こだわりメモ帳

2023年5月gooblogに復帰、ブログ内検索ができ便利です。2017年3月~2004年9月の記事も残されています。

・ 下見

2009年10月30日 | ◆ D300ギャラリー


山の辺の道


爽 風


信心路

下見で・桧原神社・長谷寺・室生寺  091029


 紅葉が近づきつつあり、
そわそわし始める。
新聞に紅葉だよりがはじまり、
色づき始めはまだ早かろうと思いつつ
お天気よく初回の下見に出る。
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・ 紅葉の青森 続々

2009年10月25日 | ◆ D300ギャラリー


蔦温泉  10.20 05:55


酸ヶ湯温泉  10.21 06:17

青森ネブタ


 上北は晴れあり雨あり曇りあり、足の早いお天気で、
この時期はこういう日が多い、と地元の人。
十和田ゴールドラインの国道103傘松峠で標高1027m、十和田湖は海抜400m。
この方面、500mから1000mにかけての紅葉の変化は敏感であった。
葉が落ちてるところから、まだ緑葉のところまで、
加えて晴れたり曇ったりは、時期として10月後半はこちらの適期である。
最終日青森への途中、ネブタ会館と三つ目の湯浅虫温泉に立ち寄る。
浅虫からの岩木山は、青森の町越しにいい眺めであるが、
湯はやはり蔦温泉がしっとりとしていて一番であった。
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・ 紅葉の青森 続

2009年10月24日 | ◆ D300ギャラリー

奥入瀬 2009.10.19


 秋の奥入瀬に来れた。
十和田湖からでた緩やかなこの渓流は、
まことに適度な傾斜でうまれる。
地形とは微妙なもので、この景観をつくりだす。
石ヶ戸での駐車スペースもすぐ見つかり安心してスタート。
じつに気分爽快な半日であった。
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・ 紅葉の青森

2009年10月22日 | ◆ D300ギャラリー


蔦沼 06:33


地獄沼






萱野茶屋辺り


103号沿いのブナ林

蔦沼・八甲田 2009.10.18-21


 下北に対し、この地方は上北とよぶらしい。
天気予報がいう地名は、わからない所が多い。
紅葉にあわせ蔦沼・奥入瀬・八甲田をゆく。
五月の新緑がきれいで、秋の再訪をきめていた。
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・ 般若寺のコスモス

2009年10月17日 | ◆ D300ギャラリー


般若花


悲 哀

般若寺 2009.10.17


 同好会撮影会で奈良般若寺に行く。
開門の8:30に入ると中はいい景色で、
季節を残すためにも、時期には出かけるのが良い。
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・ まつり人模様

2009年10月11日 | ◆ D300ギャラリー


笑顔


また笑顔


談笑


また談笑


仕事師


またまた仕事師

大津祭り 2009.10.11


 同好会で初の祭り撮影会にのぞむ。
大津祭りは祇園祭の小型版のようなお祭りで、江戸初期に始まる。
町の人が曳山を自分たちで楽しんでいることがよくわかるお祭りで、
絡繰りもおもしろいと聞いていたが、いい所に陣取れず残念。
曳山の飾り物がきれいながら、祇園祭があるので
結局祭りの人々を撮ってまわっていた。
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・ 大和国中

2009年10月10日 | ◆ お歩きさん


推古社


推古社の日露戦勝記念碑


額安寺・・・推古女帝の出身地


中家住宅(重文)・・・内堀を跳ね橋を渡り入る


面塚・・・観世発祥の地


観阿弥が住み世阿弥がここで生まれる
毎月10日は古代史散策  090910

 今月はなぜか少ない35名。
明日香と西の京の中ほど、大和川がながれる平端をあるく。
このあたり水運が開け、中世は栄えたようで豪壮な屋敷を多く見る。
観世能がこの地でうまれたともきき、大和はふかいとまた知る。
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・ 月下美人パートⅡ

2009年10月07日 | ◆ 花の写真



台風襲来の夜に咲く  091007

 もらって帰った鉢から2度目が咲く。
台風準備でベランダをかたづけた。
つぼみはふくらむも、まだ咲くと思えぬまま、
中に取り込んだ。
早い目の夕飯をすませ、暇にしていて見つける。
気づいたとき、月下美人の二輪はそろって咲き始めていた。
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・ 今宵の月

2009年10月03日 | ◆ 季節の写真



中秋のぞく  091003 20:02

 月見る月はこの月の月
出初の山の端からはのぞめなく、
ようよう雲間からのぞく名月となる。
明日は一年生の運動会、早く走れ。こけずに走れ。
さて、上の句、
月月に月見る月は多けれど、である。
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・ 坂の上の雲 その後

2009年10月01日 | ◆ こんな本

お久し梟


 6巻目が終ってしまった。
読んでいて長い小説だと思わず、どれもずーっと面白い。
身内に関係者はなく、戦争の様子は本でしかわからないが、
大国ロシアの負けは、悪しき一君帝政と国民の力の低さ、
小国日本は、勝ちたい思いと民の気概、それと運のよさであろうか。
司馬さんは、この巻のあとがきで記している。
『執筆は4年と3ヶ月、準備に5年ほどをかけ、自分の40代はこれで消えてしまった。
書き終えたとき、夜中の数時間ぼう然としてしまった。』
大仕事をおえたとき、あの大きな目の表情はどのようであったろう。
元来は、『書きおえたときの感傷を軽蔑する習慣を自分に果たしていた』そうであるが、
それを思うと、この数時間のぼーっは途方もない感慨であったのだと思う。

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