しっとりとした雨と久しぶりの涼しさに、ほっと人心地がついた気がしています。 手がつかないでいた自分の部屋の掃除と片付けをしていたら、なんと遙かに遠い自分の青春時代を思い起こす画文集が出てきました。 英文学の恩師の画文集です。
大学に入学して2年間は、学風に馴染めず鬱々とした学生生活を送っていたのですが、3年になって選択したゼミで出会った教授と、仲間達のお陰で人生が変わりました~~
勉強に関しては、すっかり忘れましたが、夏休みに、先生の北軽井沢の山荘での合宿・・・昼は近くの草原や山歩き、夜は勉強、炊事はみんなで作って食べたことや、卒業後も月1回、先生の世田谷のご自宅での読書会、6月になると信州鹿沢高原でのレンゲツツジと山の花を愛でながらワラビ摘み・・などなど、文学と自然と触れ合う楽しさを充分教えて頂きました~~
山荘周辺の散策の時に、先生はスケッチブック片手に、割りばしを削ったペンとインクで休憩時間にはよくスケッチされていらっしゃいました~~ 都立大で教鞭をとられていた時にはワンゲル部の部長として登山を楽しみ、冬はスキー、夏は水泳、バイオリンを弾きフルートも吹く・・・そして、絵も描く・・・そんな優しくて親しみやすいお人柄と先生のマルチな才能に学生たちは、みんな惹かれて先生の大ファンに。
卒業後の月一の読書会には、お嬢さんたちが交代で、見た目も美しく美味しいケーキを作って下さったことが、今でも心温まる思い出として残っています。
先生の画文集は、先生の絵の熱烈ファンの都立大ワンゲル部の卒業生を中心に青学の英文科の学生たちも加わって、出版されました。 絵も文も、奥様をはじめ5人のお子様たちが寄せた文も素敵な1冊です。
先生の絵の中から、私にとって思い出の北軽井沢と浅間周辺、そして鹿沢高原の絵をご覧頂きたいと思います。
冒頭の絵は浅間山の麓の薄原です
そして、白樺の道…こんな草原の道をみんなで散策しました
ワラビ取りに出掛けた鹿沢高原
地蔵峠
6月は梅雨の時期なのですが、何故か鹿沢高原はお天気が良く、満山レンゲツツジが咲いている中を、ワラビ取りや、可憐な山野草を楽しみました。 ここで初めてイワカガミを知りました~~ 他にもいろいろ咲いていたのですが、記憶に残っているのはイワカガミだけです
先生の自画像(もっとイケメンです)
山男ですからこんな絵も
越後駒
槍のみえる尾根
先生は教え子が卒業する時、結婚する時にはお祝いとして、先生の描かれた絵(油絵)を下さいます。 事前に気に入った絵を、先生に伝えることになっていました。 私も、宝物として2枚先生の絵を持っています。
私は、学生時代はもちろん、社会人になってからも絵を描くこととは無縁の人生を歩いてきました。 仕事を辞めてから、絵手紙を始め、それからペンスケッチ、日本画へと、自分の心の赴くままに描いてきて現在に至っています。
もしかしたら、学生時代の恩師の絵がずっと心の底に残っていたのかもしれません。 私が今絵を描いていることを知ったら、ビックリしながらも、先生は『上手い、下手ではなく、自分の絵を楽しんでお描きなさい・・・』と仰って下さると思います。
ところで、さきほど・・・
画文集に挟まれていた、一枚の挨拶状を見つけて驚きました。 それは今からちょうど30年前(平成三年)の6月の日付で、奥様と5人のお子様連名の先生の49日忌の法要のご挨拶状でした・・・
奥様の挨拶状が余りに素敵なのでここに一部引用させていただく事をおゆるし下さい。
〇郎は生前の生き方そのままに颯爽として死に赴きました。 死を恐れることもなく生に執着することもなく、生前の言葉そのままに「家に帰るように」自然へと帰って往きました。 『人生はよく登山にたとえられるが、人生を命をかけて戦い、征服してゆくのもよかろう。 だが、一日一日それ自体を目的として苦しさの中にさえ楽しみを見出しながら一生を送ることができたら、それもまたよい一生ではないか。 そうすれば、失敗に対する悔いもなく、登山を終えて家に帰るような気持ちで、死を迎えることができるのではないだろうか』 (S○○郎画文集 「遥かな山遠い風」より)
なによりも文学を愛し自然を愛し学生を愛した人でした・・・略
先生の画文集の紹介のつもりが、計らずも、追悼のような文になってしまったようですが、奥様曰く「あの皮肉っぽい発音不明瞭な話し方と、象のような目と、はにかんだようなほほえみ」で、『思い出してくれてありがとう』と仰って下さる、と勝手に思っています。
長文にお付き合い頂いて、ありがとうございました。