「御蔭様」江戸時代に生まれたこの言葉。
神様の姿は見えずともいつも我々の近くに居る。
自然崇拝から始まり、いろいろな形の神々が世界中にいる。
「蔭」である神々は見えることはない。
見えてしまえばそれは荒ぶる「陽」である状態だ。
「見えなくてもいつもあなたを守護している」という存在。
これが日本の八百万の神々の正体といえるのかも知れない。
私の考えは、物や何らかの物体に例え、神の存在をその物に置き換え崇拝したり祈ったりしているのが
古来からの形なのかもしれませんが、本来その神はひとりひとりの心の中にいるのではないでしょうか?
神様お願いします。助けてください! 神様ありがとうございます。
どれも何かに頼っているかのように思いますが心の中で祈っている時、実は自分に言い聞かせているのかも知れません。
その祈りこそが自分自身の力になり、自分の態度に表れて来るのだと考えています。
本当の神は自分自身の心の中にあるのだと感じています。
伊勢をお参りするときは外宮からと言いますが、その前に訪れたいのが、今回の二見興玉神社です。
昔から伊勢神宮に参拝する前には二見浦で沐浴して身を洗い清める習わしがありました。
そのため現在でも二見興玉神社を参拝する人が多いのです。
「清渚(きよきなぎさ)」とも呼ばれる二見浦は、古来から神宮参拝前に身を清めるみそぎの場として知られています。
鎮座地:三重県伊勢市二見町江575
主祭神:猿田彦大神・ 宇迦御魂大神・ 綿津見大神(境内社 龍宮社)
大若子命(飛地境内社 栄野神社)
夫婦岩
高さ9mの男岩と4mの女岩からなり固く結ばれた注連縄が特徴。 沖合の海中に鎮まる猿田彦大神の霊石の、鳥居の役目を果たす。
万事の最善の方向へと導いてくれる猿田彦大神を含む3柱を祀る境内には猿田彦大神の使いとされるカエルの像が多数あり「無事カエル」で交通安全、注連縄で固く結ばれた夫婦岩は縁結びの御利益といわれています。
境内には、綿津見大神を祀る龍宮社
まったく別の考えですが、私のホームページ「あらはばき神と謎の古代史」から一部抜粋。
伊勢神宮の荒垣の内におられのがそれである。
群馬県吾妻郡の後藤菊次郎著「子持山縁起」では、「荒人神」が「アラハバキ姫」となっており、また、終りの部分
は「伊勢神宮のあらがきの内におはします。
すなわちあらはばき是なり」とアラハバキ神の名を明記しています。
つまり、荒祭宮が伊勢の地主神=アラハバキ神だという説話なのです。
二見にも一族の二見氏がおり興玉神社がある。その沖合(鳥羽市小浜町)に「飛島」という小島があり古くは
「阿波良岐島・淡良岐島」と呼ばれ、アラハバキからきたものに違いないと思われます。
渡会氏の「神道五部書」でも内宮の殿地の地主神と興玉神だと記している。
つまり、アラハバキ神だったということです。
外宮の主祭神は豊受大神である
アメノミナカヌシ(天御中主)、クニノコトタチ(国常立)、ミケツ神の諸神はいずれもトヨウケノ大神の別名としている。
大自在天は梵語では、マケイシュヴァラ:Mahesvara(摩醯首婆羅)といい、世界の主宰神で特にシヴァ神のことを指しており、密教においては、大日如来の応現ともしている。
※応現=応化(おうげ、おうけとも)仏、菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿をかえて出現すること。
つまり、アメノミナカムシはシヴァ神だというのです。
大元とは、オオモト、すなわち始源の意味であり、外宮の神はまず初めに生まれた神である。
したがって万神に先がけて生まれた神こそ最高神である。
しかし、これは表向きであり「大元尊神」実体は「アラハバキ神」のことにほかならなず、ホアカリ系が渡来以前
から最高の神としていたものを巧みにカムフラージュしたもであった。
猿田彦神社とこの二見興玉神社は伊勢神宮125社に入っていない? どんな理由があるのだろうか?
神様の姿は見えずともいつも我々の近くに居る。
自然崇拝から始まり、いろいろな形の神々が世界中にいる。
「蔭」である神々は見えることはない。
見えてしまえばそれは荒ぶる「陽」である状態だ。
「見えなくてもいつもあなたを守護している」という存在。
これが日本の八百万の神々の正体といえるのかも知れない。
私の考えは、物や何らかの物体に例え、神の存在をその物に置き換え崇拝したり祈ったりしているのが
古来からの形なのかもしれませんが、本来その神はひとりひとりの心の中にいるのではないでしょうか?
神様お願いします。助けてください! 神様ありがとうございます。
どれも何かに頼っているかのように思いますが心の中で祈っている時、実は自分に言い聞かせているのかも知れません。
その祈りこそが自分自身の力になり、自分の態度に表れて来るのだと考えています。
本当の神は自分自身の心の中にあるのだと感じています。
伊勢をお参りするときは外宮からと言いますが、その前に訪れたいのが、今回の二見興玉神社です。
昔から伊勢神宮に参拝する前には二見浦で沐浴して身を洗い清める習わしがありました。
そのため現在でも二見興玉神社を参拝する人が多いのです。
「清渚(きよきなぎさ)」とも呼ばれる二見浦は、古来から神宮参拝前に身を清めるみそぎの場として知られています。
鎮座地:三重県伊勢市二見町江575
主祭神:猿田彦大神・ 宇迦御魂大神・ 綿津見大神(境内社 龍宮社)
大若子命(飛地境内社 栄野神社)
夫婦岩
高さ9mの男岩と4mの女岩からなり固く結ばれた注連縄が特徴。 沖合の海中に鎮まる猿田彦大神の霊石の、鳥居の役目を果たす。
万事の最善の方向へと導いてくれる猿田彦大神を含む3柱を祀る境内には猿田彦大神の使いとされるカエルの像が多数あり「無事カエル」で交通安全、注連縄で固く結ばれた夫婦岩は縁結びの御利益といわれています。
境内には、綿津見大神を祀る龍宮社
まったく別の考えですが、私のホームページ「あらはばき神と謎の古代史」から一部抜粋。
伊勢神宮の荒垣の内におられのがそれである。
群馬県吾妻郡の後藤菊次郎著「子持山縁起」では、「荒人神」が「アラハバキ姫」となっており、また、終りの部分
は「伊勢神宮のあらがきの内におはします。
すなわちあらはばき是なり」とアラハバキ神の名を明記しています。
つまり、荒祭宮が伊勢の地主神=アラハバキ神だという説話なのです。
二見にも一族の二見氏がおり興玉神社がある。その沖合(鳥羽市小浜町)に「飛島」という小島があり古くは
「阿波良岐島・淡良岐島」と呼ばれ、アラハバキからきたものに違いないと思われます。
渡会氏の「神道五部書」でも内宮の殿地の地主神と興玉神だと記している。
つまり、アラハバキ神だったということです。
外宮の主祭神は豊受大神である
アメノミナカヌシ(天御中主)、クニノコトタチ(国常立)、ミケツ神の諸神はいずれもトヨウケノ大神の別名としている。
大自在天は梵語では、マケイシュヴァラ:Mahesvara(摩醯首婆羅)といい、世界の主宰神で特にシヴァ神のことを指しており、密教においては、大日如来の応現ともしている。
※応現=応化(おうげ、おうけとも)仏、菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿をかえて出現すること。
つまり、アメノミナカムシはシヴァ神だというのです。
大元とは、オオモト、すなわち始源の意味であり、外宮の神はまず初めに生まれた神である。
したがって万神に先がけて生まれた神こそ最高神である。
しかし、これは表向きであり「大元尊神」実体は「アラハバキ神」のことにほかならなず、ホアカリ系が渡来以前
から最高の神としていたものを巧みにカムフラージュしたもであった。
猿田彦神社とこの二見興玉神社は伊勢神宮125社に入っていない? どんな理由があるのだろうか?
で垣の中ってお話もかなり興味深いですよ。今古墳に興味持っているのですが垣根に囲まれた作りの時代が気になっております。柱穴と溝なんですけどね。あと円筒埴輪のヒレ付きとかも結局境界ですから。アラババキ的に感じます。
伊勢の造りもそうですけど白い石を置いたり、垣をめぐらせたりです。
でそこに入る前にお水と清浄と祓いは必須ですね。とすると明らかに中よりも外のが古い信仰が残っているようにも思えますね。
東京もそうですけど、大抵神社の敷地の中ではなく玄関的な場所や境外のお隣や飛び地は中に入る前に必要だった神社のように思いますね。庚申堂的に。また古代は東京でも相当敷地があったはずなので今ではとても離れた場所もありでしょうね。伊勢は海も大事なので海から上がった所でワンクッションで五十鈴川でツークッション。そう宇治橋の外にはこだわって行った橋姫神社があったような?入る前にお邪魔しますと言いたいですね。
伊勢に行った時は地形はあまり興味なかったので後で見てみます。猿田彦神社はわりと高かったきもしますけど伊勢の方との比較も含めて高さをしりたいですね。
あと飛び地の境外社知りませんでした。
気になりますね。5795
当然興味がなければ考えもしませんからね。
神社に行くと本殿よりも境内社、摂社の方に目が行きます。 そこには地元に密着した神が祀られていることがありますからね。
都市開発が進むと合祀が多くなり、独自の伝承が消えてしまいそうな神社が沢山ありそうな気がします。
伊勢神宮のランドマーク的な山と言ったほうが良い気がします。
そうすると、本当の内宮の鬼門、北東方角はどうなっているかと地図を観察すると、、、
二見浦が正に内宮の鬼門に当たります。
二見浦の興玉神さまは元から二見浦興玉神社として在ったわけではなくて、
行基上人が聖武天皇の勅を奉じて?藤原宮(京)の真東にあたるこの地に大江寺を建立(ご来光の御社/寺)して、その境内に鎮守として祀ったのが興玉神社。
(同時期、行基上人は藤原宮の真西(東西ほぼ等距離)には淡路島の栗村山(伊勢の森)に常隆寺を開基、建立(夕日、入り日の御社/寺)。
後には平安宮のマンマ裏鬼門と成った。早良親王が流され埋葬されたのがこちら。)
爾来、明治になるまでは大江寺のひっそりした鎮守社でしかありませんでしたが、
明治政府はこの由緒ある二見浦の大江寺から興玉神社を無理やり引き剥がして
現在地に新たに独立した神社としたのが二見浦興玉神社。
古来、鬼門にはその守護として猿(鬼門の艮の逆方向の申)を祀る一種の魔除けの呪い(呪術)が行われてきましたから、
内宮(神宮)の鬼門守護に興玉神社を置いて、興玉神を猿田彦(猿)と同一視させたのではないか?
実は私が興味あるのは、ここに住んでいた豪族達の方ですかね。 天照系や天孫族はそれほどでもありませんしかし、日本の歴史の中で大きな役割をしてきましたからね。
色々創造するのは大事ですね。
結局私もですが古代史や古代の民俗について色々書いてもコメントの通り最後は、・・・ないか?
ということになります。考古学が証明するまで正しいとは言えないのが現代の古代史でしょうね。
左のサイドバーに私のホームページの主なタイトルが記されています。長いですけど暇があれば読んでみてください。