『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

あれからもう、一年・・・・

2014年03月22日 | 雑感
昨年いた保育園の卒園児たちは
それはもう、個性派揃いだった。

あれからもう一年たつんだなあ・・・・

卒園の時・・・・・・

広汎性発達障害とAD/HDを併せ持つH君
卒園式前日、バリケード騒動を起こしたH君
長い式が、ちょっといやになって
すぐ後ろに控えていたS先生に
「おれ、やっぱり小学校にはいかん。」なんてつぶやいたH君

でも、卒園児として
1時間半もの長い式に、
最後までその場所にいることが出来たH君、
式が終わると、
ステージ中央に立ち、
証書を高々と上げ、
「100点をとります!」と宣言し、
花道の向こうで待つママのところまで
堂々と歩いていったH君

卒園式が終わり、茶話会も楽しく過ぎて
いよいよ、本当に保育園を去る、というとき
卒園児たちをおくるために園庭に並んでいた
先生たちの中からS先生を見つけるとすぐに駆け寄り
H君は、いつまでもS先生の傍を離れなかった。

握手したり、タッチしたり
そのうち、腰にしがみついて・・・・・
でも、S先生は、いつものように彼をぎゅっと抱くことはせず
肩をとんとん、とたたいただけ・・・・・

そのとき、顔を上げたH君の
切なそうな、それを我慢している、なんともいえない顔・・・・・
ああ、彼は今、本当にS先生から卒園していくなあ・・・・・・

S先生が、彼に掲げた3月の「実現可能なねらい」
(2)周囲に認められながら安定して過ごし、少し我慢することを経験する。

それが、実現した瞬間だった・・・・・・


あのH君は、張り切って学校に通っていると聞いた。
もう、2年生になるんだね。

今年もまた、卒園式がやってくる。
52名を送り出す、門出の卒園式は
いいお天気だといいなあ・・・・
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「緩和ケア」

2014年03月22日 | 雑感
昨日の夕方、長野朝日放送で放映されていた番組
『信州のがん最前線』を偶然見た。

「『緩和ケア』の必要性と可能性を探る!」
 との副題で
初期段階からがん治療と並行して緩和ケアを受けている女性、
さらに大腸がんの再発を繰り返し、
自宅での緩和ケアを選んだ男性が登場していた。

私たちと同じだなあ・・・。

登場する医師たち、看護師たちは
「患者が自分らしく過ごせるように」との思いから、
医学的なことだけでなく、さまざまな側面から
心と身体の苦痛を和らげようと対応していた。

今はそれを「緩和ケア」と呼ぶらしい。

本人も苦痛が緩和され、
看取る家族の気持ちもフォローしてくれる・・・・

5年前、父を家に引き取って、看取る覚悟をしたとき
看護師さんからこういわれた。

「いつも側にいようとしなくていいんですよ。
患者さんにとって大事なのは、
日々の生活がいつものように流れていくこと、

ご家族が出勤する『行ってきます』の声が聞こえたり
台所で、食事の用意をする気配が感じられたり
お洗濯物を干したり、
ご近所さんと話をしたりする姿が
ちらちらと見えたり・・・・
そういうことが大事なんだから・・・・・

だからね、
例え、最期の時に、
もし誰も側についていなかったとしても
そのことで、ご家族の間で責めたりしないでくださいね。」

幸い父は、母に看取られて亡くなったが、
父はきっと、幸せだったに違いない、と思う。

母の最期はどうだろうか・・・
と、時々考える。
母も、父と同じように
できれば、家で
家族に囲まれた最後を送れるようにしてあげたい。







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3月21日 父の命日

2014年03月22日 | 雑感
3月21日、春分の日
春の彼岸の中日、この日は父の命日です。

あれから、5年経ちました。

遠くに嫁いだ姉が、父の好きだったお菓子を送ってくれました。
近くに住む姉夫婦は、お墓参りに来てくれましたし、
姪が、娘(曾孫)を連れてお線香を立てにきてくれました。


K 医師 様

寒さもようやく緩み、日ごとに春の暖かさを感じられるようになってまいりました。
K先生におかれましては、ますますご健勝で
患者の皆様のために日々ご活躍されておられることと拝察いたします。

父の治療に当たりましては、一方ならぬご努力を頂きまして
誠にありがとうございました。
父は、3月21日、土曜日、午前7時32分、母に手を握られ最期の時を迎えました。
生前、父のために、また私達家族のために
ご努力いただきました治療や対処の数々に対しまして、
お礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

 3月12日、退院の夜は、
私ども家族や姉一家と共に、
父の部屋でささやかな退院祝を行いました。
大好きだったお酒もビールもちょっぴり飲みました。
刺身をおいしそうに食べ、孫や曾孫に囲まれた幸せな時間でした。

あくる日は、K先生の回診や
看護師さんたちが見えないことへの不安からか、
少しいらいらした様子が見受けられましたが、
お願いしてあったS診療所の看護師さんや先生が
往診に見えてくださいますと、ようやくほっとした様子でした。

退院した当日こそ、病室と自室とを混同しておりましたが、
あくる日からはずいぶん頭もはっきりして、
それぞれの家族や見舞い客を認めることもでき、
以後は、毎日穏やかに過ごすことができました。

13日から16日夕方までは、
三度三度の食事を私たちと一緒にきちんと食し、
(父の部屋に座卓を運び入れ、毎夕食は家族全員で一緒に食べました。)
血色も良く、私たち家族を一時安心させてくれましたが、
17日の昼食を最後に食事が摂れなくなりました。

先生から頂いた鎮痛剤(オプソ)の投与は、
退院したあくる日、13日の夕方から服用させました。
それでも、一日2回程度で済み、
15日は、全く服用せずに済んでおりました。
それは、日曜日であったため、
朝から途切れなく父を見舞う人たちがおり、
気が紛れていたからだろうと想像いたします。
またこの日は、付き添う母に
「おんたけやま(伊那節)」を歌って聞かせていました。
よほど気分が良かったのでしょう。
けれどそれが、父の元気な姿が見られた最後の日となりました。

18日(水)からは水分のみで、
けれどその水分すら嚥下することが次第に困難になっていきました。
先生から頂いた鎮痛剤は19日までありましたが、
以後はS先生から頂いた倍の量のオプソに変わりました。
頂いてあったオプソは液状の飲みやすい薬でしたが、
父が亡くなる早朝は、嚥下できないため、
S先生から頂いたオプソの座薬を
初めて人工肛門から注入いたしました。

今思うと、これが命取りになったか、とも思うのですが、
それはやはり寿命だったのだ、と思いなおすことにいたしました。

末期の癌患者である父を家で看取りたい、
という私どものわがままに対して、
K先生始め、看護婦の皆様には本当にご努力いただきましたこと、
ありがたく感謝申し上げます。

毎晩父の側で一緒に眠る時間を、
例え9日間というわずかな期間でも持たせていただきましたことにつきましても、
ありがたく嬉しく思っております。
本当にありがとうございました。

父の葬儀も無事に済み、少し落ち着きましたので、
一言先生にお礼を申し上げたくてペンを取りました。
 
まもなく桜も咲き、いい季節を迎えます。
先生は日々お忙しいでしょうが、
お体を大切になさいましてご活躍されますようご祈念申し上げます。

    平成21年3月24日
コメント (2)
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1週間経って・・・・

2014年03月22日 | 雑感
前回アップしてから1週間
春が来たみたいです!


ご近所の古い家を撤去したので
とても、見晴らしが良くなりました
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