日本武尊
中央で作られた蝦夷像
東北地方の古代史研究に長年取り組まれた高橋富雄氏は、次のように述べている。
「エミシというのは、政治的に中央の命に奉じないし、その教化にも従うことのない勇猛な反抗者達をさしていた」(『蝦夷』)
古代の文献を見る限り、「エミシ」の語が特定の異民族をさすとは考えられない。
その言語は、本来大王に反抗する人々を指すものであった。
しかし、『日本書紀』がつくられた時代には、東北地方の蝦夷は、一つの政治的概念になっていた。
それは、七世紀なかばの朝廷が中国にたいして自国は蝦夷という異民族を従えていると主張したことにもとづく。
『日本書紀』は、日本武尊と蝦夷の戦いの記事を伝えている。
しかし、そこに見える蝦夷像は明らかに中国風の考え方によって創作されたものである。
日本武尊が討った蝦夷は次のような生活をしていたという。
「竪穴住居に男女の区別なく生活し、父子の序列はない。 冬は穴でくらし、夏の家をもち、毛皮を着け、血を飲む。
山野での彼らの行動は、きわめて敏捷である。 矢を髪の中にさし、衣のかげに刀を帯、農桑の時を伺って民衆を襲って略奪をはたらく」
脱線しますが、東北のあるバス会社の教本にも蝦夷のことを「日本書紀」にはこのように説明されています。
と上記の内容を説明しています。
このような説明は、中国の夷狄(いてき)【文化の遅れた異民族】についての決まった言い回しを集めて並べたものにすぎない。
「男女の席をを分けず親子の序列がない」とするのは夷狄は中国的な家族道徳をもたないとみる中国の観念による。
また、狩猟民には冬と夏の区別しかないという考えも、中国特有のものだ。
これは農耕を知って初めて、種まきの春と取り入れの秋を知る必要が生じるというのだ。
このような蝦夷像は、東北地方の実況を知らない中央の知識人の手で書かれたものである。
考古学の視点から、東北地方の古代文化の流れは、関東地方以西のそれと大して変わらない。
確かに、文化の先進地域である近畿地方から離れていることからくる遅れはある。
しかし、東北地方と北海道の古代文化は厳密に区別すべきである。これは以前から私の記事の中でも訴えている。
東北地方には、縄文文化から弥生文化を経て古墳文化へつづく流れがあった。しかし、北海道には弥生文化がなく、縄文文化は続縄文文化へと展開した。
この違いがエゾと呼ばれたアイヌの人々は、中央の日本人と異なる歴史を歩むことになった。
しかし、アイヌが日本人で無かったわけではない。彼らは長い間農耕を行わなかったことによって独自のアイヌ文化を持つようになった日本人だということができる。
5世紀の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、478年倭王武が宋(南朝)に提供した上表分の中に以下の記述がある。
「昔から祖禰(そでい)躬(みずから)甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。 東は毛人を征すること五十五国。 西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
驚くべき事実
昭和六十三年(1988)に発見された青森県弘前市砂沢遺跡の水田は、東北地方で早くから水稲耕作が行われたことを物語る、驚きべき新発見であった。 そこの水田は、紀元前一世紀なかばのものだとされた。
日本に水稲耕作が伝わった時期は、弥生時代開始期にあたる紀元前二世紀はじめである。
阿弖流為の時代から歴史を見ていくと、東北には語るべき歴史が沢山あることが分かる。
教科書で教える歴史は中央の権力残した「正史」が中心でそれを日本全体の歴史としただけである。
江戸時代は戦争が無いから年表を見れば政治史となっている。老中がどんな政策を行ったかなど幕府を中心とした歴史で津軽藩が・・・南部藩が・・・どうっだったのか一切関係無い。
平安時代は朝廷が中心で、鎌倉時代は源頼朝=鎌倉幕府のことが中心になる。
その他の地域・・特に東北は完全に省かれてしまっている。
各時代の中心を残すのが教科書ですから、そこから外されると何も記されない。
まぁ、薄い教科書に日本の歴史を網羅することも不可能であるのはわかるのだが・・・・
私はそんな薄い教科書も勉強しなかったわけですから何も言えませんがね。
東北に限らず、四国でも九州でも記述されない歴史の方がむしろ多い。だから歴史は面白い! 権力に負け消された歴史の方が正しいのかもしれない。
東北は阿弖流為、前九年、後三年合戦、平泉滅亡、奥州仕置、戊辰戦争と度々大きな戦に巻き込まれたため、歴史をズタズタに書き換えられ、捨てられてしまっている。
それでも東北の人々は逞しく生きて来た。その事実を子供時代に知ることが大切なのだと思う。
中学、高校に学べば故郷への思いや誇りを強く胸に刻み社会に出ていけるのではと思う。
実は、私が中学の時に学校行事で平泉(金色堂・中尊寺・毛越寺)に行っている。しかし、歴史については何も知らず教室で教えられた記憶もほとんどない。 「馬の耳に念仏」であった。
それが40歳を過ぎてから興味を持ち始め独学している。学校は何もしていないわけではない。多賀城では子供に学習資料として多賀城碑のことなどの小冊子を配っている。しかし、配っているだけである。
子供の記憶には何も残っていない。 もっといい方法があると思うのだが・・・
阿弖流為も安倍貞任も九戸正実も逆賊どころか郷里を守ろうとしたヒーローなのだ。
中央で問題を起こした人間は東北へ逃げ込んでくる。
平安時代までは朝廷の力が及ばぬ土地だったからである。
それは異民族の国だからです。 前途したように(出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 一話・二話)朝廷のルーツは、天照たちが出雲王朝の「和」の国を滅ぼし、「大和」という国家を建設したところにある。
しかし、「和」の国は、「大和」が完全に滅ぼされるほど小さくなかった。 あまりにも簡潔に書いてあるが大枠違いない。
大和朝廷は境界線を設け、互いに干渉しないやり方を取った。
「和」の国の人々を東北と九州へ追いやり、そこを化外の地としたのだ。
境界線では常に戦いがあった。
三世紀から四世紀にかけて、蝦夷と争ったという記録があるようだが大きな戦いにはならなかった。
『多賀城』
多賀城造営
646年※大化改新の詔(みことのり)が出され、朝廷による中央集権の整備が始まった。
※飛鳥時代の孝徳天皇2年(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
斉明四年(658)から、阿倍比羅夫によって最初の大がかりな東北遠征が行われた。彼は180艘の水軍を率いて日本海を進み、北海道南端の「渡島」まで達した。 しかし中央では「比羅夫が多くの蝦夷を武力で従えた」と宣伝された。
斉明五年(659)の遣唐使は、阿倍比羅夫が連れて来た二人の蝦夷を従えて中国皇帝にお目通りを願っている。そして・・・・・
「蝦夷には三種あり、遠い集団を都加留(つかる)次を麁蝦夷、もっとも近いものを熟蝦夷(にきえみし)といいます。」と蝦夷の土地がが大そう広大であると主張してる。こういった点からみて阿倍比羅夫の行動が唐との外交を有利にするためになされたありさまがわかる。
この時期、朝廷に従った蝦夷を「俘囚」と呼ぶ用法がうまれている。
これは、東北地方の朝廷の支配下にすすんで入ってくる者が多かったことがわかる。
俘囚は他の地方の人々とほぼ同じ扱いを受けていた。
持統三年(689)に、陸奥と越の蝦夷に仏像を与えたことが見える。
朝廷が中央の文化を分け与えることを通じて蝦夷を統治下に組み込んでいったことがうかがえる。
多賀城の設置
東北地方への軍事行動があった。
それは、大宝元年(701)【大宝律令】の制定から、和銅三年(710)の平城京の完成にいたる中でなされた。
和銅元年(708)越後国に出羽郡(でわごおり)が置かれ、それから4年後に出羽国となった。
和銅二年巨勢麻呂(こせのまろ)を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍に任命した。
彼らは10か国の兵士を動員して五か月に渡って大がかりな軍事行動を行った。『続日本紀』には次のように記載されている。「官軍襲撃するにより凶賊霧消す」この行為は朝廷が最初に行われた武力による征服であった。蝦夷の豪族は予告なしに現れた大軍に抵抗するすべもなく敗れた。
この時点で東北地方の朝廷の勢力圏は、仙台平野と最上川を結ぶまで広がっていた。
それ以来、東国(とうごく:中部・関東地方)から東北に移住する者が多くなりまたすすんで朝廷に従ってカバネをもらう東北地方の豪族もふえていった。
(※カバネ=貴族層であることを示す朝臣などの称号)
このような動きのなか多賀城がつくられた。
東北にも城柵を設け支配体制に組み込もうと動きが現れる。
奈良時代の文献「常陸国風土記」によると、大化の改新直後に関東以北に置いた八国の一つが陸奥国の始まりと考えられる。
712年には出羽国が置かれた。
行政を統括する按察使(あぜち)が、全国に派遣されていた。
朝廷の役人と共に移住してきた人たちが大勢いたと「続日本紀」に記されている。 移民と先住民である蝦夷との間に摩擦が生じたことは容易に想像できる。
720年、蝦夷が陸奥国按察使の上毛野広人を殺害する事件が置き陸奥の出羽の散発的な反乱があった。
そこで朝廷は新たな境界線を設ける。
そもそも多賀城を造った最初の理由は、境界線の守備のためだった。
多賀城を戦闘の拠点とし鎮守府に改めたのは、大分あとのことになる。
多賀城の記事にも書いているが、朝廷の陸奥支配は神亀元年(724)陸奥鎮守将軍に任ぜられた大野東人(おおのあずまびと)が多賀城を築城したことにはじまる、とされているが、それはそれは陸奥の支配というより朝廷の統括している領地を明確に示す行動だったのであろう。
城輪柵跡/酒田市クリックで当時の記事が見れます。
机上の空論では無く、実際に現地に足を運んで学びたいものですね。
南の地域から移民が導入された『続日本紀』にも和同七(714)年に尾張・上野・信濃・越後の富民200戸を出羽柵戸としたとあり、霊亀元(715)年に相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民1000戸を移して陸奥に配しており、同じような例が、養老元(717)年、養老三(719)年、養老六(722)年にもある。また神亀元年(724)年には他国から陸奥に来ていた兵士の本籍を陸奥に移す措置も講じている。
多賀城創建に用いられた瓦では、丸瓦の先端の段になった部分(玉縁)などに「毛」「常」「下」「木」「上」「富田」のように特定の文字のへら書きがあるものがある。
これらの国から来た兵士あるいは移民が瓦の制作に関与していたことを示すものであろう。
移民の導入と引き替えのように、東北地方から他の地域への住民の強制移住もまたさかんに行われた。
『続日本紀』の神亀二(725)年閏正月の条には、陸奥国の俘囚144人を伊予国に配し、578人を筑紫に配し、15人を和泉監に配したとあり俘囚の諸国移配が奈良時代の初期から行われている。
文献上の初見は天平九(737)年で、この時期には「多賀柵」とある。
『続日本紀』で多賀城と記されるはじめは宝亀十一(760)年の記事であるが、天平宝字六(762)年の「多賀城碑」にも多賀城の名がみえるので、天平宝字年間には多賀城と呼ばれるようになっていたのだろう。
つまり文献に載った時期が設営又は造営された時期ではない。 それを勘違いする歴史家がいるが大間違いである。
文献に載った時はすでに存在し呼ばれかたも変化がみられるほどの時間が経っている。
多賀城の創建
広域の陸奥国が復活した時期は養老六(722)年から神亀元(724)年三月以前にかけてのことである。
このことについては多賀城碑による。
ホームページ多賀城
多賀城
多賀城市役所ホームページ 史跡・観光編
七九七年、蝦夷征伐の状況を打開するため、桓武天皇は田村麻呂を征夷大将軍に任命する。しかも、陸奥国按察使、鎮守将軍、陸奥守を兼ねてだ。
八○二年、田村麻呂は阿弖流為の本拠地胆沢に進出し、そこに城を築いた。
田村麻呂は軍隊だけでなく、沢山の僧を東北に連れてくる。 寺を建立し、仏教を広めるためだ。
むろん蝦夷は仏教徒では無く、アラハバキ神を信仰している。
田村麻呂は軍事力だけでなく、文化の力で東北を懐柔していこうと考えたのではないか。
略式年表
6世紀中葉 日本に仏教伝来
587年7月 物部守屋、蘇我馬子に滅ぼされる
604年1月 初めて暦を用いる
皇太子が憲法17条をつくる
646年1月 大化の改新
649~654年頃 陸奥国を置く
658~660年 阿倍比羅夫、蝦夷・粛慎を征討
663年8月 白村江の戦い。倭国、唐・新羅連合軍に大敗
672年6月 壬生の乱起こる
694年12月 藤原京遷都
701年8月 大宝律令制定、2月翌年施行
708年1月 武蔵国秩父郡より和銅が献じられる
709年3月 巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯を征越後蝦夷将軍に
任命、陸奥・越後の蝦夷を攻撃
710年3月 平城京遷都
712年1月 古事記奏上される、9月出羽国を置く
720年5月 日本書紀奏上される
720年9月 陸奥国按察使・上毛野広人が殺害される
724年 鎮守将軍・大野東人、多賀城を設置
740年9月 藤原広嗣の乱
741年2月 国分寺、国分尼寺建立の詔
749年2月 陸奥国涌谷より黄金産出
760年 涌谷の北側に桃生柵(城)設置
764年9月 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
766年10月 道鏡、法王となる
767年10月 伊治柵(城)を設置
769年2月 桃生・伊治の2城完成、板東八ヵ国の百姓を移す
770年8月 道鏡、下野へ追放される
776年9月 陸奥国俘囚を大宰府管内の諸国・讃岐国に移配
777年12月 出羽国の兵士、志波村の蝦夷に敗退
780年 伊治呰麻呂が伊治城で紀広純を殺害
3月呰麻呂の乱
陸奥国に覚鱉城を造る
781年4月 桓武天皇即位
784年11月 長岡京遷都
788年7月 紀古佐美征東大使に任命される
12月 紀古佐美節刀を賜う
789年3月 蝦夷征討を開始
9月征東将軍らの敗戦責任を勘問し責任者を処罰
791年7月 大伴弟麻呂を征東大使に坂上田村麻呂を副使に任命
794年1月 征夷将軍、大伴弟麻呂に節刀を賜う
10月大伴弟麻呂、征東軍の戦果を報告
平城京遷都
797年2月 坂上田村麻呂を征夷大将軍とする
801年2月 征夷大将軍、坂上田村麻呂に節刀を賜う
802年1月 坂上田村麻呂 胆沢柵(城)を構築
4月阿弖流為・母礼ら500人を率いて投降
7月田村麻呂、阿弖流為・母礼の二人を従えて入京
8月阿弖流為・母礼、河内国杜山(椙山)で斬首される
803年3月 坂上田村麻呂、志波城を構築
上記の年表は東北蝦夷の魂(高橋克彦著)より
参考文献:東北蝦夷の魂(高橋克彦著)・古代東北まつろわぬ者の系譜(武光誠著)・古代蝦夷(工藤雅樹著)
追記しました。
中央で作られた蝦夷像
東北地方の古代史研究に長年取り組まれた高橋富雄氏は、次のように述べている。
「エミシというのは、政治的に中央の命に奉じないし、その教化にも従うことのない勇猛な反抗者達をさしていた」(『蝦夷』)
古代の文献を見る限り、「エミシ」の語が特定の異民族をさすとは考えられない。
その言語は、本来大王に反抗する人々を指すものであった。
しかし、『日本書紀』がつくられた時代には、東北地方の蝦夷は、一つの政治的概念になっていた。
それは、七世紀なかばの朝廷が中国にたいして自国は蝦夷という異民族を従えていると主張したことにもとづく。
『日本書紀』は、日本武尊と蝦夷の戦いの記事を伝えている。
しかし、そこに見える蝦夷像は明らかに中国風の考え方によって創作されたものである。
日本武尊が討った蝦夷は次のような生活をしていたという。
「竪穴住居に男女の区別なく生活し、父子の序列はない。 冬は穴でくらし、夏の家をもち、毛皮を着け、血を飲む。
山野での彼らの行動は、きわめて敏捷である。 矢を髪の中にさし、衣のかげに刀を帯、農桑の時を伺って民衆を襲って略奪をはたらく」
脱線しますが、東北のあるバス会社の教本にも蝦夷のことを「日本書紀」にはこのように説明されています。
と上記の内容を説明しています。
このような説明は、中国の夷狄(いてき)【文化の遅れた異民族】についての決まった言い回しを集めて並べたものにすぎない。
「男女の席をを分けず親子の序列がない」とするのは夷狄は中国的な家族道徳をもたないとみる中国の観念による。
また、狩猟民には冬と夏の区別しかないという考えも、中国特有のものだ。
これは農耕を知って初めて、種まきの春と取り入れの秋を知る必要が生じるというのだ。
このような蝦夷像は、東北地方の実況を知らない中央の知識人の手で書かれたものである。
考古学の視点から、東北地方の古代文化の流れは、関東地方以西のそれと大して変わらない。
確かに、文化の先進地域である近畿地方から離れていることからくる遅れはある。
しかし、東北地方と北海道の古代文化は厳密に区別すべきである。これは以前から私の記事の中でも訴えている。
東北地方には、縄文文化から弥生文化を経て古墳文化へつづく流れがあった。しかし、北海道には弥生文化がなく、縄文文化は続縄文文化へと展開した。
この違いがエゾと呼ばれたアイヌの人々は、中央の日本人と異なる歴史を歩むことになった。
しかし、アイヌが日本人で無かったわけではない。彼らは長い間農耕を行わなかったことによって独自のアイヌ文化を持つようになった日本人だということができる。
5世紀の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、478年倭王武が宋(南朝)に提供した上表分の中に以下の記述がある。
「昔から祖禰(そでい)躬(みずから)甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。 東は毛人を征すること五十五国。 西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
驚くべき事実
昭和六十三年(1988)に発見された青森県弘前市砂沢遺跡の水田は、東北地方で早くから水稲耕作が行われたことを物語る、驚きべき新発見であった。 そこの水田は、紀元前一世紀なかばのものだとされた。
日本に水稲耕作が伝わった時期は、弥生時代開始期にあたる紀元前二世紀はじめである。
阿弖流為の時代から歴史を見ていくと、東北には語るべき歴史が沢山あることが分かる。
教科書で教える歴史は中央の権力残した「正史」が中心でそれを日本全体の歴史としただけである。
江戸時代は戦争が無いから年表を見れば政治史となっている。老中がどんな政策を行ったかなど幕府を中心とした歴史で津軽藩が・・・南部藩が・・・どうっだったのか一切関係無い。
平安時代は朝廷が中心で、鎌倉時代は源頼朝=鎌倉幕府のことが中心になる。
その他の地域・・特に東北は完全に省かれてしまっている。
各時代の中心を残すのが教科書ですから、そこから外されると何も記されない。
まぁ、薄い教科書に日本の歴史を網羅することも不可能であるのはわかるのだが・・・・
私はそんな薄い教科書も勉強しなかったわけですから何も言えませんがね。
東北に限らず、四国でも九州でも記述されない歴史の方がむしろ多い。だから歴史は面白い! 権力に負け消された歴史の方が正しいのかもしれない。
東北は阿弖流為、前九年、後三年合戦、平泉滅亡、奥州仕置、戊辰戦争と度々大きな戦に巻き込まれたため、歴史をズタズタに書き換えられ、捨てられてしまっている。
それでも東北の人々は逞しく生きて来た。その事実を子供時代に知ることが大切なのだと思う。
中学、高校に学べば故郷への思いや誇りを強く胸に刻み社会に出ていけるのではと思う。
実は、私が中学の時に学校行事で平泉(金色堂・中尊寺・毛越寺)に行っている。しかし、歴史については何も知らず教室で教えられた記憶もほとんどない。 「馬の耳に念仏」であった。
それが40歳を過ぎてから興味を持ち始め独学している。学校は何もしていないわけではない。多賀城では子供に学習資料として多賀城碑のことなどの小冊子を配っている。しかし、配っているだけである。
子供の記憶には何も残っていない。 もっといい方法があると思うのだが・・・
阿弖流為も安倍貞任も九戸正実も逆賊どころか郷里を守ろうとしたヒーローなのだ。
中央で問題を起こした人間は東北へ逃げ込んでくる。
平安時代までは朝廷の力が及ばぬ土地だったからである。
それは異民族の国だからです。 前途したように(出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 一話・二話)朝廷のルーツは、天照たちが出雲王朝の「和」の国を滅ぼし、「大和」という国家を建設したところにある。
しかし、「和」の国は、「大和」が完全に滅ぼされるほど小さくなかった。 あまりにも簡潔に書いてあるが大枠違いない。
大和朝廷は境界線を設け、互いに干渉しないやり方を取った。
「和」の国の人々を東北と九州へ追いやり、そこを化外の地としたのだ。
境界線では常に戦いがあった。
三世紀から四世紀にかけて、蝦夷と争ったという記録があるようだが大きな戦いにはならなかった。
『多賀城』
多賀城造営
646年※大化改新の詔(みことのり)が出され、朝廷による中央集権の整備が始まった。
※飛鳥時代の孝徳天皇2年(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
斉明四年(658)から、阿倍比羅夫によって最初の大がかりな東北遠征が行われた。彼は180艘の水軍を率いて日本海を進み、北海道南端の「渡島」まで達した。 しかし中央では「比羅夫が多くの蝦夷を武力で従えた」と宣伝された。
斉明五年(659)の遣唐使は、阿倍比羅夫が連れて来た二人の蝦夷を従えて中国皇帝にお目通りを願っている。そして・・・・・
「蝦夷には三種あり、遠い集団を都加留(つかる)次を麁蝦夷、もっとも近いものを熟蝦夷(にきえみし)といいます。」と蝦夷の土地がが大そう広大であると主張してる。こういった点からみて阿倍比羅夫の行動が唐との外交を有利にするためになされたありさまがわかる。
この時期、朝廷に従った蝦夷を「俘囚」と呼ぶ用法がうまれている。
これは、東北地方の朝廷の支配下にすすんで入ってくる者が多かったことがわかる。
俘囚は他の地方の人々とほぼ同じ扱いを受けていた。
持統三年(689)に、陸奥と越の蝦夷に仏像を与えたことが見える。
朝廷が中央の文化を分け与えることを通じて蝦夷を統治下に組み込んでいったことがうかがえる。
多賀城の設置
東北地方への軍事行動があった。
それは、大宝元年(701)【大宝律令】の制定から、和銅三年(710)の平城京の完成にいたる中でなされた。
和銅元年(708)越後国に出羽郡(でわごおり)が置かれ、それから4年後に出羽国となった。
和銅二年巨勢麻呂(こせのまろ)を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍に任命した。
彼らは10か国の兵士を動員して五か月に渡って大がかりな軍事行動を行った。『続日本紀』には次のように記載されている。「官軍襲撃するにより凶賊霧消す」この行為は朝廷が最初に行われた武力による征服であった。蝦夷の豪族は予告なしに現れた大軍に抵抗するすべもなく敗れた。
この時点で東北地方の朝廷の勢力圏は、仙台平野と最上川を結ぶまで広がっていた。
それ以来、東国(とうごく:中部・関東地方)から東北に移住する者が多くなりまたすすんで朝廷に従ってカバネをもらう東北地方の豪族もふえていった。
(※カバネ=貴族層であることを示す朝臣などの称号)
このような動きのなか多賀城がつくられた。
東北にも城柵を設け支配体制に組み込もうと動きが現れる。
奈良時代の文献「常陸国風土記」によると、大化の改新直後に関東以北に置いた八国の一つが陸奥国の始まりと考えられる。
712年には出羽国が置かれた。
行政を統括する按察使(あぜち)が、全国に派遣されていた。
朝廷の役人と共に移住してきた人たちが大勢いたと「続日本紀」に記されている。 移民と先住民である蝦夷との間に摩擦が生じたことは容易に想像できる。
720年、蝦夷が陸奥国按察使の上毛野広人を殺害する事件が置き陸奥の出羽の散発的な反乱があった。
そこで朝廷は新たな境界線を設ける。
そもそも多賀城を造った最初の理由は、境界線の守備のためだった。
多賀城を戦闘の拠点とし鎮守府に改めたのは、大分あとのことになる。
多賀城の記事にも書いているが、朝廷の陸奥支配は神亀元年(724)陸奥鎮守将軍に任ぜられた大野東人(おおのあずまびと)が多賀城を築城したことにはじまる、とされているが、それはそれは陸奥の支配というより朝廷の統括している領地を明確に示す行動だったのであろう。
城輪柵跡/酒田市クリックで当時の記事が見れます。
机上の空論では無く、実際に現地に足を運んで学びたいものですね。
南の地域から移民が導入された『続日本紀』にも和同七(714)年に尾張・上野・信濃・越後の富民200戸を出羽柵戸としたとあり、霊亀元(715)年に相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民1000戸を移して陸奥に配しており、同じような例が、養老元(717)年、養老三(719)年、養老六(722)年にもある。また神亀元年(724)年には他国から陸奥に来ていた兵士の本籍を陸奥に移す措置も講じている。
多賀城創建に用いられた瓦では、丸瓦の先端の段になった部分(玉縁)などに「毛」「常」「下」「木」「上」「富田」のように特定の文字のへら書きがあるものがある。
これらの国から来た兵士あるいは移民が瓦の制作に関与していたことを示すものであろう。
移民の導入と引き替えのように、東北地方から他の地域への住民の強制移住もまたさかんに行われた。
『続日本紀』の神亀二(725)年閏正月の条には、陸奥国の俘囚144人を伊予国に配し、578人を筑紫に配し、15人を和泉監に配したとあり俘囚の諸国移配が奈良時代の初期から行われている。
文献上の初見は天平九(737)年で、この時期には「多賀柵」とある。
『続日本紀』で多賀城と記されるはじめは宝亀十一(760)年の記事であるが、天平宝字六(762)年の「多賀城碑」にも多賀城の名がみえるので、天平宝字年間には多賀城と呼ばれるようになっていたのだろう。
つまり文献に載った時期が設営又は造営された時期ではない。 それを勘違いする歴史家がいるが大間違いである。
文献に載った時はすでに存在し呼ばれかたも変化がみられるほどの時間が経っている。
多賀城の創建
広域の陸奥国が復活した時期は養老六(722)年から神亀元(724)年三月以前にかけてのことである。
このことについては多賀城碑による。
ホームページ多賀城
多賀城
多賀城市役所ホームページ 史跡・観光編
七九七年、蝦夷征伐の状況を打開するため、桓武天皇は田村麻呂を征夷大将軍に任命する。しかも、陸奥国按察使、鎮守将軍、陸奥守を兼ねてだ。
八○二年、田村麻呂は阿弖流為の本拠地胆沢に進出し、そこに城を築いた。
田村麻呂は軍隊だけでなく、沢山の僧を東北に連れてくる。 寺を建立し、仏教を広めるためだ。
むろん蝦夷は仏教徒では無く、アラハバキ神を信仰している。
田村麻呂は軍事力だけでなく、文化の力で東北を懐柔していこうと考えたのではないか。
略式年表
6世紀中葉 日本に仏教伝来
587年7月 物部守屋、蘇我馬子に滅ぼされる
604年1月 初めて暦を用いる
皇太子が憲法17条をつくる
646年1月 大化の改新
649~654年頃 陸奥国を置く
658~660年 阿倍比羅夫、蝦夷・粛慎を征討
663年8月 白村江の戦い。倭国、唐・新羅連合軍に大敗
672年6月 壬生の乱起こる
694年12月 藤原京遷都
701年8月 大宝律令制定、2月翌年施行
708年1月 武蔵国秩父郡より和銅が献じられる
709年3月 巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯を征越後蝦夷将軍に
任命、陸奥・越後の蝦夷を攻撃
710年3月 平城京遷都
712年1月 古事記奏上される、9月出羽国を置く
720年5月 日本書紀奏上される
720年9月 陸奥国按察使・上毛野広人が殺害される
724年 鎮守将軍・大野東人、多賀城を設置
740年9月 藤原広嗣の乱
741年2月 国分寺、国分尼寺建立の詔
749年2月 陸奥国涌谷より黄金産出
760年 涌谷の北側に桃生柵(城)設置
764年9月 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
766年10月 道鏡、法王となる
767年10月 伊治柵(城)を設置
769年2月 桃生・伊治の2城完成、板東八ヵ国の百姓を移す
770年8月 道鏡、下野へ追放される
776年9月 陸奥国俘囚を大宰府管内の諸国・讃岐国に移配
777年12月 出羽国の兵士、志波村の蝦夷に敗退
780年 伊治呰麻呂が伊治城で紀広純を殺害
3月呰麻呂の乱
陸奥国に覚鱉城を造る
781年4月 桓武天皇即位
784年11月 長岡京遷都
788年7月 紀古佐美征東大使に任命される
12月 紀古佐美節刀を賜う
789年3月 蝦夷征討を開始
9月征東将軍らの敗戦責任を勘問し責任者を処罰
791年7月 大伴弟麻呂を征東大使に坂上田村麻呂を副使に任命
794年1月 征夷将軍、大伴弟麻呂に節刀を賜う
10月大伴弟麻呂、征東軍の戦果を報告
平城京遷都
797年2月 坂上田村麻呂を征夷大将軍とする
801年2月 征夷大将軍、坂上田村麻呂に節刀を賜う
802年1月 坂上田村麻呂 胆沢柵(城)を構築
4月阿弖流為・母礼ら500人を率いて投降
7月田村麻呂、阿弖流為・母礼の二人を従えて入京
8月阿弖流為・母礼、河内国杜山(椙山)で斬首される
803年3月 坂上田村麻呂、志波城を構築
上記の年表は東北蝦夷の魂(高橋克彦著)より
参考文献:東北蝦夷の魂(高橋克彦著)・古代東北まつろわぬ者の系譜(武光誠著)・古代蝦夷(工藤雅樹著)
追記しました。
梅原猛「葬られた王朝」を想起してしまひましたぁ
だめなのが古田武彦の著書ですね~
偽書と言われた東日流外三郡誌の擁護派でこの人の書いた本で騙された人が多くいるようです。
まぁ、古代史なんて考古学で証明しなければ、ただの想像ですからね。
十三湖と十三湊の話として、「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)なる記録があって、なんでも大和国家の時代に、十三湖あたりに朝鮮半島からアラハバキ族という武闘軍団が渡来し、大和朝廷の勢力をこの地から排除、東北、北海道にかけて都市国家を作り上げた。
というものでした。
アラハバキ族って・・・ますますどういう民族であったのか、深い話ですよねぇ。
そのその影響を受けた古代史の研究者は自分の本の中で引用し、その本を読んだ人がまた広め・・・
町ぐるみで騙され散々な結果になりました。
自分も最初は面白いと思いましたが、調べて見るとがっかりするばかりで憎しみさえ感じました。この偽書についてはHPの「東日流外三郡誌の正体」http://sanpomichi114.web.fc2.com/tugarusotosangunshi.html
を読んでください。
しかし、アラハバキ神は間違いなく存在します。最近私のブログを拝読している方に先祖がアラハバキを祀る神社の神主をしていたという情報をいただき私のHPの「あらはばき」にリンクしました。
http://sanpomichi114.web.fc2.com/arahabaki.html
想像でしかありませんがアラハバキをの信仰をしていた民をアラハバキ族と朝廷側が言ったのではないでしょうか。
縄文時代の神は古事記に載っていないアラハバキであったことがわかります。
大和朝廷(天孫族)は自分たちの神とすり替え神社を乗っ取り元々の神は境内のはじっこに末社や摂社という扱いで小さく祀られています。
今のところそんな感じだと思いますよ。
偶然そのまま「あらはばき神社」として生き残った神社も少なくないと思います。
HPは文章が長いので、本当に暇な時にでも読んでいただければと思います。
それより、体調はいかがですか?
こうしてコメントを入れてくれるところを見るとお元気のようですね。
のんびり行きましょう。
今は、眠気と闘っていて後半部分が読み込めていないのです。
ただ、アラハバキにハマって以来、ずーっとアイヌの人たちは、日本人だよなぁ?と、疑問に思っておりましたので、この記事で納得できたので、胸のつかえがとれました。
大きなくくりとして
アイヌの人こそ、元日本人の末裔の一部だと思います。
もう一つはアイヌ独特の文化も持ち合わせています。
また北方アイヌ・・・又はオホーツク文化と言われるものもあります。チョット今・・・酔っているので支離滅裂ですが、以前チョットそれに触れた記事を書いています。
改めて、今度書きたいとおもいます。
古代北方世界にに生きた人々について。
私は夢から覚めるときにいろんな言葉が聞こえます。(変な人には思わないでほしいのですが)知らない言葉、場所、歴史の人物?も多くて。その言葉を検索していたらひーさんの散歩道にたどり着きました。
私は同じ県内に住んでます。
ドライブをしながら偶然あった神社をお参りすることが好きなのですがこれからはひーさんの散歩道を参考に学んでから神社をお参りしようかな。過去ブログを逆上って読んでみます。
新しいブログも楽しみにまた遊びに来ま~す。
自分は、行きたい神社を探して行くこともありますが、通りすがりの小さな社も数多く訪問しています。 小さな神社でも建てられたのには必ず理由があります。
由緒が書いてある時は、読んで欲しいのですが、時間がないときは、丁寧に写真を撮ってもいいですね。 僕はいつも社殿の裏を見ます。
表は、基本拝殿などのお参りするところですが、後ろにご神体があります。神殿は普通見れないようになっていたりしますが小さい所は、一週できます。すると不思議なものを見つけることが良くありますよ。例えば穴の空いた石とか当然自然の物ではないでしよう。
ちょっと薄気味悪い時もありますが、あまり深入りせずに、切り上げて来ます。
私のホームページが同じタイトルであります。
そちらからだと、神社仏閣が纏められています。
ところで、その夢きになりますね。
もう少し、知りたいのですが?
どんな言葉や人物、場所が出てくるのか、教えてもらえればと思います。またコメント下さいね。 待っています。
ありがとうございます。
私はSNSやブログもしてなく、普段ブログを読んでもコメントをしません。
ここにコメントしたのは辿りついたのが同じ県内の方だったからご縁を感じたのかも。
私の昔からの不思議なことを話すと長くなりますので(汗)
ここに辿りついた言葉、
聞こえた一部の言葉を載せます。
歴史のことに全く無知なので、ただ聞こえた言葉だけ。
目が覚めるウトウトしてるときに誰かに話しかけられたり、聞こえたり、漢字が脳裏に浮かぶというか。。
◎三輪山(このような山があると知らず美輪さんと勘違いしていた)
◎ジンムテンノウ(神武天皇?)が参りました。
私は神社参りは1人で行くので気持ちの良い場所は長くいて、空から聞こえる声と話をしています。塩釜神社では神様だと思いますがタスキをした細くて小さいおじいさんがセカセカ動いてましたよ(笑)とても好きなところです。
アテルイさんのところにはいつも遊びに行くのですが、優しく強くたくましいですね。お不動様のように赤いです。
上の県ののアラハバキさんに行った時はすごく静かで自然の音だけで何も聞こえませんでした。沈黙してるような。
気持ちの良い神社、県内のおすすめの神社はありますか?
やはり私も、塩竈神社は、良く行きます。
ですから塩竈神社の記事は、多くなりますね。
あそこの空気は清々しいです。
神社によっては、写真を撮って逃げて来るところもありますよ。
あきさんの、その力は与えられたものです。
自然の成り行きに任せればいいと思います。
県内には、塩竈神社に肩を並べるほどの神社は、まだ見たことがありません。
敷地も広いし、三拝者も多いので手入れがほどこされていますが、他の所は維持するのも大変だと思います。
由緒ある神社は、沢山ありますが参拝者がいないため朽ちて行く所も多いと思います。
あきさんは因みに県北ですか?県南ですか?
このブログには、何故か縁を感じて、とコメントくださる方が多いです。
ありがたいことです。