割石の伝説
順番交えました。割石の伝説を先にします。
先日の古碑群を見てから、七北田川の堤防を歩き探しました。
この辺を新田遺跡といいます。 読み方は「にいだ」です。
まずは、この石に纏わる伝説をご紹介します。
昔、新田では大雨が降ったり、長雨が降ったりしますと、川が氾濫し堤防が切れ、農作物はもちろん、時には人畜にも被害を及ぼすこともありました。
だから、どんなに雨が降っても切れ . . . 本文を読む
多賀城市と仙台市の境には七北田川が流れています。
この堤防やその付近には古碑が多く見つかっております。
七北田川
古碑群正面・・・堤防の横ですが、住宅地の中でもあります。
教育委員会の説明ボードから転記させて頂きます。
碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて建てられた供養碑です。
供養には、追善供養と逆修供養があります。
追善供養は、年忌供養で死者の年忌(一周忌、七回忌、十三回忌等) . . . 本文を読む
陸奥総社宮の説明に関する記事はこちら「総社宮と多賀神社」
先日、予約をしまして御祓いをしてきました。
心の痞え取れた気がします。
境内の隅にご神木があります。まだ記事にしていませんでしたのでこの機会にご紹介します。
ご神木の老杉の横にモクレンの木があり、花が咲くと老杉が化粧をしたかのように見えることから昔から
誰からともなく、このように詠まれ、愛され語り継がれてきたそうです。
老杉に . . . 本文を読む
伏 石
弘安十年(1287)の紀年がある供養碑です。
碑文には、時宗の僧西阿弥陀仏が三十余人の協力のもとにこの碑文を建立したことが刻まれています。
由来は、昔、この石を起こして立てたところ、この地に疫病が流行し、占ってみると、石を起こしたためである
というので、再びもとのように伏せました。
それが今でもそのままの状態で残っているのです。
左の白い道が、総社宮に行く旧塩釜街道 . . . 本文を読む
渡り鳥の具合はどうなのかと・・・・ちょっと覗いてみた。
まだ、秋の香りが漂う陽気な日だった。
どうやら餌を巡って喧嘩が始まったようです。
白いのはユリカモメですね。
尾が白いのがカモメです。 一般的に餌をやって観光船についてくる鳥の殆どはウミネコです。
尾が黒いですから、区別は簡単です。
カモメ科ですので「カモメ」でも間違いではありませんが、ウミネコは巣を作り定着していますが、カモメは . . . 本文を読む
暦の上では「大雪」だと言うのに、この日は暖かな西日が林に射しこんでいた。
枯葉の絨毯の上を歩くと、柔らかい感触が足の裏に伝わってくる。
「ガサ・・ガサ」文字にするとノイズのように思うが、耳に感じる音は妙に心地よい。
きっと自然の中にいるからなのかもしれない。
すっかり枯れ木になってしまった多賀城廃寺の南の斜面は落葉でいっぱいになっていた。
無性に歩きたくなって散歩にでかけた・・・・
. . . 本文を読む
HP多賀城の資料です。
特別史跡多賀城廃寺跡地元では、高崎地区にあることから高崎廃寺とも言われています。写真を見てわかるように広々としており、子供達が走りまわり、また弁当を広げて花見をする親子の姿も見受けられる。私も高校の頃、誰も居ないこの廃寺で大きな声で歌ったり、空手の道着を着て練習をしたり、子供を連れてきて散歩をしたものです。それでは、ここは何の跡地だったのか、ご説明したいと思います。多 . . . 本文を読む
第24回 あやめまつりが多賀城で行われていますが、今年は花が遅かったようで、
初めの頃は寂しいものでした。
行こうか?どうしようかと思いましたが、明日は土曜日で混みそうですし
27日の日曜日はインドネシアフェアーがありますが、仕事なので本日、明番でしたが
重い腰を上げ、一人でプラプラ行ってきました。
写真のみUPします~
サムネイルの小さい画像はクリックで大きくなります。
今日の陽射 . . . 本文を読む
陸奥総社宮 (むつそうしゃのみや)
ここは多賀城政庁跡から北東に位置する。 鬼門に当たる場所
以前の記事のアラハバキ神社の近くです。
興味のある方は
神亀元年(724年)に多賀城に国府が創建されてから177年後の延喜年号になると、第60代醍醐天皇(ダイゴテンノウ)の勅命により、律令政治の基本となる延喜式(エンギシキ/全50巻)の編纂(ヘンサン)が始まります。
その延喜式内社(エンギシ . . . 本文を読む
鹽竃桜の撮影に行こうと言うことで、家を出ましたが、せっかくだからと総社宮を経由して行くことに・・・。
多賀城政庁跡の裏側になるのですが、大きな枝垂桜が目に飛んできました。
即、車を止め撮影開始・・・
カミサンにもカメラを預け、協力を依頼・・・
平安時代の倉庫跡からまず一枚!
ひーさんがちっこく・・・見えますか? 撮ったのはこの写真。
多賀神社は全国にありますが、この他 . . . 本文を読む
壺の碑についてはここをクリック
八幡神社ーはちまんじんじゃー
通常は「はちまん」でいいのですが、自分が子供の頃は「やわた」神社と読んでいたような気がします。
実は、多賀城では地名が「やわた」になっているからです。
八幡(やわた)の地名は多賀城市の中でも広い地域の一つです。
今は、〇丁目と言いますが、私が幼少の頃は、の名前があり八幡下一・八幡下二・八幡上・八幡沖と . . . 本文を読む
多賀城市内の国府が築かれた辺りをウロウロしていると・・・・
新発見
何これ いつの間に空き地の隅に記念碑が・・・?
漏刻(水時計)
『日本書記』には、我が国では、斉明天皇6年(660年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が初めて「漏刻」を造り、人々に時刻を知らせ、天智天皇10年(671年)4月25日(現行暦6月10日)に「漏刻」を新天文台に据え、鐘や鼓(つつみ)で時を知ら . . . 本文を読む