写真は昨夜から燃え続けている仙台港の石油コンビナート。
場所は多賀城から七ヶ浜よりだろう。
病院の窓から炎上の様子を動画に記録しておいた。それは、落ち着いたら公開出来るだろう。
この日のことを記録して置きたい。
しかし、何とも恐ろしい地震と津波が発生したものだ。
そしてこれほど携帯が繋がらないことに苛ついたこともない。
史上最強の地震はマグニチュード9 震度7を記録した。
3月11日14時46分のことだ。
私は入院していたわけだが、新館の大きな建物でちょっとやそっとじゃ崩壊するわけもなく、安心しようとしたが今度ばかりはそうも行かなかった。
3~4日前の地震では、ゆっさゆっさと横揺れだったが、今回は最初からドンドン!と下から突き上げてきた。
丁度点滴中だった私は、逆流しないように腕に付いている点滴のコックを閉じた。
長く強い揺れは、このまま潰れて死んでしまうのだろうと諦めさせた。
電気は消え停電となる。
まず、家族の安否を確認!この時点では、メールは使えた。
しかし、停電の為自宅の電話は通じることは無かった。
最初、長男の方(茨城県)は大丈夫と思っていたがテレビを見て驚いた震度6強ではないか・・・
息子の方から安否の確認メールがきた。
取り敢えず自宅を除き確認は取れた、問題は次女が仙台に取り残されている。
これが、なかなか電話が通じない、何のための携帯なのか疑問を抱いた。報道では緊急以外はご遠慮下さいと言っている。
「馬鹿じゃないの、これが緊急じゃなくていつ緊急何だ!」と思いましたね。
やっと電話が繋がり姉の病院に行ったが門前払いだったそうだ。
私的には、長女の病院で一晩明かしてくれた方が安心だったのだか、無理だった。
娘は仙台駅付近に移動したようだが駅に入れないことは私は知っていた、しかしそれさえ伝えられなかったのである。
娘は歩いて帰ると言ったが到底2時間や3時間で着くものはない、危険だから止めろと言った。
流石に娘も寒くなってきたようで、やはり無理と感じたのだろう。
次に指示したのは、近くのホテルに宿泊することだが、娘の話しでは、ホテルは真っ暗でダメみたいと言っていた。しかし、ウェスティンホテルは灯りがついていると言った。
「いくら高くてもいいから泊まりなさい」と指示して一度電話を切った。
一方妻は連絡の取れない自宅に向かっていた。
そろそろ着く頃だろうと思い携帯の連打をした、数十回目に繋がった。
婆ちゃん達は生きていた。
なんとか倒壊は免れたようだ。
しかし二階も含め家具は散乱し足の踏み場もないという。
妻が持ってきた嫁入り道具のガッチリとしたタンスはバラバラになっているという。
ところが、ただ置いただけの地デジのテレビは倒れていなかったそうだ。
皮肉なものだ、再び仙台の真っ暗な闇の中にいる娘に電話をした。
どうやら泊まることは無理だが温かいものとお菓子は採れる環境にいるらしい、ウェスティンホテルさんはなかなかじゃないか、一寸安堵しお母さんを向かいにだすから、そこを動かないように指示した。
妻に連絡し仙台に向かわせたが、妻は新しいホテルがわからない・・・「旧学院中学だよ、SS30ビルの向かいだよ!」 「わかった!ゆっくり行ってくる」
街灯や信号が消えてる状況での運転は危険だった。
津波の影響で仙台新港よりの産業道路は冠水の危険もあったので45号線を指示した。
確かこの時点で荒浜辺りでは200~300人の水死体が上がったと報道されていた。
一時間以上が過ぎた頃、妻から連絡が来る。
15分電話を続けても娘に繋がらないと……
私も必死に電話するがやはり繋がらない……
作戦を公衆電話に変えた。
104でウェスティンホテルの電話番号を聞きフロントに電話した。
すると、避難所と化し2Fと20Fのフロアは200人を越す状態で呼び出しは無理だと言われた。
それは、仕方の無いことだった。
しかし、娘の電話とは繋がらなかったが私からの電話があったことを察したようで、迎えが着いたのかと表に出て、無事妻と合流できた。
何とも自分が動けないのがもどかしいのです。
翌日早朝つまり今朝だがやっと息子と連絡が着いた。
電気も水道も止まっている為、暖が取れず。一晩中車の中で寝ていたという。
自宅でも寒かったと言っていたが、普通のストーブならいいが、ファンヒーターは電気がないと役にたたない。
現在は12日の16時だが全く電話が繋がらなくなった。
これまでに数えきれない程の強い余震だが、定義がわからないが普通に強い地震が繰り返していると言った方がいいだろう。
七ヶ浜も津波を受けているはず・・・
しかし、何の情報も入ってこない。
テレビの情報を見ると恐ろしい光景が繰り返し流されている。
病院には、ひっきりなしに救急車が入ってくる、よく見ると救急車の屋根には長野12の文字が見えます。
長野市から応援だろうか?
確認は取れていない。
場所は多賀城から七ヶ浜よりだろう。
病院の窓から炎上の様子を動画に記録しておいた。それは、落ち着いたら公開出来るだろう。
この日のことを記録して置きたい。
しかし、何とも恐ろしい地震と津波が発生したものだ。
そしてこれほど携帯が繋がらないことに苛ついたこともない。
史上最強の地震はマグニチュード9 震度7を記録した。
3月11日14時46分のことだ。
私は入院していたわけだが、新館の大きな建物でちょっとやそっとじゃ崩壊するわけもなく、安心しようとしたが今度ばかりはそうも行かなかった。
3~4日前の地震では、ゆっさゆっさと横揺れだったが、今回は最初からドンドン!と下から突き上げてきた。
丁度点滴中だった私は、逆流しないように腕に付いている点滴のコックを閉じた。
長く強い揺れは、このまま潰れて死んでしまうのだろうと諦めさせた。
電気は消え停電となる。
まず、家族の安否を確認!この時点では、メールは使えた。
しかし、停電の為自宅の電話は通じることは無かった。
最初、長男の方(茨城県)は大丈夫と思っていたがテレビを見て驚いた震度6強ではないか・・・
息子の方から安否の確認メールがきた。
取り敢えず自宅を除き確認は取れた、問題は次女が仙台に取り残されている。
これが、なかなか電話が通じない、何のための携帯なのか疑問を抱いた。報道では緊急以外はご遠慮下さいと言っている。
「馬鹿じゃないの、これが緊急じゃなくていつ緊急何だ!」と思いましたね。
やっと電話が繋がり姉の病院に行ったが門前払いだったそうだ。
私的には、長女の病院で一晩明かしてくれた方が安心だったのだか、無理だった。
娘は仙台駅付近に移動したようだが駅に入れないことは私は知っていた、しかしそれさえ伝えられなかったのである。
娘は歩いて帰ると言ったが到底2時間や3時間で着くものはない、危険だから止めろと言った。
流石に娘も寒くなってきたようで、やはり無理と感じたのだろう。
次に指示したのは、近くのホテルに宿泊することだが、娘の話しでは、ホテルは真っ暗でダメみたいと言っていた。しかし、ウェスティンホテルは灯りがついていると言った。
「いくら高くてもいいから泊まりなさい」と指示して一度電話を切った。
一方妻は連絡の取れない自宅に向かっていた。
そろそろ着く頃だろうと思い携帯の連打をした、数十回目に繋がった。
婆ちゃん達は生きていた。
なんとか倒壊は免れたようだ。
しかし二階も含め家具は散乱し足の踏み場もないという。
妻が持ってきた嫁入り道具のガッチリとしたタンスはバラバラになっているという。
ところが、ただ置いただけの地デジのテレビは倒れていなかったそうだ。
皮肉なものだ、再び仙台の真っ暗な闇の中にいる娘に電話をした。
どうやら泊まることは無理だが温かいものとお菓子は採れる環境にいるらしい、ウェスティンホテルさんはなかなかじゃないか、一寸安堵しお母さんを向かいにだすから、そこを動かないように指示した。
妻に連絡し仙台に向かわせたが、妻は新しいホテルがわからない・・・「旧学院中学だよ、SS30ビルの向かいだよ!」 「わかった!ゆっくり行ってくる」
街灯や信号が消えてる状況での運転は危険だった。
津波の影響で仙台新港よりの産業道路は冠水の危険もあったので45号線を指示した。
確かこの時点で荒浜辺りでは200~300人の水死体が上がったと報道されていた。
一時間以上が過ぎた頃、妻から連絡が来る。
15分電話を続けても娘に繋がらないと……
私も必死に電話するがやはり繋がらない……
作戦を公衆電話に変えた。
104でウェスティンホテルの電話番号を聞きフロントに電話した。
すると、避難所と化し2Fと20Fのフロアは200人を越す状態で呼び出しは無理だと言われた。
それは、仕方の無いことだった。
しかし、娘の電話とは繋がらなかったが私からの電話があったことを察したようで、迎えが着いたのかと表に出て、無事妻と合流できた。
何とも自分が動けないのがもどかしいのです。
翌日早朝つまり今朝だがやっと息子と連絡が着いた。
電気も水道も止まっている為、暖が取れず。一晩中車の中で寝ていたという。
自宅でも寒かったと言っていたが、普通のストーブならいいが、ファンヒーターは電気がないと役にたたない。
現在は12日の16時だが全く電話が繋がらなくなった。
これまでに数えきれない程の強い余震だが、定義がわからないが普通に強い地震が繰り返していると言った方がいいだろう。
七ヶ浜も津波を受けているはず・・・
しかし、何の情報も入ってこない。
テレビの情報を見ると恐ろしい光景が繰り返し流されている。
病院には、ひっきりなしに救急車が入ってくる、よく見ると救急車の屋根には長野12の文字が見えます。
長野市から応援だろうか?
確認は取れていない。
ライフラインがいかに大事かを改めて知らされた感じです。
それと多少の現金が無いと食料の調達、ガソリン・・・まぁすべての店はクローズしましたが、銀行にいくらお金があっても何にも役に立たない。手持ちの現金が一番役に立つわけです。
それも勉強しました。 車の燃料もできるだけ満タンにしておくこと、反射式ストーブは調理をするうえで大事でした。 ガスボンベも必要です。
色々為になりましたよ。
ひーさんの震災のこと、読ませていただきました。
最近のことだったように胸が締め付けられました。
まる8年経ちましたね。今日こちらは大雨です。
私は家は無事で、ライフラインは2週間後に復旧しました。
夜も火事で空が真っ赤、大きな余震、家族がそれぞれ無事だった事がわかったときの安堵感、戻ってこない友のこと、全部忘れることはないでしょう。
1年、また1年と経つごとに大丈夫だなって天国に向かう方が増えるようにこれからも精一杯生きたいと思います。
桃源児さんへ
あーさんへ
おゆんさんへ
モコさんへ
維真尽さんへ
ビタースイートさんへ
みっちゃんへ
ハム姉さんへ
酔漢さんへ
ミー太郎さんへ
やっと、携帯の電波が少し良くなりました。
皆様の温かいお言葉で力が湧いてきます。
数々のお言葉ありがとうございます。
もう少しお待ち下さいね。
復活しますので!!!!
あまりに酷い惨状に言葉もありません。
一日も早い東北の復興を祈っています。
出来る限りの努力をしながら
関東より応援しています!
頑張りましょう!
丹治氏行方不明。現在捜索中。くだまきをご覧ください。
皆様の無事をひたすら願うのみでございます。
ご家族も無事で…良かったです。
応援隊は12日の早朝 サイレンを鳴らして
我が静岡市内を通り過ぎていきましたよ。
サイレンが鳴りっぱなしだったので
消防で問い合わせたら被災地の応援で各地からの車だといってました。
埼玉医大からもすでにドクターヘリが飛んでいます。
ケータイの充電もままならないでしょうから、この後の安否も気になるところですが、
とりあえずご家族の皆さまの無事を確認できてホッとしています。
暖をとるのも厳しい状況でしょうが、がんばって!
ご家族のみなさんもご無事で安心しました
ひーさん
強運の持ち主だから、はやくよくなりますよ!!
良かったです
大変な地震で不安だったでしょうね
家族とも何とか無事を確認出来て良かったですね
凄い津波で本当にどうなるだろうとテレビを見て思いました
前のブログ仲間でmemeさんも無事にて欲しいです
うちも仙台に住む弟夫婦はひとまず大丈夫でしたが、弟は勤務地の山形から出られず義妹は臨月のお腹を抱えて避難所にいるようです。
命あっての物種
しかしただ祈るだけの自分が無力に感じてなりません。
でも、ひーさんちの皆さん、ご無事でなにより♪
自然の脅威をTVで観て震え上がりました。
ひ-さん、早く退院してください。
待ってる人がいっぱい居るのだから。
テレビ放映はこれが現実なのか、何かの映画かと思われる様な酷い状況
やっぱり ひーさんには凄く強い神様が付いてくれていますよ!