仁和多利神社(仁和田里権現社)
御祭神:武内宿祢之命 例祭:旧九月十九日
由 緒:板碑から抜粋
本社は後醍醐天皇之御宇元応元年笠神村の邑人ら病門守護のため末申之方字上ノ台に勧請し奉り仁和田里権現社と称した。
本殿は元禄十二巳卯年九月晦日造営にかかり今に流造を在置し、宝永七年、元文四年、安永五年、文政十一年の
棟札を社蔵し住昔の鎮守護持今に伝わる。
明治四年神佛分離に伴い権現号を廃して仁和田里神社と称し、更に同十一年現社号となる。
明治三十七年三月 字西沢鎮座 笠石神明社
明治四十一年 字牛生鎮守 須賀神社
明治四十二年 大代鎮守 柏木神社
上記、神社を合祀し村社に列せられる。
※後醍醐天皇 元応元年=1319年
多賀城市史には
笠神花立にある。古くは鶴ケ谷の西園寺の東隣に鎮座していたが、二次大戦中一帯が海軍工廠の敷地にされたため、当社は大代の柏木神社に移され、さらに昭和三十五年現在の地に遷座したものである。 当社は子供のセキセリ(百日咳)に験があるとされ、平穏を願って供えられている鶏の絵馬を借り受け、礼詣りに二枚にして再び納める。かつてはこの絵馬が沢山供えられていたという。
ニワタリと称される神社が、宮城県を中心に福島県より岩手県にわたって分布し、宮城県では牡鹿郡などには集落ごとに祀られ、当市にも笠神と高崎の二社がある。
庭渡・鶏・二渡・鬼渡など種々の字が当てられているが、語源は水が行き渡ることを意味する水渡(みわたり)とする説もあるが不明である。
ニワタリが鶏と音が近いことから、時を告げる鶏の喉が強健であろうという連想より、百日咳に霊験があるという俗信が導かれたものであろう。この信仰は県下に広く一般である。
さてさて狛犬ですが、台座には二十一世紀の文字・・・
どうやら新人のようです。
本殿に向って右阿形玉取り
左吽形子取り
境内には、摂社がありますが表記や扁額はありませんでした。
本殿(神殿)を横から・・・
裏から・・・
石碑や板碑が並ぶ
蛇神はあまり目にしませんね。
蛇神信仰は、どうやら水の神と共通する面がありますね。
この鶏系の神社も水の神であることから石碑があるのでしょう。
古代人は水の神として蛇も崇め祀ったようです。
漢字から、比較すると蛇「み」と水「み」で共通するものがあります。
流れる川は蛇の如く、また水の渦はまるでとぐろを巻いた蛇のようです。
祭神は武内宿禰ですが、後から取って付けたような感じですね。
(たけのうちのすくね)ですが、大和朝廷の初期に活躍したという記紀伝承上の人物です。
孝元天皇の孫又は曾孫との説もあるようです。
なんと、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕えたと言われ、なんと年齢は280歳~360歳などと諸説あり不明。
当然普通に考えても異常ですね。
代々、襲名している可能性もありますね。
天皇の年代も操作されていて、讖緯説(しんいせつ)なるものを、あらはばき神と謎の古代史に記載しています。
長くなりましたので、鶏系の神社(ニワタリ)についてはまたいずれ。
御祭神:武内宿祢之命 例祭:旧九月十九日
由 緒:板碑から抜粋
本社は後醍醐天皇之御宇元応元年笠神村の邑人ら病門守護のため末申之方字上ノ台に勧請し奉り仁和田里権現社と称した。
本殿は元禄十二巳卯年九月晦日造営にかかり今に流造を在置し、宝永七年、元文四年、安永五年、文政十一年の
棟札を社蔵し住昔の鎮守護持今に伝わる。
明治四年神佛分離に伴い権現号を廃して仁和田里神社と称し、更に同十一年現社号となる。
明治三十七年三月 字西沢鎮座 笠石神明社
明治四十一年 字牛生鎮守 須賀神社
明治四十二年 大代鎮守 柏木神社
上記、神社を合祀し村社に列せられる。
※後醍醐天皇 元応元年=1319年
多賀城市史には
笠神花立にある。古くは鶴ケ谷の西園寺の東隣に鎮座していたが、二次大戦中一帯が海軍工廠の敷地にされたため、当社は大代の柏木神社に移され、さらに昭和三十五年現在の地に遷座したものである。 当社は子供のセキセリ(百日咳)に験があるとされ、平穏を願って供えられている鶏の絵馬を借り受け、礼詣りに二枚にして再び納める。かつてはこの絵馬が沢山供えられていたという。
ニワタリと称される神社が、宮城県を中心に福島県より岩手県にわたって分布し、宮城県では牡鹿郡などには集落ごとに祀られ、当市にも笠神と高崎の二社がある。
庭渡・鶏・二渡・鬼渡など種々の字が当てられているが、語源は水が行き渡ることを意味する水渡(みわたり)とする説もあるが不明である。
ニワタリが鶏と音が近いことから、時を告げる鶏の喉が強健であろうという連想より、百日咳に霊験があるという俗信が導かれたものであろう。この信仰は県下に広く一般である。
さてさて狛犬ですが、台座には二十一世紀の文字・・・
どうやら新人のようです。
本殿に向って右阿形玉取り
左吽形子取り
境内には、摂社がありますが表記や扁額はありませんでした。
本殿(神殿)を横から・・・
裏から・・・
石碑や板碑が並ぶ
蛇神はあまり目にしませんね。
蛇神信仰は、どうやら水の神と共通する面がありますね。
この鶏系の神社も水の神であることから石碑があるのでしょう。
古代人は水の神として蛇も崇め祀ったようです。
漢字から、比較すると蛇「み」と水「み」で共通するものがあります。
流れる川は蛇の如く、また水の渦はまるでとぐろを巻いた蛇のようです。
祭神は武内宿禰ですが、後から取って付けたような感じですね。
(たけのうちのすくね)ですが、大和朝廷の初期に活躍したという記紀伝承上の人物です。
孝元天皇の孫又は曾孫との説もあるようです。
なんと、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕えたと言われ、なんと年齢は280歳~360歳などと諸説あり不明。
当然普通に考えても異常ですね。
代々、襲名している可能性もありますね。
天皇の年代も操作されていて、讖緯説(しんいせつ)なるものを、あらはばき神と謎の古代史に記載しています。
長くなりましたので、鶏系の神社(ニワタリ)についてはまたいずれ。
参拝はしたこと無かったのっしゃ。
思ったより広い境内だっちゃねぇ~
んでも!!狛犬の台座に21世紀って…!?
いくら平成13年が西暦2001年だったからって、
多神教の宗教施設に一神教の救世主紀元彫る感覚って???
興味深いですねぇ
蛇神の石碑は、私も余り記憶にないです。
蛇神=水神ならば、ニワトリを生贄にする慣わしも有りますし、昔の長田神社の様に境内にニワトリを放し飼いにし、ニワトリが嫌いな祭神(恵比寿様)が出て来ない為のニワトリのケースもあります。
まだ断言は出来ませんが、蝦夷はエビスとも読めます。ニワトリ系の神社が南東北に集中している事を考えると、後者も十分考えられると思います。
処で何故祭神が武内宿禰命なのか?
武内宿禰は応神天皇を育てたから子供の神とされます。
塩釜神社との関係も大変深いです。また、三韓征伐にも同行しています。
最後にニワトリ系神社の祭神には「波」の付く名前の神が多く見えます。
波は「pa」とも読めます。「pa」はアイヌ語で疱瘡。疱瘡は朝鮮から渡ってきたらしいですが、疱瘡神は別名・笠神とも呼ばれています。
またまた長文になって失礼しました。
ではでは。
そうそう~
あ~さんの御指摘のように
千木が混在ということは
祭神も違うのかなぁ? (^_-)~☆
気づがねがった。
あの通はどこに抜げんの?
いずれ下に降りて行くんでしょうけど。
全く違う造りの社殿ですね。一見穀物倉庫にも見えなくはないです 。
祭神の名前くらいは書いてて欲しいものです。
よく気づかれました。流石雨漏りどの。
ここは黙って通過しないと思ってましたよww
「かさ」はかさっこのかさですかね?
地名の由来も調べようと思いましたが時間がありませんでした。
恵比寿が嫌いな神ですか? 恵比寿としての祭神に関すると云うよりも蝦夷と重ね合わせた方が説明はつくのでしょう。
でもそうなると、古代東北の蝦夷系の人々の敵になってしまいますね。
竜神はいい神だったと思いますよ。
昨日県の図書館に行ってきましたが、やはり出雲の関係本は多いですね。
読みたい本が沢山ありました。
是非島根県の図書館へ
ここに武内宿禰を祭るニワトリ系の神社が有るのは、チョット凄い事です。
多賀城と塩釜神社、蝦夷討伐の謎を解く鍵ではないかと考えています。
さて、昔の戦いは呪い合戦でもあります。
たとえば源平合戦。ご存知だと思いますが、源氏は八幡神と弁財天を信仰。
平家は市杵嶋姫を信仰し、互いに呪い合っていました。でも弁財天=市杵嶋姫です。同じ神を頼りにお互いに呪い合っていたと言えます。祈願・祈祷された弁財天も大変困った事でしょう。
また、蝦夷討伐にもそれは言えます。
ニワトリ系の神に「鬼渡の神」がいます。
この神様、多分、涌谷町(笑)あたりでたむろしていた坂上田村麻呂の夢枕に立ち、「我は海であろうと山、川であろうと直ちに渡り行く故、鬼渡の神と申す」と語ってきました。
田村麻呂が涌谷で、何をしていたかは別の機会に申し上げますが(笑)、鬼渡りの神は田村麻呂を守護した事になります。
それは何を意味するのか。断言は出来ませんが、多賀城のアラハバキ神社前にテント村を築いた熟蝦夷に関係すると思います。
ではでは。
田村磨呂が涌谷で・・・・はて?金の採掘にでも行ってましたか ?ww
多賀城のアラハバキの回りに朝廷に協力的な蝦夷の集団がいた 。
そして田村磨呂を守護していた鬼渡り神こそアラハバキだったのでは無いでしょうか ?
大胆な推測ですが・・・
そうすればまんざら鹽竈神社との関わりが生まれるのでは?