この小冊子は、宮城野区ふるさと創生事業実行委員会の発行したものです。
これを参考にチョットだけ紹介したいと思います。
藩政時代二十人の足軽が置かれた後、足軽は増え、明治維新の頃には四十数戸の足軽屋敷になっていました。
足軽たちの暮らしは決して豊かとは言えず、先日の堤町もそうですが、内職をして生計をたてていました。
二十人町では雨傘張り、小田原では提灯、連坊では筆、長町では畳表とほうき作りをしていたそうです。
足袋職人になった方もいたようですが、しかし、元々武家なわけですから、一般の人に頭を下げにくかったそうで、それで旧藩士の家に寸法を測りに行っていたそうです。
鑑定並研磨の看板が見えますね。
只野刀屋さんの前を通る神輿渡御(昭和36年です)
神輿渡御(みこしとぎょ)とは、神輿が練り歩き、沿道の人々の幸福を祈願する神事。
鉄砲町
藩政時代は「鉄砲組御足軽」の住居ようとして与えられた土地です。
鉄砲町には約百四十人の足軽が居住していたといわれます。
古い町並みはもうありません
大正15年
市内中心部から鉄砲町や二十人町に渡るには、線路を越えなければならず、この橋を通称X橋といいます。
仙台やその近隣の町の人でX橋(エックス橋)を知らない人はいないでしょう。
昭和に入ってからの地図は、完全にXの字になっています。
X橋界隈は終戦後風紀が乱れ、いや近年でも如何わしい人達がまだあの近辺に出没します。
はい! 昭和15年のエックス橋です。
次は、榴岡・・・・四連隊の話です
これを参考にチョットだけ紹介したいと思います。
藩政時代二十人の足軽が置かれた後、足軽は増え、明治維新の頃には四十数戸の足軽屋敷になっていました。
足軽たちの暮らしは決して豊かとは言えず、先日の堤町もそうですが、内職をして生計をたてていました。
二十人町では雨傘張り、小田原では提灯、連坊では筆、長町では畳表とほうき作りをしていたそうです。
足袋職人になった方もいたようですが、しかし、元々武家なわけですから、一般の人に頭を下げにくかったそうで、それで旧藩士の家に寸法を測りに行っていたそうです。
鑑定並研磨の看板が見えますね。
只野刀屋さんの前を通る神輿渡御(昭和36年です)
神輿渡御(みこしとぎょ)とは、神輿が練り歩き、沿道の人々の幸福を祈願する神事。
鉄砲町
藩政時代は「鉄砲組御足軽」の住居ようとして与えられた土地です。
鉄砲町には約百四十人の足軽が居住していたといわれます。
古い町並みはもうありません
大正15年
市内中心部から鉄砲町や二十人町に渡るには、線路を越えなければならず、この橋を通称X橋といいます。
仙台やその近隣の町の人でX橋(エックス橋)を知らない人はいないでしょう。
昭和に入ってからの地図は、完全にXの字になっています。
X橋界隈は終戦後風紀が乱れ、いや近年でも如何わしい人達がまだあの近辺に出没します。
はい! 昭和15年のエックス橋です。
次は、榴岡・・・・四連隊の話です
ある意味~新鮮ですね (^_-)-☆
地元の人じゃ無いと、あまりわからない内容です。こんな時代があったとのだと思っていただければ幸いです。
(・_・)武家の内職って、なんで傘張り?
時代劇の見過ぎかしらん?
実際に多かったから、時代劇でもメジャーになったのかも知れませんね。
簡単って言ったら失礼ですね。
たぶん需要が多かったのでしょう。
二十人町・鉄砲町のはなし快調だねぇ~。
復刻地図のコピーも役に立ってるようでいがったっす。手持ちの復刻地図もまだ何種類かあるので、そのうちまたコピー提供します。
実は(知ってっと思うげっと)、うちの夫婦は揃って物好きなもんで、それぞれ集めた地元学系の冊子がウジャウジャ本棚に詰まってんのっしゃ、岩切、宮城野、北仙台、堤町、原町、生出etc、etc・・・
数が無いので、けでやらんねげっと、少っつず貸し出しします。
自分で記事書くの面倒なんで、記事はひーさんに任せて、オラは時々コメでチャチャ入れることにします。
つーことで、んでまた
昔、住んでいた三百人町あたりはまだ大丈夫でしょうかね?
仙台は昔の町名残ってますね。
肴町、南染め師町、お霊屋下、南鍛冶町、穀町なんていうのもありますね。
雨の日はぬかるんだものだったなぁ
なんて思い出しています
実家にいれば、ひーさんのこのシリーズ真似できるんだけどなぁ ww
二十人町や鉄砲町の事は聞いていましたが
写真は見た事がなかったので・・・
写真で見ると、よくわかりますね
仙台の事を知りたいので、又、記事にして
下さいね
おもろい夫婦かも?・・・・
面白い記事だけ、拝借します。
簡単に書かないと、読み手も大変なんで。
書きたいこともいっぱいあるのですが、押さえてます。
撮影に行かなくちゃ行けないので、少しずつ・・・
御待ち下さいね。