多賀神社
年末からの仕事がやっと終わって1月5日今年初めての休暇になりました。
三が日も終わり、やっと神社も静かになりました。
混んでるところが大嫌いな私にとって静寂したこの時間は私一人の時間です。
近所にある小さな神社ですが、ここで「どんと祭」も行われます。
しっかり参拝もさせていただきました。
本年もよろしくお願い申し上げます
デジブック 『旅へ行きたい』
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この石碑の前を子供の頃よく通りました。 小学生から中学の頃でしょう。
もちろん大人になっても車で通過していましたが、昔からあった石碑なので気にも留めませんでした。
近頃は、新道ができこの道を通ることも無くなりました。
多賀城の事をもう少し知りたいと思っている今日この頃・・・よく見ると文字が刻まれていることを発見しました。
昭和に出来たものですが、この石碑について、今日は記録しておきます。
所謂 . . . 本文を読む
多賀城に多賀神社は二ヶ所あります。
多賀城廃寺(高崎廃寺)付近に鎮座する多賀神社(UP済み)と今回の政庁役所址(市川)に鎮座する多賀神社があります。
地元では「お多賀様」と呼ばれる。
正面には小型の箍(たが)を輪繋ぎしたものが数多く供えられている。
この箍は頭痛を患う者が当社に平穏を祈願し、礼詣りにその者の歳の数の箍を供える。
箍は多賀と同音による供物であり、この供物は他地方の多賀社も同様 . . . 本文を読む
これはHP多賀城の資料です。
大日堂
高橋発向にあり、旧高橋村の鎮守であった。(現在高橋5丁目・旧、高橋字発向貳百拾壱番地)
祭日は四月と十二月の八日で「大日講」といい、集落の人々が米を持ち寄り、握飯を作って供え、一同で握り飯を食べて祭りをしている。
高橋大日堂は、地区住民の神仏習合の場として崇拝され、御本尊日如来は守本尊として五穀豊饒 家内安全 無病息災を願い時には平穏 武運長久を . . . 本文を読む
別名天童神社、喜太郎稲荷とも呼ばれる天童氏の守護神。天童氏が出羽国天童にいた頃、喜太郎という足軽に窮地を救われたという伝説が残されています。
「喜太郎稲荷大明神由来」
天正十二年十月十日(1584年)
天童城主頼久公最上義光に攻略され落城草刈将監等と関山峠を越えんとしたが暗闇の為難渋す
その時喜太郎と言う忍者現れ灯を点し愛子迄道案内をつとめてくれた
以後生命の恩人として天童家の氏 . . . 本文を読む
志引石(千引石)
むかし、多賀城に陸奥の国府があったころのお話です。
道路を新しく建設するため甲斐守といわれた人が宰領(指揮監督する人)となり多勢の人が集められ働いていました。 工事は順調に進んでいましたが終わり近くになって工事を阻むように巨大な石が出てきました。
この石を取り除かないと道路ができません。太い綱を何本もかけ皆で力を合わせて引っ ぱりましたが石はビクとも動きません。
甲斐守は . . . 本文を読む
多賀城市の伝承に「太郎天神」という天神社がある。
留ヶ谷の鎮守である天神社・・・・・とあるのだが、私が知る限りでは、ここの天満宮しか考えられない。
多賀城市の保存樹木一覧に太郎天神と呼ばれる天満宮の境内にこの樹木があることから確認が取れた。
その樹木はこれです。
樹種 シイ、ブナ科、シイノキ属
樹高 22.10m
胸高周囲 2.75m
推定樹齢 250年
所在地 留ヶ谷1丁目 . . . 本文を読む
一気に冬が足音をたてながら近づいてきます。
その前に秋色を観に近場を歩きました。
屋敷の囲む塀にはギッチリと色づいた葉が・・・
モミジが集まると万華鏡のような、カーテンのようなまたは曼荼羅のような・・・
この葉はいつ落ちようとしているのだろう。
落ちても大丈夫!! 枯葉の絨毯敷いています。
冬支度冬支度!!
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昨日、床屋さんに行ってから、多賀城の歴史博物館に足を運びました。
いつもは空いている駐車場がほぼ満車でした。
館内が混んでいたら嫌だな~と思いながら、博物館の前の広場でイベントをしていました。
土曜日だったのですね。
この丸木船の乗船体験が目的だったようです。
縄文前期には、この「くりふね」が造られていますね、一本の木をくり貫いたり2本の木をくり貫いて左右合わせて造ったのもあるようです。
目 . . . 本文を読む
2012年4月15日(日)、本日、多賀城市にある『陸奥総社宮例大祭』が行われました。
神亀元(724)年、陸奥国府及び鎮守府が多賀城に置かれたことは今まで何度かこのブログで紹介済みです。
陸奥総社宮/多賀城
陸奥総社宮は陸奥国延喜式内社100社の神が祀られ、国司が自ら祭司となり祭事を執り行なったという古社です。
鹽竈神社に参拝する際には、陸奥総社宮を詣でてからでないとご加護がないともいわれていま . . . 本文を読む
今年は多賀城万葉祭りは中止され、復興祭として多賀城政庁跡にて行われました。
私は17:30頃向いました。 陽は落ち両脇に道しるべの様に燈された灯りに沿って政庁跡へ向いました。
上について驚きましたね~ 数え切れないほどの灯篭が一面に輝いていました。
蝋燭の明かりはゆらゆらと揺れ綺麗に瞬いています。
何やら書いてあります。 これは多賀城市内の小学生が夏休みに作ったもの . . . 本文を読む
仁和多利神社(仁和田里権現社)
御祭神:武内宿祢之命 例祭:旧九月十九日
由 緒:板碑から抜粋
本社は後醍醐天皇之御宇元応元年笠神村の邑人ら病門守護のため末申之方字上ノ台に勧請し奉り仁和田里権現社と称した。
本殿は元禄十二巳卯年九月晦日造営にかかり今に流造を在置し、宝永七年、元文四年、安永五年、文政十一年の
棟札を社蔵し住昔の鎮守護持今に伝わる。
明治四年神佛分離に伴い権現号を廃し . . . 本文を読む
高崎二丁目地内に市内で最も古い歴史をもつといわれる化度寺という曹洞宗の寺があります。
この寺の西側に赤松林に囲まれた静かなたたずまいの一画があります。
ここが地元の人から日光院と呼ばれている小祠(小さなやしろ)があるところです。
いつ造られたかは不明です。斜面(昔は石の階段だったのでしょう)をのぼると、日露戦争で散華された地元の方の英霊碑と大正11年3月3日高崎に電灯がはじめて点灯 . . . 本文を読む
多賀城市内では現在のところ確認できる最古の供養碑であり仏教関係の資料としても貴重な文化財であることから、市指定文化財になっております。
「弘安の碑」は仙台市内でも根白石付近で看板を見掛けます。きっと他にもあるのだろうとお思います。
さて、この碑は、明治時代に高崎井戸尻地区で発見され、鬼子母神堂に安置されていましたが、堂が破棄されたため平成12年に現在の化度寺境内に移されました。
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