ひーさんの散歩道

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お伊勢参り 5 外宮(豊受大御神)

2017年11月08日 15時12分10秒 | 伊勢の散歩道
外宮(豊受大神宮)   






丹波の国より迎えられた天照大御神の御饌津神(みけつかみ)
外宮と一般的に呼ばれるが豊受大神宮が正式名称。
 昔は「渡会の宮」とも呼ばれた。
最も重要な神嘗祭の「大御饌供進(おおみけきょうしん)」も外宮から先に行われる

外宮に祀られている豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)は和久産日神(わくむすびのかみ)の娘で五穀豊穣の神である。
またま市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
神大市比売(かむおおいちひめ)とともに稲荷四天王の一人。

豊宇気毘売神は神宮の中で天照大御神同様に祀られているため神明造りの社殿、それぞれの荒御魂を祀る宮(荒祭宮・多賀宮)が存在するなど共通する部分も多い。
しかし、決定的に違うのは御饌殿(みけつどの)の存在。
ここは、神々が食事をする場所で外宮にしかない。

「古事記」では、豊宇気毘神は「トユケ」とも呼ばれ古事記の中で何度か登場する。

伊邪那美が火之貨迦具土神を産んだとき、大火傷を負って苦しんでいるとき「ユマリ(おまるの語源)」の中から生まれた神様です。
この後伊邪那美は神避ってしまう(亡くなる)。
豊宇気毘売神は天津神として登場しているが細かい情報は記されていない。
時の権力者が編纂させた「古事記」よりも、律令国家の中で天皇の勅命により各国の国庁らがそれぞれ編纂し献した「解風土記」の一書「丹後国風土記」の中に詳しい話が記されている。」

これによれば、この豊宇気毘売神は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)同様、もとは国津神であり事情があって仲間の女神らと離れるこことなった。

延暦23年(804年)に伊勢神宮より朝廷に提出された「延暦儀式帳の中の「土由気宮儀式帳(とゆけくうぎしきちょう)によれば、第11代垂仁天皇の御代、天照大御神が五十鈴川の上流に鎮座した。

時が流れ第21代雄略天皇の御代、天皇の夢の中に天照大御神が現れ「独りぼっちでは辛くて食事も満足にできない。丹波の国に「とようけ」という名の神がいるので自分の傍(かたわら)に呼んでほしいと訴えた。

この夢に天皇は大変驚き御饌殿を建立して朝夕の大御饌を毎日供えるようになった。





正宮










古殿地(遷宮前の地)




伊勢国造の子孫で両宮の大神主であった渡会氏は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を氏神とする大中臣氏の末裔である。
内宮の荒木田神主に対して「外宮の祭神である豊宇気毘売神こそが上位である」との神州思想の考えをまとめた。
この思想は「伊勢神道」や「渡会神道」「下宮神道」などと呼ばれ後の神道に大きな影響を及ぼしたといわれている。
「神道五部書」という伊勢神道を代表する書物がある。
「倭姫命世記」もこの中の一書であり雄略天皇22年(479年)に記されたといわれてきた。
しかし、実際は伊勢神宮に伝わる古伝に加筆してゆき、天安末期から鎌倉初期に完成したものと推定されている。
この書物は、内宮、外宮の由緒を記述した内容のものだが、別名「外宮神道」と呼ばれている。
その理由は外宮神官、渡会氏が豊宇気毘売毘売神を意図的に上位に立たせるために造化三神における至高の神である「灰色の天之御中主神」と豊宇気毘売神を同一神であるとしているからだ。 つまり、実際豊宇気毘売神と同一神なのは、天之御中主神ではなく豊雲野神(とよくもののかみ)と呼ばれる神の別名であったということだ。

天女の羽衣伝説

丹後国丹波郡の比治山の山頂に真奈井と呼ばれる泉があった。
その泉へ天女8人が水浴びをするために舞い降りた。
するとそこに和奈佐という名前の老夫婦がやってきて、一人の天女の羽衣を隠してしまう。
天へ帰れなくなった天女は仕方なく この老夫婦の養女となり十年以上も年月をともに過ごした。
その間、天女は五穀を自分の口の中で醸し(噛み砕き)唾液を混ぜて発酵させ万病に効くお酒を作った。

しかし、このお酒で大儲けした老夫婦は、酒造の方法さえわかればもう用はない、と天女を追い出す。
泣く泣く放浪の旅に出た天女は「天の原ふりさけみれば霞立ち、家路まどいて行方知らずも」と詠み竹野郡にある船木の里(現在、京都府丹後市弥栄町船木)の奈具の村に留まった。
これが現在もある奈具神社の起こりでこの神社の主祭神名には、「豊宇賀能売命」とあり、豊宇気毘売神が天女であった可能性がある。




多賀宮
多賀宮は外宮において第一位の別宮で、豊受大神の荒御魂が祀られている。歴史も大変古く、豊受大神宮同様に、今を遡ること約1500年前に起源があるとされている。
それだけに、数ある外宮の別宮の中においても最も格式が高い社殿も丘の上にあり、他の別宮よりも高い位置にあることから「高宮」と称されている。





寝地蔵石
多賀宮に向かう参道途中のお地蔵さんの姿が見える石がある角度によってはお地蔵さんの顔に見えると親しまれている。













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2 コメント

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外宮の意味 (りひと)
2017-11-23 14:02:37
はじめに回らないといけないというのも含めずっと探っている事です。

天照さんが寂しくて呼んだというのも気になりますね。同じ種族だったんでしょうか?でお酒の件も発酵食品ですので知識がある種族はずっと知識も持っていたでしょうし身体にも起こり得る作用も知っていたでしょう。奈良時代のベースにもなりそうですね。

地蔵の形に見える石も、伊勢で地蔵って嬉しく思っちゃいました。あとは観音なんですよ。

でさっき多賀城跡の記事みたあとなんで多賀の宮色々考えてしまいますね。で数々の大社に行ってますけど多賀という文字は各地に裏にあるのも含めて気になってます。なので伊勢外宮に行った際みこだわりましたね。一番高いところにあった印象で子供達無理やり連れていったような?地形でも見てみますね。

そうだ風宮に遷宮で行けなかったような記憶があり調べたらいけなかったのは井戸だったみたいで次回は行きたい所、道が閉鎖されていたんですよ。で観音の気配は井戸なんでここは次回行きたいですね。

記事をみてまた旅して気分です。東京は大雨過ぎてやっと晴れてきました。
経験は、年を経過してまた知識を頂き変わる事もあるようですね。お酒のように熟成してくると印象や理解も変わります。いいきっかけになります。3861 紅葉という今を優先したプログの並びも大事なように思いましたよ、ありがとうございます。
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りひとさんへ (ひー)
2017-11-23 17:03:36
やはりこの地に居た豪族「渡会」さんの力がかなり入っていますね。その昔は「渡会の宮」とも言ってたようですからね。近くの街にも「渡会(わたらい)」という苗字があります。大きな工場を持って地元ではなが知られています。

知識といえば、先日TVを見ていてアマゾンの住民はいろいろな知識でどんな植物がどんな病にいいのかを知っていて現在の薬は彼らの知識から学んで作られたそうです。 いわゆるシャーマンと呼ばれる人はその卓越した知識で村の人々を救ってきたようです。
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