小生の気まぐれのため、今回のエッセーは前回の続きではなく、少し脇道に入ります。
古代中国の政治には「血」が欠かせません。例えば現代でも「血祭りにする」のように使われる「血祭」は祖先や神の祭祀にいけにえの血を捧げたことが由来です。
また「牛耳を執る」という言葉もしかりです。複数の国家の間で同盟を結ぶ時に牛をいけにえにしてその血をすすりあったことが由来です。
「血流漂杵」は戦争においてたくさんの人の血が流れ、大きな盾をも浮かばせるほどの悲惨さをあらわす熟語です。戦争も政治の一形態ですが、古代中国にはさまざまな血が流れました。
「血」の文字は甲骨文に残されているように殷代には既にあったようです。それが春秋時代になると、その「血」が「気」と結びついて熟語を形成しました。
「孔子の曰く、君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り。」(『論語』季氏)
とあるように、孔子は「血気」という言葉に人の肉体的なものだけでなく精神的な力の意味をこめました。それが戦国時代になると「気」の比重が大きくなります。
「夫れ志は気を帥るものなり。気は体を充ぶるものなり。…我善く吾が浩然の気を養う。…その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞つ…」(『孟子』公孫丑章句上)
と孟子が言っているようにです。さてこの思想の変化は医学の中でも同じようにありました。それは経脈(脈、脉)の中を流れているものについてです。
つまり血管の中に流れているものが「血」から春秋時代頃から「血気」となり、戦国時代を過ぎると「営気」に変化します。(一応、古代中国医学では脈中を流れる「気」を「営(気)」と呼び、脈外を流れる「気」を「衛(気)」と呼んでいます)
ではどうしてこのような変化が起きたのでしょうか。おそらくそれには水の性質が深く関わっています。どのような性質かというと、「大気圧が一定の場合の飽和蒸気圧は気温が高いほど大きくなる」というものです。
血液の組成の9割は水です。いけにえや食料としての動物から血を採る時、戦争で人が多量に出血する時、それが雪が降るような季節で寒ければ寒いほど、血液から多量の蒸気が立ち昇るのを観察できます。そして蒸気が立ち昇らなくなった時には、血液の温度は気温と同じように冷えて、また血液凝固反応も始まっています。
当時の戦争は農業に依存します。種をまいたり収穫したりする季節に戦争することは困難です。雪が降るまでの、または融けた後の農業の休みの季節が戦争をするには最適でした。それ故、戦争は寒い時期に少しく重なります。おそらく孫子が「陽を貴びて陰を賤しみ、生を養いて実に処る…丘陵堤防には、その陽に処りて之を右倍にす」(『孫子』行軍篇)と言っているのは季節と気温が関係しているのかもしれません。
さて血液から蒸気が立ち昇り、その後血液が冷えて、固まり、色も変化することを観察した人々はどう解釈したのでしょうか。血液の水分の蒸発(気の消失)を血液の変性の原因として捉えるのが自然です。
人々はある二つのものの間に因果関係を認めた時、原因と結果のどちらをより重要なものとして選択するのでしょうか。きっと今も昔も原因を選択するのではないかと思います。
つづく
(ムガク)
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