
志引石(千引石)
むかし、多賀城に陸奥の国府があったころのお話です。
道路を新しく建設するため甲斐守といわれた人が宰領(指揮監督する人)となり多勢の人が集められ働いていました。 工事は順調に進んでいましたが終わり近くになって工事を阻むように巨大な石が出てきました。
この石を取り除かないと道路ができません。太い綱を何本もかけ皆で力を合わせて引っ ぱりましたが石はビクとも動きません。
甲斐守は塩辛声をはりあげて人びとを激励しながらいろいろ試してみましたが石はやっ ぱりビクとも動きません。
そこへ何処から来たのかこの辺では見かけない年のころ15~16のめんこい(かわいらしい)娘が、私に宰領させてくださいと申し出ました。
甲斐守は、みんながいっしょうけんめい頑張ってもビクともしないのに、こんな小娘に一体何が出来るか、工事のじゃまだ怪我をするからどいていろと相手にしません。
しかし、娘は何度も同じように頼みこむので、とうとう根負けし、それなら座興がわりにやらせてみようということになりました。 娘は、紫色の紐で襷をかけ、きりりと身支度を整え、采配(団体で行動するとき合図をするもの)を握るとヒラリと巨石のうえに飛びのりました。 そして、私が采配を振って合図をしたら力いっぱい綱を引いてくださいとたのみました。
その声はいままで誰も聞いたことのない金の鈴でも振ったようにすき透るような声でそれを人びとは言い知れぬ力が体のなかに充満してくるように感じられました。
娘は一同を見渡しますと、一声高く掛声をかけると同時に力いっぱい采配を振りました。
するといままでビクともしなかった巨石がムックリ動いたと見えた瞬間娘を乗せたまま宙を飛んでゆき東田中の田圃に2つになって落下しました。
東田中の人びとは寝耳に水の出来事なのでビックリギョウテンしました。
村中総出で引き揚げようとしましたがまるで根がはえたように動きません。
やがて、村人達は、甲斐守様が日頃信仰している観音様が難工事を見かね娘の姿となっ て力を貸し石をここまで運んだのだろうというようになりました。 そして、石が落下した田圃の傍にある丘に巨石と娘の精霊をまつる観音堂を建てました。
この石はやがて千引石、観音様は千引観音(いまは、志引石、志引観音)と呼ばれるようになったということです。
多賀城市HPより

市史によりますと
田中村の「書出」に、縦横六尺と四尺の二つの石があって「千引石」と記している。
昔、岩切村(現:仙台市)の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。
村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。
困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。
村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛ける(かたは跨る)と、石は飛び上がって東田中の伝上山の山裾に落ち二つに割れた・・・・・現在あるのはその一つで、他は土中にあると・・・・・。
この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。
この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が、赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。
当家では、この田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。
すぐ隣接する場所に鳥居が・・・これが志引観音なのでしょうか?
表記が無いため、確認できませんでしたが、そうだと思います。

この写真を撮影した時、足元を見たら石の上でした。 よく見ると明治の文字が・・・

地べたに敷いてもいい物でしょうか?
この位置です。

社は、この建物に保護されていました。

格子から覗くと・・・・


このような伝説がどのようにしてできたのか気になりますが、不思議なことがありますね。
しばらく、多賀城市のあれこれ紹介していきたいと思います。
むかし、多賀城に陸奥の国府があったころのお話です。
道路を新しく建設するため甲斐守といわれた人が宰領(指揮監督する人)となり多勢の人が集められ働いていました。 工事は順調に進んでいましたが終わり近くになって工事を阻むように巨大な石が出てきました。
この石を取り除かないと道路ができません。太い綱を何本もかけ皆で力を合わせて引っ ぱりましたが石はビクとも動きません。
甲斐守は塩辛声をはりあげて人びとを激励しながらいろいろ試してみましたが石はやっ ぱりビクとも動きません。
そこへ何処から来たのかこの辺では見かけない年のころ15~16のめんこい(かわいらしい)娘が、私に宰領させてくださいと申し出ました。
甲斐守は、みんながいっしょうけんめい頑張ってもビクともしないのに、こんな小娘に一体何が出来るか、工事のじゃまだ怪我をするからどいていろと相手にしません。
しかし、娘は何度も同じように頼みこむので、とうとう根負けし、それなら座興がわりにやらせてみようということになりました。 娘は、紫色の紐で襷をかけ、きりりと身支度を整え、采配(団体で行動するとき合図をするもの)を握るとヒラリと巨石のうえに飛びのりました。 そして、私が采配を振って合図をしたら力いっぱい綱を引いてくださいとたのみました。
その声はいままで誰も聞いたことのない金の鈴でも振ったようにすき透るような声でそれを人びとは言い知れぬ力が体のなかに充満してくるように感じられました。
娘は一同を見渡しますと、一声高く掛声をかけると同時に力いっぱい采配を振りました。
するといままでビクともしなかった巨石がムックリ動いたと見えた瞬間娘を乗せたまま宙を飛んでゆき東田中の田圃に2つになって落下しました。
東田中の人びとは寝耳に水の出来事なのでビックリギョウテンしました。
村中総出で引き揚げようとしましたがまるで根がはえたように動きません。
やがて、村人達は、甲斐守様が日頃信仰している観音様が難工事を見かね娘の姿となっ て力を貸し石をここまで運んだのだろうというようになりました。 そして、石が落下した田圃の傍にある丘に巨石と娘の精霊をまつる観音堂を建てました。
この石はやがて千引石、観音様は千引観音(いまは、志引石、志引観音)と呼ばれるようになったということです。
多賀城市HPより

市史によりますと
田中村の「書出」に、縦横六尺と四尺の二つの石があって「千引石」と記している。
昔、岩切村(現:仙台市)の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。
村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。
困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。
村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛ける(かたは跨る)と、石は飛び上がって東田中の伝上山の山裾に落ち二つに割れた・・・・・現在あるのはその一つで、他は土中にあると・・・・・。
この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。
この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が、赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。
当家では、この田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。
すぐ隣接する場所に鳥居が・・・これが志引観音なのでしょうか?
表記が無いため、確認できませんでしたが、そうだと思います。

この写真を撮影した時、足元を見たら石の上でした。 よく見ると明治の文字が・・・

地べたに敷いてもいい物でしょうか?
この位置です。

社は、この建物に保護されていました。

格子から覗くと・・・・


このような伝説がどのようにしてできたのか気になりますが、不思議なことがありますね。
しばらく、多賀城市のあれこれ紹介していきたいと思います。
加工したのか自然なのか
気になります
市史はネタの宝庫鴨ぉ ♪
ご多忙でせうが、 拙記事「椿山荘ランチブッフェ」
是非ご叱正下さい
どこにでもあるような。