『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

「緩和ケア」

2014年03月22日 | 雑感
昨日の夕方、長野朝日放送で放映されていた番組
『信州のがん最前線』を偶然見た。

「『緩和ケア』の必要性と可能性を探る!」
 との副題で
初期段階からがん治療と並行して緩和ケアを受けている女性、
さらに大腸がんの再発を繰り返し、
自宅での緩和ケアを選んだ男性が登場していた。

私たちと同じだなあ・・・。

登場する医師たち、看護師たちは
「患者が自分らしく過ごせるように」との思いから、
医学的なことだけでなく、さまざまな側面から
心と身体の苦痛を和らげようと対応していた。

今はそれを「緩和ケア」と呼ぶらしい。

本人も苦痛が緩和され、
看取る家族の気持ちもフォローしてくれる・・・・

5年前、父を家に引き取って、看取る覚悟をしたとき
看護師さんからこういわれた。

「いつも側にいようとしなくていいんですよ。
患者さんにとって大事なのは、
日々の生活がいつものように流れていくこと、

ご家族が出勤する『行ってきます』の声が聞こえたり
台所で、食事の用意をする気配が感じられたり
お洗濯物を干したり、
ご近所さんと話をしたりする姿が
ちらちらと見えたり・・・・
そういうことが大事なんだから・・・・・

だからね、
例え、最期の時に、
もし誰も側についていなかったとしても
そのことで、ご家族の間で責めたりしないでくださいね。」

幸い父は、母に看取られて亡くなったが、
父はきっと、幸せだったに違いない、と思う。

母の最期はどうだろうか・・・
と、時々考える。
母も、父と同じように
できれば、家で
家族に囲まれた最後を送れるようにしてあげたい。







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3月21日 父の命日

2014年03月22日 | 雑感
3月21日、春分の日
春の彼岸の中日、この日は父の命日です。

あれから、5年経ちました。

遠くに嫁いだ姉が、父の好きだったお菓子を送ってくれました。
近くに住む姉夫婦は、お墓参りに来てくれましたし、
姪が、娘(曾孫)を連れてお線香を立てにきてくれました。


K 医師 様

寒さもようやく緩み、日ごとに春の暖かさを感じられるようになってまいりました。
K先生におかれましては、ますますご健勝で
患者の皆様のために日々ご活躍されておられることと拝察いたします。

父の治療に当たりましては、一方ならぬご努力を頂きまして
誠にありがとうございました。
父は、3月21日、土曜日、午前7時32分、母に手を握られ最期の時を迎えました。
生前、父のために、また私達家族のために
ご努力いただきました治療や対処の数々に対しまして、
お礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

 3月12日、退院の夜は、
私ども家族や姉一家と共に、
父の部屋でささやかな退院祝を行いました。
大好きだったお酒もビールもちょっぴり飲みました。
刺身をおいしそうに食べ、孫や曾孫に囲まれた幸せな時間でした。

あくる日は、K先生の回診や
看護師さんたちが見えないことへの不安からか、
少しいらいらした様子が見受けられましたが、
お願いしてあったS診療所の看護師さんや先生が
往診に見えてくださいますと、ようやくほっとした様子でした。

退院した当日こそ、病室と自室とを混同しておりましたが、
あくる日からはずいぶん頭もはっきりして、
それぞれの家族や見舞い客を認めることもでき、
以後は、毎日穏やかに過ごすことができました。

13日から16日夕方までは、
三度三度の食事を私たちと一緒にきちんと食し、
(父の部屋に座卓を運び入れ、毎夕食は家族全員で一緒に食べました。)
血色も良く、私たち家族を一時安心させてくれましたが、
17日の昼食を最後に食事が摂れなくなりました。

先生から頂いた鎮痛剤(オプソ)の投与は、
退院したあくる日、13日の夕方から服用させました。
それでも、一日2回程度で済み、
15日は、全く服用せずに済んでおりました。
それは、日曜日であったため、
朝から途切れなく父を見舞う人たちがおり、
気が紛れていたからだろうと想像いたします。
またこの日は、付き添う母に
「おんたけやま(伊那節)」を歌って聞かせていました。
よほど気分が良かったのでしょう。
けれどそれが、父の元気な姿が見られた最後の日となりました。

18日(水)からは水分のみで、
けれどその水分すら嚥下することが次第に困難になっていきました。
先生から頂いた鎮痛剤は19日までありましたが、
以後はS先生から頂いた倍の量のオプソに変わりました。
頂いてあったオプソは液状の飲みやすい薬でしたが、
父が亡くなる早朝は、嚥下できないため、
S先生から頂いたオプソの座薬を
初めて人工肛門から注入いたしました。

今思うと、これが命取りになったか、とも思うのですが、
それはやはり寿命だったのだ、と思いなおすことにいたしました。

末期の癌患者である父を家で看取りたい、
という私どものわがままに対して、
K先生始め、看護婦の皆様には本当にご努力いただきましたこと、
ありがたく感謝申し上げます。

毎晩父の側で一緒に眠る時間を、
例え9日間というわずかな期間でも持たせていただきましたことにつきましても、
ありがたく嬉しく思っております。
本当にありがとうございました。

父の葬儀も無事に済み、少し落ち着きましたので、
一言先生にお礼を申し上げたくてペンを取りました。
 
まもなく桜も咲き、いい季節を迎えます。
先生は日々お忙しいでしょうが、
お体を大切になさいましてご活躍されますようご祈念申し上げます。

    平成21年3月24日
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1週間経って・・・・

2014年03月22日 | 雑感
前回アップしてから1週間
春が来たみたいです!


ご近所の古い家を撤去したので
とても、見晴らしが良くなりました
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3月16日 今朝も寒いのですが・・・・

2014年03月16日 | 日記
雪景色一色だった1週間前
<3月9日撮影>


先日の雨で、その雪がかなり融けました。

あちらこちらから
春のにおいがしてきました。
<3月16日、今朝の風景>


そして、
ようやく我が家の庭にも
春がやってきました。




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『旅立ちの日に』

2014年03月15日 | 雑感
小学校の卒業式に招かれて出席してきました。
73名の卒業生・・・・

久しぶりに『旅立ちの日に』を聞きました。
改めて、いい歌だなあ・・と思いました。

『旅立ちの日に』 作詞 小嶋登 作曲 坂本浩美

白い光の中に 山並みは萌えて
はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由をかける鳥よ 振り返ることもせず

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあの時
心通った嬉しさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思い出強くだいて

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

10年近く前、この歌ができたいきさつを
ニュースステーションが特集を組んでやったことがありました。
とっても興味深くて、CDまで買ってしまった、という記憶があります。

(Wikipediaから)
『旅立ちの日に』(たびだちのひに)は、
1991年に埼玉県秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲。
作詞は、当時の校長であった小嶋登。
作曲は、音楽教諭の坂本浩美(現・高橋浩美)。
編曲は、多くの合唱曲を手掛けている松井孝夫(影森中学と直接的な関係はない)。
近年では、卒業ソングの定番として認知され、
原曲の変ロ長調の他にハ長調など、たくさんの調で歌われている。
また、混声三部版、混声四部版、女声三部版、同声二部版と複数のバージョンが存在している。

影森中学校校長だった小嶋は、
荒れていた学校を矯正するために「歌声の響く学校」にすることを目指し、
合唱の機会を増やした。
最初こそ生徒は抵抗したが、
音楽科教諭の坂本と共に粘り強く努力を続けた結果、
歌う楽しさによって学校は明るくなった。

「歌声の響く学校」を目指して3年目の1991年2月下旬、
坂本は「歌声の響く学校」の集大成として、
「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、
世界にひとつしかないものを残したい」との思いから、作詞を小嶋に依頼した。
その時は「私にはそんなセンスはないから」と断られたというが、
翌日、坂本のデスクに書き上げられた詞が置いてあったという。
その詞を見た坂本は、なんて素敵な言葉が散りばめられているんだ
と感激したと、ラジオ番組への手紙で当時を振り返り語っている。
その後授業の空き時間に早速ひとり音楽室にこもり楽曲制作に取り組むと、
旋律が湧き出るように思い浮かび、
実際の楽曲制作に要した時間は15分程度だったという。

出来上がった曲は最初はたった一度きり、
「3年生を送る会」で教職員たちから卒業生に向けて歌うための
サプライズ曲のはずであったが、
その翌年からは生徒たちが歌うようになった。
ちなみに初めて披露した年度をもって、
校長の小嶋は41年に及ぶ教師生活を定年退職したため、
小嶋が披露したのはこれが最初で最後となった。

その後しばらくは影森中学校だけの合唱曲であったが、
まわりの小中学校でも使われだしたことで、
1998年頃までに全国の学校で歌われるようになった。
現在では『仰げば尊し』や『巣立ちの歌』、『贈る言葉』などに代わり、
小中高の卒業式において全国で最も広く歌われている卒業式の歌となっている。

その当時はもう、子どもたちは高校、大学生で
この『旅立ちの日に』を、自分の子どもの卒業式に聞くことはできませんでした。

今日、久しぶりにこの歌を聞き、
当時の校長先生や坂本先生の思いと重なり
胸が熱くなる、卒業式となりました。
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