幸せと不幸せはコインの表裏のように
一体で二面が対になって働くものだ。
Happiness and unhappiness are working together
as a pair like a coin has head and tail.
なのに、人は幸せだけを欲しがって
不幸せを病原菌のように毛嫌う。
But people desire happiness only
and prejudiced unhappy like a virus.
心理学を専攻していた学生だった時に
社会心理学の教授が『幸せは何か』を研究していた。
When I was a student majoring in psychology,
a professor who was charged social psychology
studying what happiness was.
私も幸せが一体全体何で
なぜに全ての人が幸せを欲しがるのかが疑問だったから
ワキワキしながらその先生の授業を聞いていた。
I was also wondered why everyone wanted to have happiness
and what it is at all, so I took his classes while being excited.
また、授業の前には
一番前の席を確保するために廊下を早足で歩いて
誰よりも早く教室に着いて準備態勢を整えていた。
Moreover, before class,
I walked fast in the corridor to secure the front seats,
and always arrived in the classroom faster than anyone else
to be prepared well for his lecture.
しかし、何十年が経った今になって
その先生の幸せ研究に関した授業で
何が分かったのかを思い出そうにも
『これだ』というような肝要な教えは残っていない。
But now, decades later to remind what I precisely learned
from his class about his happiness research
but there is left lesser in my mind such as "This is it"
だが、その教授の授業で
今でも記憶に朧気に残っているのは
幸せの尺度を計る数値表だった。
But what was still vaguely remained in my mind for his classes
is the numerical scheme sheet that criteria of happiness.
その幸せ尺度表は縦横グラフで
横軸に自分にとって意味が深いエピソードとか
生きてきた人生の中でイベントのような大きな出来ことの種類を
自由に決めて記すようになっていた。
The criteria of happiness sheet were a vertical and horizontal graph,
and the horizontal axis allows me to freely define episodes,
happenings and events that meaningful to me in my lived life
and could note them in the blanks.
縦軸には1から100までの数値が書かれてあったから
自らが人生のイベントだと思える出来事に対して
点数を付けられるようになっていた。
The vertical axis had numbers from 1 to 100
so, I could mark the score points down for those happenings
that regarded as my life events.
またその数値を付けられる横軸は
半分で区切られていて上部がプラスの数値
下部がマイナスの数値を選べるようになっていた。
Besides, the horizontal axis,
which was for marking numerical values, was divided in half
so that in the upper part can select a positive value
and in the lower part was for a negative value.
例えば、大学試験に合格したのが大きなイベントになった場合
その時の幸せ感を1から100までの数値の中で
決めて印すようになっていた。
For example, if passing a collage exam became a big event for the one,
the happiness at that time could be noted
from 1 to 100 with converted numerical values.
また、あることが自分にとって不幸せで
大きなマイナスになった場合
それをゼロからの下の1から100までの数値で
印せるようになっていた。
Also, if some happenings were regarded as unhappy
and became big minus for the one,
they could be marked from 1 to 100 at the below zero.
その質問紙に答える前は
幸せや不幸など言葉で表せないし
数値で計れるものでない個人の感情にすぎないと思っていた。
Before I marked for the questionnaire,
I thought that happiness or unhappiness is unable to verbalize
nor measured numerically scored
so those were merely personal emotions.
だが、その質問紙に私にとって大きなイベントであった、
日本に留学を始めた時や日本語能力試験1級を取った時
大学試験に合格した時などを書いて
その時の気持ちを100までの数値で計ろうとした時に
感情は数値で代弁できていることに驚いてしまった。
However, while I was answering for the questionnaire
and tried to convert into numerical values
among the numbers from 1 to 100 for the emotions I had,
it made me surprised
because emotions can be represented by converted numbers
for those big events in my life,
such as the time I started studying abroad in Japan,
the time I took the JLPT 1 grade,
the moment I passed the university exam, etc.
増して、書いて示してみることによって
それぞれの単一的なイベントが
人生の長いスーパンから視ると
お互いが前後でつながって
因果関係を成していたのが図に表れていた。
Additionally, while I was marking down and noting,
I could view my life events from the perspective with a long life span,
each event happened singularity
but they were all linked with backward and forward each other
and it became cause-result on the figure.
また、最高に幸せだったイベントも
時間の経過と共に数値が下がって
日常の当たり前のように変化していたことに気づけた。
I also could aware that the happiest event changed
into ordinary by time passing
and the value has dropped.
その幸せ尺度表は書いてから課題として提出したのだが
何十年経った今でも記憶に残っていることは
自分の感情を人生の長いスーパンの中で数値に換算し
それらをグラフ化して
その体験で客観的な視点を得られたことである。
The happiness criteria were submitted as an assignment,
but what still remained in my memory even decades later,
I could convert my emotion into a numerical value
with the view of a long life span,
then made them into graphics
and the experience allowed me to have objective perspectives.
以後、私に起こった幸せや不幸せに対して
それほど心を躍らせないようになった。
Since then, I became not to be puppet danced
against happiness or unhappiness that ever happened to me.
以下は、私が思う幸せの作用とその反作用のまとめである。
The following are the summary of thought about
the effect of happiness and its reactions.
①これ以上幸せになれないと思えるような絶好調の瞬間も
時間の流れと共に薄れていく。
The happiest moment thought as it could not be happier,
it goes fade by passage of time.
②死んだ方がマシだと思えるくらい辛く
悲しいことも時間の共に薄れていく。
The saddest moment of suffering that makes feel rather die than take them,
it goes fade by time passing.
③多くの幸せは不幸や不幸せだったことが基盤になっている。
Most of the happiness basis on once it has been being unhappy or unfortunate.
④不幸せの出発点は幸せの延長線上に引いてある。
The starting point of unhappiness is drawn on the extension line of happiness.
⑤時間の経過に感情の流れを委ねて身を引いてみれば
感情の嵐に吹かれて飛んでいくことはなくなる。
If you leave yourself in the flow of emotions over time passage,
you will not be blown away by the emotional storm.
⑥幸せになることに強欲になって
幸せの尻を追っているとその道は不幸せに繋がっていることに気づく。
When you become greedy to be happy and chasing the tail of happiness,
you will soon realize that the path leads to being unhappy.
⑦不幸せになった自分を悲しんでいると
その道が幸せへの入り口であることを見逃す。
If you feel sad for yourself being unhappy,
you will leave out the path you are at is the gateway to be happy.
⑧幸せになることも不幸せになることも
人生の中で予め設定されているから
私達はその道を歩んでいく。
To be happy, to be unhappy,
they are designed in predeterminable ways in life
and we walk in the path.
⑨過ぎてきた道のりに幸せがあっても
不幸せだけがあっても
こころをある瞬間に置き去りにしてはいけない。
Even if there was happiness in the path you have passed
or there was unhappiness only,
you should not leave your mind at a certain moment.
⑩何があろうと前を向いて
幸せだろうが、不幸せだろうが
真っ正面で受けていくのみ。
No matter what happens,
look forward even though when happy or unhappy,
just move on and take whatsoever right in front.
過去に対する構えが必要でしょうね。
前を向くことに必要なことは、
未来に対する構えが必要になるわけです。
ほとんどの動物の場合
食欲を満たす目標、睡眠、食料の調達、
住居の確保、増殖、などの基本的欲求がある、
しかしその生命体が置かれている限定的な
環境の中で比較的うまく通用するアルゴリズムの
近似値の範囲に限定されている。
つまり、何を求めて何を避けるのかに関する
経験則に従う、自分の感情だけに
忠実であるようにできているのであろう。
我々人間の心は、それらの経験則を「感情」として
認識し、意思決定の指針にしている。
「幸せ」とは独りでに芽生えないし、
環境に左右される。
全人類のうち貧しいほうの50%は
世界中の所得のうちわずか4%しか稼いでいない。
貧困の問題や覇権を争う国家の軍事費
特に最近の日本では所得格差の増大があげられる。
などなどと日頃考えていると
「幸せ」の在り方の方に目が行き、
つい愚痴っぽくなるのです。
受け入れた後は、幸せ不幸のタイムラグを協力と感謝で繋げられますようにと思いますね。
どこにこころの姿勢が向いているかによって、
行く方向が変わるでしょうね。
前に行きながら、視ているところが過去だと、ぶつかり、行く妨げになりますよね。
追伸:前回の記事でZIPさん宛てにコメントを書きましたが、投稿前に編集してみたら何故か残せなくなりました。
ZIPさんは人と距離を並行しておきたいようで、私はその線を超えたくないと思っています。踏み入った話ができるレベルに私はまだ達していない理由も加わって、ですが。
貧困だけが不幸せの絶対的な条件にならないようですね。
後進国の貧しい村の人達は日常中でそれなりの満足感を得ているようですね。
昔、パリの5番街にあるカフェで
友人と食事をしながら
過ぎていく人を見てたりした時に
なんか、幸せに見えた人の共通点は
『余裕がある』ことでしたね。
ゆったりと構えている姿勢みたいのが
見る人に余裕を感じさせるというか、
時間がゆっくり過ぎている感じですかね。
ここも貧富の差が激しいです。
私が住んでいるグランビ―は高所得者中心の地域ですが、偶に低所得層が住んでいる町に行くと、彼らに余裕など見えないです。
余裕の無い生活ぶりが外ににじみ出ている感じがするのです。
幸せや不幸せは、余裕があるか無いか、かもしれませんね。
受け入れられるか、どうかが心構えの奥床さを決める鍵かもですね。
受け入れる
受け容れる
受け入れるには二つの差があるようですね。
受けて止めるか。
受けて溶かすか。
それが深さであって、重さになるでしょうね。
過去に対する構えは「罪」であり、
未来に対する構えは「責任」です。
時間は未来から過去に流れるという実感を伴うことでしか「罪」や「責任」という手応えは引き受けることができないわけです。
これらの実感を伴った確かな手応えは、幸福や癒しより遥かにリアリティーがあると思うわけです。
要するに、人生を如何に測るのか、ではなく、
人生にどう始末をつけるのか、
きっとそういうことなんだと思います。
「素朴派」の元祖はルソーなのか?もっと古くはルソー風の絵を描いたアメリカン・フォークアートの「ドサ廻り」の肖像画家達もいます。「幸せ」が抽出されているが如き絵とは…なるほど思わぬ素朴さという不意打ち的な特性を持つものです。美術正史に近代素朴派の項目を書き加えさせたのがルソーの天才性、確信犯的技術だったとしても、「素朴であること」とは最も厳しい幸せの所在への問いであることも忘れてはいけないのです。幸せを問うならば幸せを定義する欲求は捨てなければならないのです。手垢のついた「イメージ」を避けて眼前に定着するものが幸せと呼び得るものではないでしょうか。それを常人には理解できない複雑な(言語化も論外な)戦略の元にやってみせたのがルソーなのです。それがルソーの方法論であり天才性であり神話的な謎と幸福の一切なのです。その代償としての分かりやすい社会性の欠如だったのかもしれません。天才とはある意味で分かりやすい人々です。
過去への心の向きが罪
未来へは責任
そのことで、正に明快な見方になりますね。
曇ったメガネを拭いてもらった感じです。
ところで、私が心の云々と書くのは
ZIPさんのようなエキスパート宛てではなく
心に闇や病みがあって
それに気づけないひとのためです。
なので、今回アクセス後から
私が読んでもらいと願っていた人が読んでくれて
それが役に立ったとのサインがありました。
それで私も役割を果たせた感じを持てました。
多くの私の記事はブログ仲間の記事を読んで
コメントで返せない応答を
私の見解から書いたりして
彼らに『他の見方』を提供することにあります。
その面ではZIPさんも私にその見方を提供してくれていますから
良い循環だと感謝しています。
追伸:ZIPさんは一般ピーポーからみて行き過ぎ(専門過ぎ)かな。
月さんのルソー解釈を読んでたら
ルソーの絵を確か見て、似たような感想があったことを思い出しました。
ですが、月さんと違ってルソーに心を打たれないのは
その『嘲笑い感』かも知れません。
上目視線というか、自分に満足している感じみたいな、
それらに私は求道者としての芸術家像は見いだせないからかもしれません。
月さんはなにゆえに、ルソーに何かをみているのですか?