多賀城市の伝承に「太郎天神」という天神社がある。
留ヶ谷の鎮守である天神社・・・・・とあるのだが、私が知る限りでは、ここの天満宮しか考えられない。
多賀城市の保存樹木一覧に太郎天神と呼ばれる天満宮の境内にこの樹木があることから確認が取れた。
その樹木はこれです。
樹種 シイ、ブナ科、シイノキ属
樹高 22.10m
胸高周囲 2.75m
推定樹齢 250年
所在地 留ヶ谷1丁目
所有者 天満宮
太郎天神ですが、安永3年(1775年)地元の肝入が書いた風土記御用書出によると、「村の鎮守として現在の場所に鎮座している」と書かれていますが、もとは留ヶ谷に古くから居住する桜井家の内神であったそうです。
クリックで原寸大になります。
留ヶ谷の鎮守である天神社は古く野田の桜井家一族の氏神として、その本家の屋敷内に祀られていた。
昔、当家の家督に太郎という者が居た、太郎は伊勢参りに出かけたので、爺と婆は太郎の旅の安全を氏神の天神様に祈っていた。
しかし、太郎は帰る日になっても戻ってこないので、婆が天神様に、「太郎らんがマメ(達者)で帰らぬものならば屋敷におかぬ天神」と歌を詠んで祈願した。
それに対して爺は、「婆らんが何を言ったとておれに免じておれや天神」と詠んだ。太郎は天神様のお陰で、無事伊勢詣りから帰ることができた。
それで太郎天神と呼ばれるようになった。
隣町松島町手樽に伝えられる昔話に、太郎という者が、天神様の近くで弓を射ると、矢を無くしたので、天神様が食ったのであろうと、天神様を追い出してしまい、それを知った婆が「太郎がなんとかんと言ったっても、おれが屋敷にござって下さい天神様」と詫びをしたが、太郎はさらに「婆はなんと言ったどっておれが屋敷にきづがんな(いるな)天神」と言って追い出した、と語られている。
両者はまったく同型であり、原話を一つにするものと考えられる。
いつ頃の写真か不明だが、以前の社殿の様子。
留ヶ谷の鎮守である天神社・・・・・とあるのだが、私が知る限りでは、ここの天満宮しか考えられない。
多賀城市の保存樹木一覧に太郎天神と呼ばれる天満宮の境内にこの樹木があることから確認が取れた。
その樹木はこれです。
樹種 シイ、ブナ科、シイノキ属
樹高 22.10m
胸高周囲 2.75m
推定樹齢 250年
所在地 留ヶ谷1丁目
所有者 天満宮
太郎天神ですが、安永3年(1775年)地元の肝入が書いた風土記御用書出によると、「村の鎮守として現在の場所に鎮座している」と書かれていますが、もとは留ヶ谷に古くから居住する桜井家の内神であったそうです。
クリックで原寸大になります。
留ヶ谷の鎮守である天神社は古く野田の桜井家一族の氏神として、その本家の屋敷内に祀られていた。
昔、当家の家督に太郎という者が居た、太郎は伊勢参りに出かけたので、爺と婆は太郎の旅の安全を氏神の天神様に祈っていた。
しかし、太郎は帰る日になっても戻ってこないので、婆が天神様に、「太郎らんがマメ(達者)で帰らぬものならば屋敷におかぬ天神」と歌を詠んで祈願した。
それに対して爺は、「婆らんが何を言ったとておれに免じておれや天神」と詠んだ。太郎は天神様のお陰で、無事伊勢詣りから帰ることができた。
それで太郎天神と呼ばれるようになった。
隣町松島町手樽に伝えられる昔話に、太郎という者が、天神様の近くで弓を射ると、矢を無くしたので、天神様が食ったのであろうと、天神様を追い出してしまい、それを知った婆が「太郎がなんとかんと言ったっても、おれが屋敷にござって下さい天神様」と詫びをしたが、太郎はさらに「婆はなんと言ったどっておれが屋敷にきづがんな(いるな)天神」と言って追い出した、と語られている。
両者はまったく同型であり、原話を一つにするものと考えられる。
いつ頃の写真か不明だが、以前の社殿の様子。
このような話しがあったとは、この記事で知りました。
白黒の写真ですが、「塩竈・多賀城の歴史」(宝文堂)に掲載されていた記憶があります。
実家にあると思ったのですが・・・
今度確かめてみます。
隣に集会所がありますが、あまり人は居ませんね。
撫でベコがいればそれらしいのですが、狛犬もいません!