「東日流六郡誌絵巻」のデタラメサ・・・から
対談者プロフィール 小野寺永幸 1925年 岩手県生まれ 岩手青年師範学校卒業 東京大学教育学部に学ぶ、中学校校長を歴任後、東北史学研究所所長
著書に「みちのく古里物語」「秘録少年農兵隊」など、多数
千坂氏は2話で紹介しています。
小野寺永幸 地元一関の事でも、おかしいなと思うことが随分書かれています。
たとえば、「東日流六郡誌絵巻」の中で「安倍安東秋田氏遺跡八十八景」というのがあるんですが、その三十三番「小松柵跡」(下図1)は、一関にあるはずの小松柵跡と藤沢町付近の黄海の戦いと混同しているんです。源義家に従うものが六騎ばかりになって敗走したというのは、黄海での事なのに、一関に擬定地がある小松の柵での事件としているのです。
一関は北上川とその支流祝い磐井川によって天然の要塞となっています。
磐井川が当時の前九年の役の古戦場というふうに見ていいと思う。ところが一関近辺の地理がわからないせいか、小松の柵の擬定地が一関萩莊なのに、それを藤沢町黄海にすりかえて平気でいるんですね。
それから阿津賀志山(下図2)というのが出てくるのですが、あれは「吾妻鏡」に記述されているように、文治五年、頼朝が攻めてくるその時の戦場なんです。
ところが、それも前九年戦争と混同しています。とてもお話になりません。
千坂 事実の間違いもひどいもんですが、描かれている絵も相当劣悪です。
中尊寺所有の「骨寺村絵図」があります。おそらく
六百年から七百年くらい前に描かれたものではないか言われているものですが、「六郡誌絵巻」とは全く違います。昔のものは田を中心に描くか、領地の境に力点があるかで、描き方がまるで違ってくる。
小野寺永幸 昔のものは濃淡があるんですよ。遠近感を出しているんですよね。普通はこういうふうな絵が描かれていることはないですよ。
千坂 しかし、絵だけでなくわきに書かれている説明の字も相当ひどいですね。古文書らしくするならせめて崩し字ぐらいは覚えないと。
地元の人が見てもすぐわかるような地名の取り違えが多い。
さらに平泉は四十八番にさっと出てくるだけであまり書かれていない。いいかげんな事を書くためには平泉は対象として都合が悪いのです。
古文書hが相当あって研究者が多いだけではなく、内容も深くなっていますからね。 そういうところには和田さんは入って行かないというか能力的に入っていけないというか。
小野寺永幸 だから、多賀城とか胆沢城とか古い時代に持っていく。
伝承と歴史的事実の混同
千坂 正直言ってアテルイに関しては考古学的なものも出ていないし、文献にしても「続日本記」「日本記略」「日本後記」にほんの少し出てくるだけだから、そういうところは自分の虚構を膨らませるのに誠に都合がいい。
和田家資料が初めて世に出てきた時期が、考古学的な発見、論文や新聞記事の後であるということは、斎藤隆一さんや多くの人が言っています。ですから、個々の人達が「東日流外三郡誌」等の記事について、事実かどうかを自分の頭で自分の力で調べてみようと思いさえすれば、偽書であることはすぐにわかると思うんです。
それから、遮光器土偶をアラハバキ神などとしているのですが、お笑ものですよ。
アラハバキ神が多賀城市や岩出山町にあることをしらないでしょうかね。 この神格をもう少し探求するような姿勢こそ求められるのに、彼はそういうことに必要性に認めていないのです。
多量の作り話を振りまいて、民衆を幻惑すればいいだけなんですからね。
和田喜八郎さんの経歴詐称が明らかになっていますが、ここではパスします。
アテルい兵士の名簿
佐藤 阿弖流為が五百の兵を牽いて田村麻呂の軍門降った西暦802年のときのことを話し始めたんです。 その時「実はその五百の軍勢のうちのおよそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたものがあるんだ」と言いだしたんです。
兵士のながわかるはずはないと思いましたが、「それはすごいですね」と相槌を打ったら、「これだ」と言って持ってきて、ちらちらっと見せてすぐしまいそうになったのです。
そこで「ちょっとまって下さい」と言って、私がストップをかけて、「地元ですから、ぜひここだけでもちょっと写真を撮らせて下さい」と頼んで撮らせてもらったんです。
そこには田茂亜吐呂井とか羽田大萬柵巣とか、男女川なんとかとか、北鵜貴とか江刺巌谷堂柵の云々だとかさらに、衣川江刺柵、江尻子和賀の云々とかですね、つまりわれわれ阿弖流為の地に身近な地名がたくさん書かれているんですね。「もう駄目駄目」と言われたけれど、隙を見て三、四枚、写真を撮ってきました。
表紙はちらっと見ただけで、写真に撮ることはできなかったんですが、たしか「北斗抄」というタイトルになっていました。
~割愛~
地元のところだけ見てもおかしいことは多いんです。 羽田というのは水沢のちょうど新幹線の水沢江刺駅のところなんですけれども、そこは羽黒山神社があって、昔は羽黒堂村、そこが阿弖流為の柵の跡で擬定地だなんて言ってますけれども、そこと田茂山村が明治八年に合併して、羽黒堂の「羽」と田茂山の「田」を取って羽田という地名が初めてできたのです。
田茂山は、戦国時代の武将の田茂山氏という人がいて、本拠を構えていたところと言われています。
宮城県の桃生の方から気仙、大船渡あたりに田茂山氏の城跡があったらしいんです。 今水沢市になっている分で言えば、江戸期から明治八年の合併以前に田茂山などの村名が使われているんです。 鵜の木についても江戸から明治二十二年まで、鵜木という地名が出てきます。岩谷堂も文書では旧字を書いていますけれどもこれも安永風土記には出てきている地名です。
羽黒堂村も戦国時代の羽黒氏の本拠地だとかで、建武年間あたりにも出ているはずです。
地名辞典を調べても十四世紀にもあった地名なんですね。・・・・・
割愛しますが、矛盾が多すぎて呆れてしまいます。
偽書「東日流外三郡誌」の正体7
対談者プロフィール 小野寺永幸 1925年 岩手県生まれ 岩手青年師範学校卒業 東京大学教育学部に学ぶ、中学校校長を歴任後、東北史学研究所所長
著書に「みちのく古里物語」「秘録少年農兵隊」など、多数
千坂氏は2話で紹介しています。
小野寺永幸 地元一関の事でも、おかしいなと思うことが随分書かれています。
たとえば、「東日流六郡誌絵巻」の中で「安倍安東秋田氏遺跡八十八景」というのがあるんですが、その三十三番「小松柵跡」(下図1)は、一関にあるはずの小松柵跡と藤沢町付近の黄海の戦いと混同しているんです。源義家に従うものが六騎ばかりになって敗走したというのは、黄海での事なのに、一関に擬定地がある小松の柵での事件としているのです。
一関は北上川とその支流祝い磐井川によって天然の要塞となっています。
磐井川が当時の前九年の役の古戦場というふうに見ていいと思う。ところが一関近辺の地理がわからないせいか、小松の柵の擬定地が一関萩莊なのに、それを藤沢町黄海にすりかえて平気でいるんですね。
それから阿津賀志山(下図2)というのが出てくるのですが、あれは「吾妻鏡」に記述されているように、文治五年、頼朝が攻めてくるその時の戦場なんです。
ところが、それも前九年戦争と混同しています。とてもお話になりません。
千坂 事実の間違いもひどいもんですが、描かれている絵も相当劣悪です。
中尊寺所有の「骨寺村絵図」があります。おそらく
六百年から七百年くらい前に描かれたものではないか言われているものですが、「六郡誌絵巻」とは全く違います。昔のものは田を中心に描くか、領地の境に力点があるかで、描き方がまるで違ってくる。
小野寺永幸 昔のものは濃淡があるんですよ。遠近感を出しているんですよね。普通はこういうふうな絵が描かれていることはないですよ。
千坂 しかし、絵だけでなくわきに書かれている説明の字も相当ひどいですね。古文書らしくするならせめて崩し字ぐらいは覚えないと。
地元の人が見てもすぐわかるような地名の取り違えが多い。
さらに平泉は四十八番にさっと出てくるだけであまり書かれていない。いいかげんな事を書くためには平泉は対象として都合が悪いのです。
古文書hが相当あって研究者が多いだけではなく、内容も深くなっていますからね。 そういうところには和田さんは入って行かないというか能力的に入っていけないというか。
小野寺永幸 だから、多賀城とか胆沢城とか古い時代に持っていく。
伝承と歴史的事実の混同
千坂 正直言ってアテルイに関しては考古学的なものも出ていないし、文献にしても「続日本記」「日本記略」「日本後記」にほんの少し出てくるだけだから、そういうところは自分の虚構を膨らませるのに誠に都合がいい。
和田家資料が初めて世に出てきた時期が、考古学的な発見、論文や新聞記事の後であるということは、斎藤隆一さんや多くの人が言っています。ですから、個々の人達が「東日流外三郡誌」等の記事について、事実かどうかを自分の頭で自分の力で調べてみようと思いさえすれば、偽書であることはすぐにわかると思うんです。
それから、遮光器土偶をアラハバキ神などとしているのですが、お笑ものですよ。
アラハバキ神が多賀城市や岩出山町にあることをしらないでしょうかね。 この神格をもう少し探求するような姿勢こそ求められるのに、彼はそういうことに必要性に認めていないのです。
多量の作り話を振りまいて、民衆を幻惑すればいいだけなんですからね。
和田喜八郎さんの経歴詐称が明らかになっていますが、ここではパスします。
アテルい兵士の名簿
佐藤 阿弖流為が五百の兵を牽いて田村麻呂の軍門降った西暦802年のときのことを話し始めたんです。 その時「実はその五百の軍勢のうちのおよそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたものがあるんだ」と言いだしたんです。
兵士のながわかるはずはないと思いましたが、「それはすごいですね」と相槌を打ったら、「これだ」と言って持ってきて、ちらちらっと見せてすぐしまいそうになったのです。
そこで「ちょっとまって下さい」と言って、私がストップをかけて、「地元ですから、ぜひここだけでもちょっと写真を撮らせて下さい」と頼んで撮らせてもらったんです。
そこには田茂亜吐呂井とか羽田大萬柵巣とか、男女川なんとかとか、北鵜貴とか江刺巌谷堂柵の云々だとかさらに、衣川江刺柵、江尻子和賀の云々とかですね、つまりわれわれ阿弖流為の地に身近な地名がたくさん書かれているんですね。「もう駄目駄目」と言われたけれど、隙を見て三、四枚、写真を撮ってきました。
表紙はちらっと見ただけで、写真に撮ることはできなかったんですが、たしか「北斗抄」というタイトルになっていました。
~割愛~
地元のところだけ見てもおかしいことは多いんです。 羽田というのは水沢のちょうど新幹線の水沢江刺駅のところなんですけれども、そこは羽黒山神社があって、昔は羽黒堂村、そこが阿弖流為の柵の跡で擬定地だなんて言ってますけれども、そこと田茂山村が明治八年に合併して、羽黒堂の「羽」と田茂山の「田」を取って羽田という地名が初めてできたのです。
田茂山は、戦国時代の武将の田茂山氏という人がいて、本拠を構えていたところと言われています。
宮城県の桃生の方から気仙、大船渡あたりに田茂山氏の城跡があったらしいんです。 今水沢市になっている分で言えば、江戸期から明治八年の合併以前に田茂山などの村名が使われているんです。 鵜の木についても江戸から明治二十二年まで、鵜木という地名が出てきます。岩谷堂も文書では旧字を書いていますけれどもこれも安永風土記には出てきている地名です。
羽黒堂村も戦国時代の羽黒氏の本拠地だとかで、建武年間あたりにも出ているはずです。
地名辞典を調べても十四世紀にもあった地名なんですね。・・・・・
割愛しますが、矛盾が多すぎて呆れてしまいます。
偽書「東日流外三郡誌」の正体7
さて、私も『偽書「東日流外三郡誌」事件』と言う本を持っています(がっかりしそうで、まだ読んでいませんが・・・)。
津軽外三郡誌は30年以上前、地元の佐治芳彦氏の著書で知りました。
当時の本、今でも結構持っていますが、当時の日本古代史の本は大抵外三郡誌を取上げてたものでした(笑)。
著名な作家さんも信じている人多かったですし、今は笑い話です。
私も半信半疑でしたが、安日彦とナガスネ彦が会津で会ったから会津と言う地名になった話は結構信じてましたし(泣)。
確か遮光器土偶は、足を怪我したナガスネ彦であると書いている高名なお坊さんもいました。
発掘を捏造していたゴッドハンドの人も居ましたが、悪戯にしては度が過ぎていますね。
「東日流外三郡誌」は近隣の歴史家にもあれは偽書です。と言われながらも、記載の通り、中途半端な歴史愛好家は、特に東北ですが、共感してしまう部分が多いようです。
ここはひとつ冷静になり、見つめなおし、新たな出発点にしたいと思います。
もう少しピッチをあげて書きますのでよろしくお願いします。