偽書「東日流外三郡誌」の正体1
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
佐藤
伝承に過ぎないことでも、文字になれば、それが事実なんだと思ってしまう。このような傾向はあちこちにたくさんあります。
そういう話にちょっと関連して言うとこの間、たまたま九月に遠野の常堅寺という河童狛犬のあるお寺の息子さんと、(息子さんと言っても学校の先生を退職した人で、かなり高齢の方)
と話をしました。その時実は河童狛犬というけれども、作った時までは普通の狛犬でした。
私もやりましたけれども、ガキどもがみんな狛犬にまたがって、石で狛犬の頭を叩いて、だんだんだんだんやっていくうちに、これは河童淵のそばにあるし、河童ということにしようと、みんなでもっと削って、それで今や有名な河童狛犬というふうに言われるようになったんです」というんですね。
つまり、そういう話というのは、誰でも明白な嘘で、いわゆる遠野物語的というか、このような話はああ面白いという話で、河童を見たというおじいさんと同じで温もりのある嘘であることがわかります。
「東日流外三郡誌」とは質が違いますね。私は狛犬の写真を集めていましたので、やはりここに行き、取材したことがありました。下記の記事がそうです。
2009年3月にUPした常堅寺のかっぱ狛犬
遠野:常堅寺の狛犬さん/カッパ狛犬
「東日流外三郡誌」は現代人が作ろうとした神話だったのです。1話の写真の家をご覧ください。この家がその夢の跡なのでしょう。
写真の女性がキヨヱさんが言う。
「本当にはんかくさい!。私が最初から言ってるじゃないですか。すべて喜八郎さんの作り話だと。もともとこの家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それもよりによって何千巻もだなんて・・・・。
それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか聞いて下さい。古文書が落ちてきたという1947年頃、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井版を張っていませんでした。有りもしない古文書が、ありもしない天井版を突き破って落ちてきたなんて、本当にはんかくさい話ですよ」
和田の家を、隣に住むいとこのキヨヱが買い取ったのは2002年12月だった。
和田の土地と建物は和田の死後、長男にあたる中年男性が相続していた。しかし、その男性は不幸にも2002年病死した。
様々な事情から所有権は金融業者に移り、青森地方裁判所五所川原支部で競売かけられたのを落札したのがキヨヱだった。
キヨヱにとって、この家は家庭の事情で十四歳から、結婚して隣に引っ越す十九歳まですごした「我が家同然の建物」だった。
だから、人手に渡るのがしのびなかった。
何より少女時代を過ごした家が「「東日流外三郡誌」発見の地」として、奇異な目で見られることは耐えられないことだった。
キヨヱの案内で回ったこの家は木造一部二階建てで、広さは二百平方メートルほどだった。
和田が事あるごとに強調していた「旧家」というイメージとはちょっと違う印象を受けたが、それもそのはずで、キヨヱによると太平洋戦争直前の1940年頃の建築だという。
その事実については実際にあたった大工の小野元吉(五所川原市、故人)も証言していた。
和田が主張するほど古い家ではなかったというわけだ。
次に原田と斎藤、キヨヱ、そして私は問題の部屋へ移動することにした。「寛政原本が壁の中に隠されている」と擁護派が繰り返し強調していたあの「中二階」だった。 そこは和田が常にこもっていたという、書斎ともいうべき空間だった。
中二階へ続く階段の入口は、隠し扉のように改造が加えられていた。細くきしむその階段を上がると六畳ほどの小部屋があった入って正面と左側が土壁、右側が窓という造りだった。
平屋に中二階を無理矢理くっつけたようなこの構造は東北地方では珍しいことではなく、「マゲ」と呼ばれていた。
まず、目に飛び込んできたのは、土壁の一部が壊され、崩された跡と、おびただしい数のペットボトル(1.8L)だった。
土壁に空けられた穴から向こう側をのぞいてみた。 そこには、先ほど、一階の座敷から見上げた天井裏が広がっているだけだった。
問題の中二階の壁の中には、寛政原本を隠す空間など存在しなかったのである。
「この家が空き家になった直後に勝ってに入り込んで、わざわざ土壁を崩した人がいるのではないでしょうか。おそらく”寛政原本が中二階の壁の中にある”という和田さんの話を真に受けて、宝さがしに来たのでしょうね。 しかし、この通り、土壁に開けられた穴から見えるのは一階の天井裏だけ。 せっかく穴をあけたのに目当てのものがなくて気落ちして帰ったんだと思います。
1話にUPした写真ですが、ペットボトルがあります。この中味は「尿」でした。
「新しい和紙を古く見せるためにおしっこを付けるということを聞いたことがあります。それかなぁ?」と原田氏がいう。
「私たちはこの瞬間、文献偽作の作業場に足を踏み入れたのかも知れません。ここが「東日流外三郡誌」事件の”現場”そのものではないでしょうか」
量的には史上最大の偽書『外三郡誌』
和田家の調査を報じる記事
訴えられた謎の古文書
訴訟の大まかな構図
「外三郡誌」の発見者とされる和田の著書と、「外三郡誌」そのものに、野村が撮影した写真と中央紙に発表した論文記事が勝手に使われた・・・・というものであった。
①盗用された写真は猪垣と呼ばれる近畿地方にある特異な石垣。それなのに、古代の津軽に存在したとされる邪馬台城(「外三郡誌」に登場する架空の城)が存在する証拠として使われた。
②その写真は十六年前に和田に送った。
③嘘の歴史は絶対許さない。 と説明した。
つまり、野村氏の論文記事を基に書いた記述が邪馬台城として写真と共に出版された。
上告申請書
このようなバッタ物の「東日流外三郡誌」をわずかでも信じていたと思うと吐き気がします。
次回は筆跡鑑定
偽書「東日流外三郡誌」の正体8
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
佐藤
伝承に過ぎないことでも、文字になれば、それが事実なんだと思ってしまう。このような傾向はあちこちにたくさんあります。
そういう話にちょっと関連して言うとこの間、たまたま九月に遠野の常堅寺という河童狛犬のあるお寺の息子さんと、(息子さんと言っても学校の先生を退職した人で、かなり高齢の方)
と話をしました。その時実は河童狛犬というけれども、作った時までは普通の狛犬でした。
私もやりましたけれども、ガキどもがみんな狛犬にまたがって、石で狛犬の頭を叩いて、だんだんだんだんやっていくうちに、これは河童淵のそばにあるし、河童ということにしようと、みんなでもっと削って、それで今や有名な河童狛犬というふうに言われるようになったんです」というんですね。
つまり、そういう話というのは、誰でも明白な嘘で、いわゆる遠野物語的というか、このような話はああ面白いという話で、河童を見たというおじいさんと同じで温もりのある嘘であることがわかります。
「東日流外三郡誌」とは質が違いますね。私は狛犬の写真を集めていましたので、やはりここに行き、取材したことがありました。下記の記事がそうです。
2009年3月にUPした常堅寺のかっぱ狛犬
遠野:常堅寺の狛犬さん/カッパ狛犬
「東日流外三郡誌」は現代人が作ろうとした神話だったのです。1話の写真の家をご覧ください。この家がその夢の跡なのでしょう。
写真の女性がキヨヱさんが言う。
「本当にはんかくさい!。私が最初から言ってるじゃないですか。すべて喜八郎さんの作り話だと。もともとこの家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それもよりによって何千巻もだなんて・・・・。
それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか聞いて下さい。古文書が落ちてきたという1947年頃、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井版を張っていませんでした。有りもしない古文書が、ありもしない天井版を突き破って落ちてきたなんて、本当にはんかくさい話ですよ」
和田の家を、隣に住むいとこのキヨヱが買い取ったのは2002年12月だった。
和田の土地と建物は和田の死後、長男にあたる中年男性が相続していた。しかし、その男性は不幸にも2002年病死した。
様々な事情から所有権は金融業者に移り、青森地方裁判所五所川原支部で競売かけられたのを落札したのがキヨヱだった。
キヨヱにとって、この家は家庭の事情で十四歳から、結婚して隣に引っ越す十九歳まですごした「我が家同然の建物」だった。
だから、人手に渡るのがしのびなかった。
何より少女時代を過ごした家が「「東日流外三郡誌」発見の地」として、奇異な目で見られることは耐えられないことだった。
キヨヱの案内で回ったこの家は木造一部二階建てで、広さは二百平方メートルほどだった。
和田が事あるごとに強調していた「旧家」というイメージとはちょっと違う印象を受けたが、それもそのはずで、キヨヱによると太平洋戦争直前の1940年頃の建築だという。
その事実については実際にあたった大工の小野元吉(五所川原市、故人)も証言していた。
和田が主張するほど古い家ではなかったというわけだ。
次に原田と斎藤、キヨヱ、そして私は問題の部屋へ移動することにした。「寛政原本が壁の中に隠されている」と擁護派が繰り返し強調していたあの「中二階」だった。 そこは和田が常にこもっていたという、書斎ともいうべき空間だった。
中二階へ続く階段の入口は、隠し扉のように改造が加えられていた。細くきしむその階段を上がると六畳ほどの小部屋があった入って正面と左側が土壁、右側が窓という造りだった。
平屋に中二階を無理矢理くっつけたようなこの構造は東北地方では珍しいことではなく、「マゲ」と呼ばれていた。
まず、目に飛び込んできたのは、土壁の一部が壊され、崩された跡と、おびただしい数のペットボトル(1.8L)だった。
土壁に空けられた穴から向こう側をのぞいてみた。 そこには、先ほど、一階の座敷から見上げた天井裏が広がっているだけだった。
問題の中二階の壁の中には、寛政原本を隠す空間など存在しなかったのである。
「この家が空き家になった直後に勝ってに入り込んで、わざわざ土壁を崩した人がいるのではないでしょうか。おそらく”寛政原本が中二階の壁の中にある”という和田さんの話を真に受けて、宝さがしに来たのでしょうね。 しかし、この通り、土壁に開けられた穴から見えるのは一階の天井裏だけ。 せっかく穴をあけたのに目当てのものがなくて気落ちして帰ったんだと思います。
1話にUPした写真ですが、ペットボトルがあります。この中味は「尿」でした。
「新しい和紙を古く見せるためにおしっこを付けるということを聞いたことがあります。それかなぁ?」と原田氏がいう。
「私たちはこの瞬間、文献偽作の作業場に足を踏み入れたのかも知れません。ここが「東日流外三郡誌」事件の”現場”そのものではないでしょうか」
量的には史上最大の偽書『外三郡誌』
和田家の調査を報じる記事
訴えられた謎の古文書
訴訟の大まかな構図
「外三郡誌」の発見者とされる和田の著書と、「外三郡誌」そのものに、野村が撮影した写真と中央紙に発表した論文記事が勝手に使われた・・・・というものであった。
①盗用された写真は猪垣と呼ばれる近畿地方にある特異な石垣。それなのに、古代の津軽に存在したとされる邪馬台城(「外三郡誌」に登場する架空の城)が存在する証拠として使われた。
②その写真は十六年前に和田に送った。
③嘘の歴史は絶対許さない。 と説明した。
つまり、野村氏の論文記事を基に書いた記述が邪馬台城として写真と共に出版された。
上告申請書
このようなバッタ物の「東日流外三郡誌」をわずかでも信じていたと思うと吐き気がします。
次回は筆跡鑑定
偽書「東日流外三郡誌」の正体8
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