I like classic style, all kinds of classic that music,liturature, painting, ballet...
Because in a classic I can find a formulating in past time.
The time zone is gone and it never be back in presence but with those classic objectives remind us those times were certainly existed.
Especially the strict Soviet ballet shows us history that even political control power couldn't destroy the traditional beauty.
Even the era made Russian ballet is untouchble.
Without Soviet communism, the Russian ballet would not have had stricity.
Maybe Russian ballet would have developed into the contemporary or modern ballet.
Boston ballet we went to the concert last year, it was a great performance but it was a just a show or an entertainment.
It cannot be compaired with Russian ballet.
Maybe Boston ballet never had a necessary that agony by political controlling.
No suffering to be...an easy way to be..while Russian ballet had had surffering by their goverment.
完全に燃焼したら、
灰しか残らず、やがてその灰も消え去る。。
虚しさが残るか
虚しさも燃え尽きてもはや感じなくなるのか
燃え尽きた経験を持たなかった私としては
不燃焼や
完全燃焼の差が分かりませんが、
人間、死ぬまで燃え尽きるように設計されていると思います。
スベトラーナは生きている実感を
そう、毎秒毎秒感じていたでしょう。
何故なら、その訓練が苦痛を伴うからです。
人は苦痛に直面した時、死の恐怖を感じます。
その恐怖は生きる感情と繋り、死んでいない確認ができる訳です。
生きている実感になるでしょう。
私も筋トレ―をするとき、
バレエのレッスンの時
死んでいない確認ができます。
それ以外は、不完全燃焼も完全燃焼もない死んでも生きてもない感じですかね。
書いていると、私は心に深い問題があるかもと思えてきます。
彼等は自分自身の内部に「やむにやまれぬエネルギーの噴出があるのだろう」。
それは言わば天から授かったギフト(乃至宿命)という事なのだろう。マグマは自然噴火するしかない訳だ。
そういうエネルギーを持ち合わせていない私は、それを見て愛でて楽しむ・・・事が彼らの才能に報いる方法なのだろう。
神が演技者と観覧者とを公平に造ったという事であろうか…観客が演技者を育てるのだから。。。
いまクラシック音楽の作曲家達が、パトロン貴族たちの下で(=支えで)、思う存分音楽の才能を開花させた事を思いだした。
偉大な建造物が、富を持った、時代の権力者達によって建てられ、文明文化が華やかに花開いて言った事に想いがはしる。。。
左脳で感じる「生きている実感」と、
右脳で感じる「生きている実感」とがある様だ。
理詰めで来る実感と感情からくる実感・・・
本我が左脳の意識、無我が右脳の意識、
それぞれがあるべき姿の実感を産む、としてよいのかも知れない。
After I reposted, it fixed itself. Weird......But good
I suppose......A self fixing blog!!!!!!
Sorry for the two nearly identical comments, maybe remove one....
Interesting Bog Post
Svetlana Sakharova indeed has perfection of form and expression. She does, as you note, show something exceeding limits.
It is pure. Perhaps she does not dance because she enjoys it, or is proud of it, or fulfilled by it. There is no reference to Herself in the performance.
People all make little "Performances" in the things they do in their day to day lives. Are these "Performances" for the viewer, or is the Motivation mre attached to themselves?
It Is Fine. It is something for themselves and that is fine. But it helps if they understand human interaction. It helps if they understand, honestly , The Motivations.
One senses Svetlana Zakharova's honesty. Her Motivation for working so hard, for practicing so diligently for decades, practicing through trials, pain and uncertainty, is indeed Not Ego Centered. It is as if some external force drove her to take a Path Toward Perfection.
As We Learned, There Are Multiple Paths To Perfection In The Same Endeavor.
Svetlana Zakharov's teacher, Ludmila Semenyaka, whom we watched and marveled upon, Is So Different From Her Student. She Achieved Perfection, But With Such A Different Style. She Danced With A Lightness And Joy, As If The Hardest And Most Challenging Movement Is But A Simple Thing. So All The Practice And Work Is Invisable, (It Is Truly Gone) By The Time The Audience Sees Her Dance.
Such A Gift!!! the talent these dancers possess. But the gift, without dedication of work, is like sculpture nver wrought from the stone, like an image never touched to a canvas by paint.
Their Work Is Like A Giving Of The Talent To The Audience . A Gift Without Any Underlying Motivation.
Oh, To Get Out From Themselves, To Impress By Getting Out From Themselves, How Rarely Is This Seen.
How gracious too, of the male dancer, to quiet his pose and let her be in Front. He Is Quiet, Very Quiet In His Way, So Others May Focus On Her.
Ahhh, The Motivations Are Balanced, Nothing Invasive Nor Intervening, Impressive By The Absence Of Effort To Impress ....
「全てには時がある」という事なのかも・・・・。
産まれた時、赤子の時、幼児の時、子供の時、少年少女の時、青年の時、成人の時、熟年の時、老人の時・・・、
学びの時と働き盛りの時とリタイアーの時・・・・そして死ぬるの時。
その時々によって、それぞれの生きざまがあり、
それぞれの生きざま全うして「生きている実感」を味わえたら、幸せな死を迎えられる。
それぞれの人生のステージにおいて完全燃焼を目指す・・・かな??
それはあまり強く意識する事無く突発的・発想的に、(或いは他者の反面教師的情報に触れた故の無意識な反論として)書いたけど、
今回の記事の様に完璧性・超越性を追求しようと、あくなき努力する事、又はそこまで行かなくても何かを必死になそうとする時にも、
結果として「生きている実感」を感じるのだと思う。
過去の出来事を振り返り自らを再評価した結論としてのヒラメキなのかもしれない。
何かを成そうとしている自分の意志を実感しているという事なのかもしれない。
何かに対して「手答えを感じている」時、
「生きている実感」が発生するのかもしれない。
釈迦が晩年(大乗仏典に於いては)「この世は美しく、人生は甘美だ」と言った時の彼は「生きている実感」を述べた言葉なのだと思う。そこには生き生きとした「生きとし生ける」感がある。
兎角「生きる事には意味が無い、無根拠だ、この世の執着を捨てろ、感受性は悪だ」とかいう仏教教理を平面的に眺めてしまうと、又は、
坐禅世界での「死人と成りて、想いを全て断ち切って」の作法・様式から、
どういう形を経由して「生きている実感」が再生して来るのか?
坐禅心理学としては究明すべき命題にみえる。
「生きている実感」=《彼女だけのエネルギー》の燃焼(スベトラーナ)=「生きて何かをなそうという意志」。
つまり「自分のエネルギーを燃やす」という事の中に「生きている実感」があるという事であり、坐禅は、一旦原点に戻って、新たなる「生のエネルギー」の再構築を目指すのだ、という事であろうか。。。。。
また他方では、大自然・社会・縁起の流れの中で、能動的に自分のエネルギーが反応しているのを感じる時も「生きている実感」を感じる事でもあるようだ。
感受性・感性が豊かである時それが起きる。
人生を諦めている時、人生に飽いている時、感受性を失っている時それは起きない。