秋田県象潟市/蚶満寺(かんまんじ)
鳥海山を山形側から入って秋田に抜けた理由は、この象潟をご紹介したかったからです。
日暮れが近づいてきましたが、17時チョト前に入ることが出来ました。
さて、この象潟ですが、出来るだけ短くまとめたいと思います。
象潟市は、宮城の松島と「夫婦町」になっています。
それは、芭蕉との繋がりや紅蓮(松島こうれん【せんべい】)との関係もあったのでしょう。
紅蓮については、悲恋の物語がありますので、最後に書き込みたいと思います。是非読んで欲しい
象潟ということは、やはり潟湖だったようです。地形の話をすると紀元前からになるので、今回は大きな変化があったところからお話します。
鳥海山の北西麓にあり、東西20町余南北30町余で(1町=109m強?)湖畔に蚶満寺があり九十九島・八十八潟の景勝地であったがかつては、松島と並ぶ名勝地でした。
しかし、文化一年(1804)の地震により隆起し消滅してしまい現在は水田になってしまいました。
その中には、小丘が残りかつては島だった様子が伺われます。(天然記念物)
「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも
「江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて又異なり。松島は笑うが如く、象潟は怨むが如し、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂をなやますに似たり」と評され、※「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠まれた。
※なんと魅力的な象潟の風景よ。雨にけぶる中にあたかも(中国の薄幸の美人)西施(せいし)が、(憂いに沈み)目を閉じている姿を思わせて、合歓(ねむ)の花が淡い紅色に咲いている。
ここで不思議なのは年代です。大地震の前に芭蕉は訪れているのに、「象潟は怨むが如し」とは? 私の解釈が間違っていたのか? 誰か教えて?
蚶満寺
延暦年間(782~806)円仁が創建し天台宗・・・後に真言宗に転じる
1257年には北条時頼から目通り20町余の寺地を寄進されている。
天正年間(1573~1592)再建され曹洞宗の改宗される。
「本尊釈迦牟尼仏」
長くなりますので、蚶満寺の七不思議は省略しました。
山門の獅子頭、龍頭もさることながら、細かい彫り物もありますね。
今回、蚶満寺の建物には興味が無かったのですが、この鐘楼の形というか色というか、珍しい?
この本堂の屋根・・実物はかなり大きい
出世稲荷堂 もう出世はたくさんです。 平でいいです。
北条時頼公のつつじ。
神功皇后ゆかりの地として、象潟に四霊の地を定め、禁断殺生の令を宣じた。
前記した通り寺地を寄進して再興している。
樹齢700年以上という・・・
猿丸太夫姿見の井戸。
この人物、最初は良く知らなくて、異様な雰囲気の境内にある井戸の為、写真を撮ってさっさと離れました。
だって出そう~な雰囲気が・・・
猿丸太夫とは、百人一首の中にありました。
この井戸の水を飲み疲れを癒し、自分の姿を映して将来を占ったという伝説があるそうです。
西行法師の歌桜の跡。
1174年、この地を訪れた法師が「蚶方の桜は波にうづもれて 花の上漕ぐ海士のつり舟」と詠んでいます。
波もつり舟も今はありませんが、昔は松島のような光景があったはずです。
今回の一番の目的 がこの舟を繋いだ石と田んぼに浮かぶ島です。
まさに島があったことを証明しています。
『悲恋の物語 紅蓮尼の話』
昔、三聖堂の近くに蜂谷掃部という神仏に厚い長者がおりました。
掃部夫婦は子宝に恵まれなかったため、お堂の観音さまに祈っていたところ一子もうけることができました。
小太郎と名付けられたこの子は、賢く容姿が美しかったので、観音さまの申し子だと評判でした。
ある年小太郎はお堂の近くに2本の梅を植えました。
(「軒端の梅」と呼ばれ毎年綺麗な花を咲かせます。)
小太郎が15歳の春、父・掃部は四国三十三観音巡礼の旅に出ます。
その道中で出羽象潟(秋田県にかほ市)の商人と知己の仲となり、別れを惜しんだ2人は、商人の娘と小太郎の結婚の契りを交わします。
しかし、掃部が旅を終えて松島へ戻ると、小太郎は病がもとですでに亡くなっていました。
これを知る由もない象潟では、約束どおり娘を松島へ嫁がせてきました。
娘を哀れんだ掃部は象潟へ帰るように勧めますが、娘は「一度嫁いだ身なのだから」と、嫁として松島に残って父母に尽くし、父母亡き後は名を紅蓮と改め、一度も会うことのなかった夫・小太郎の供養に生涯を捧げます。
ある春の日、紅蓮尼はあまりに美しい軒端の梅の花ざかりを見て、生前会えなかった小太郎への思慕から
『植えおきし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ』と悲しみの歌を詠むと、翌年にはこの梅は咲きませんでした。これを悲しんだ紅蓮尼は
『咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは』と詠むと、それから毎年のように美しく花開き芳ばしい香りを漂わせたそうです。
「紅蓮せんべい」は、お堂に参拝した人々がお供えした米を紅蓮尼が粉にして焼いたのが始まりといわれており、680年の伝統があります。現在も46代目が一子相伝の伝統を守り、松島の名物となっています。
「松島こうれん」と検索すると、書いてあっても、鎌倉時代に尼さんが作ったせんべいです。とどのブログにも「せんべい」の評価だけでした。
寂しかったので、ここに記させていただきました。
鳥海山を山形側から入って秋田に抜けた理由は、この象潟をご紹介したかったからです。
日暮れが近づいてきましたが、17時チョト前に入ることが出来ました。
さて、この象潟ですが、出来るだけ短くまとめたいと思います。
象潟市は、宮城の松島と「夫婦町」になっています。
それは、芭蕉との繋がりや紅蓮(松島こうれん【せんべい】)との関係もあったのでしょう。
紅蓮については、悲恋の物語がありますので、最後に書き込みたいと思います。是非読んで欲しい
象潟ということは、やはり潟湖だったようです。地形の話をすると紀元前からになるので、今回は大きな変化があったところからお話します。
鳥海山の北西麓にあり、東西20町余南北30町余で(1町=109m強?)湖畔に蚶満寺があり九十九島・八十八潟の景勝地であったがかつては、松島と並ぶ名勝地でした。
しかし、文化一年(1804)の地震により隆起し消滅してしまい現在は水田になってしまいました。
その中には、小丘が残りかつては島だった様子が伺われます。(天然記念物)
「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも
「江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて又異なり。松島は笑うが如く、象潟は怨むが如し、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂をなやますに似たり」と評され、※「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠まれた。
※なんと魅力的な象潟の風景よ。雨にけぶる中にあたかも(中国の薄幸の美人)西施(せいし)が、(憂いに沈み)目を閉じている姿を思わせて、合歓(ねむ)の花が淡い紅色に咲いている。
ここで不思議なのは年代です。大地震の前に芭蕉は訪れているのに、「象潟は怨むが如し」とは? 私の解釈が間違っていたのか? 誰か教えて?
蚶満寺
延暦年間(782~806)円仁が創建し天台宗・・・後に真言宗に転じる
1257年には北条時頼から目通り20町余の寺地を寄進されている。
天正年間(1573~1592)再建され曹洞宗の改宗される。
「本尊釈迦牟尼仏」
長くなりますので、蚶満寺の七不思議は省略しました。
山門の獅子頭、龍頭もさることながら、細かい彫り物もありますね。
今回、蚶満寺の建物には興味が無かったのですが、この鐘楼の形というか色というか、珍しい?
この本堂の屋根・・実物はかなり大きい
出世稲荷堂 もう出世はたくさんです。 平でいいです。
北条時頼公のつつじ。
神功皇后ゆかりの地として、象潟に四霊の地を定め、禁断殺生の令を宣じた。
前記した通り寺地を寄進して再興している。
樹齢700年以上という・・・
猿丸太夫姿見の井戸。
この人物、最初は良く知らなくて、異様な雰囲気の境内にある井戸の為、写真を撮ってさっさと離れました。
だって出そう~な雰囲気が・・・
猿丸太夫とは、百人一首の中にありました。
この井戸の水を飲み疲れを癒し、自分の姿を映して将来を占ったという伝説があるそうです。
西行法師の歌桜の跡。
1174年、この地を訪れた法師が「蚶方の桜は波にうづもれて 花の上漕ぐ海士のつり舟」と詠んでいます。
波もつり舟も今はありませんが、昔は松島のような光景があったはずです。
今回の一番の目的 がこの舟を繋いだ石と田んぼに浮かぶ島です。
まさに島があったことを証明しています。
『悲恋の物語 紅蓮尼の話』
昔、三聖堂の近くに蜂谷掃部という神仏に厚い長者がおりました。
掃部夫婦は子宝に恵まれなかったため、お堂の観音さまに祈っていたところ一子もうけることができました。
小太郎と名付けられたこの子は、賢く容姿が美しかったので、観音さまの申し子だと評判でした。
ある年小太郎はお堂の近くに2本の梅を植えました。
(「軒端の梅」と呼ばれ毎年綺麗な花を咲かせます。)
小太郎が15歳の春、父・掃部は四国三十三観音巡礼の旅に出ます。
その道中で出羽象潟(秋田県にかほ市)の商人と知己の仲となり、別れを惜しんだ2人は、商人の娘と小太郎の結婚の契りを交わします。
しかし、掃部が旅を終えて松島へ戻ると、小太郎は病がもとですでに亡くなっていました。
これを知る由もない象潟では、約束どおり娘を松島へ嫁がせてきました。
娘を哀れんだ掃部は象潟へ帰るように勧めますが、娘は「一度嫁いだ身なのだから」と、嫁として松島に残って父母に尽くし、父母亡き後は名を紅蓮と改め、一度も会うことのなかった夫・小太郎の供養に生涯を捧げます。
ある春の日、紅蓮尼はあまりに美しい軒端の梅の花ざかりを見て、生前会えなかった小太郎への思慕から
『植えおきし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ』と悲しみの歌を詠むと、翌年にはこの梅は咲きませんでした。これを悲しんだ紅蓮尼は
『咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは』と詠むと、それから毎年のように美しく花開き芳ばしい香りを漂わせたそうです。
「紅蓮せんべい」は、お堂に参拝した人々がお供えした米を紅蓮尼が粉にして焼いたのが始まりといわれており、680年の伝統があります。現在も46代目が一子相伝の伝統を守り、松島の名物となっています。
「松島こうれん」と検索すると、書いてあっても、鎌倉時代に尼さんが作ったせんべいです。とどのブログにも「せんべい」の評価だけでした。
寂しかったので、ここに記させていただきました。
芭蕉の素性は分かりませんが、昔の人は立派でしたね。
つくづく感心します。
象潟と松島は似ているが、松島は笑うようで象潟は恨むようだ。
象潟の風景は愁いに沈む趣がある。
その風景に芭蕉は西施を連想したのでしょうね。
芭蕉の座右の書は西行の歌集と杜甫の詩集でしたがが(奥の細道の旅自体が西行の足跡を辿るものだったそうです)、
当時の知識人ですから、漢籍の素養は当然ありました。
それで象潟の風景を見て、すぐに「西施」を連想したのだと思います。
わからないのは、fc2では何個までカテゴリーが作れるのか?
最近、自分のサイトが色々な所で東北などを紹介しているサイトとしてリンクされているのです。だから分かり易くしようと思いまして。
自分も探すのが大変なんですよ。
fc2使って日は経つけれど実は先輩と言われるほど知識なくて~。
未だに苦戦しております・・あは。
fc2解析つけたんです。
その説明はfc2のQ&Aにもちゃんと詳しく載せてあるので
ひーさんなら、あっ!と言う間に使いこなせるよ~。
私より確実です・・(^^;)ゞ
息子を亡くしたお姑さん達を気の毒に思ったのですかね。?
腹減って( ^.^)( -.-)( _ _)
紅蓮さん…太平洋から日本海まで帰る億劫だったのかなぁ?
ぶきみな・・・井戸 ビデオから這い出してきそう
狛犬さんと龍のペアで山門を護ってる
(・_・)いつの時代でも男と違って、女は生涯再婚せず強く頑張りますわね~
あの鐘楼の形と色、なんとなく異文化の匂いが・・・
なるほど・・・
小さい頃、食べたきりです。
普通は帰ってしまうけどね。
この天気で、出かけるのが億劫で・・・
助かりました。
もう味を忘れてしまいましたよ。
象潟の人達の集落だったのでしょうか?
私としたことが…
嫁いでみたら、お婿が死んでたって
オイならすぐ家さ帰ってば
上野方面。
調べてみます。
こうれん UP済みです。
記事がみつかったらT.Bさせてもらいます。
それほど、人に勧めるほどでは無かったような・・・でも生きるために焼いたせんべいです。
悪口は、言いたくありませんね。
なんだか~手ごわそうですね (^^ゞ
紅蓮せんべい~
そんな~由来のある名物なんですね (^_-)~☆
自分も体調崩していまして、やっと今日当たり余裕が出てきました。
知らない地名を通る時は、バスガイドは国道の看板のローマ字を読んであたかも知っているかのように話ます。ww
松島に行って写真とこうれんを買って来ようかと思いましたが、憂鬱な雨に腰が重くなった次第です。
象潟からあの道を北上すると、秋田に行きますが、日本海を眺めながらなかなかのドライブコースです。
説明箇所が少ないため、バスガイド泣かせではありますが。
向上心の表れです。
当事の象潟はどうだったのか気になるところです。
長い旅から帰ってきました。
忙しくしていてブログにも伺わず
失礼しています<m(__)m>
松島のこうれんせんべいは食べた事がありますのに、詳しいお話は知らず・・・
教えて頂きサンキューです。
鐘楼、これは本当に珍しいです。
会ったこともない夫の両親に孝養を尽くす。現代では考えられないような物語ですね。
あまり知られていないのは、確かにさびしいです。
春になると梅の写真を撮りに行くのですが、この間、初めて梅雨の季節に行ってみました。
緑の葉っぱがうっそうと繁り、春先とはまた違った雰囲気でしたね。
日本海側はなかなか行く機会がありませんが、一度は象潟に行ってみたいと思います。
それこそ、地球規模の時間の流れを感じます。
はてさて、シティラピッド君が申すには、「空白地帯」(自身で出かけていない、東北の地)なんだとか。
やはり、一度は尋ねてみたい場所ですね。
深い霧に包まれ、多くの島々が浮き出て来る。
お日様の似合う松島よりうっそうとした象潟のほうが風情があったと聞きました。
左上に、このブログの記事を簡単に探す方法が無いかと、fc2を立ち上げました。
まだ、工事中ですが、使い方が分からなくて手探りでやってます。
IDが分かったのは、アクセス解析をつけたからですか?
色々教えてください。先輩!!
いつか記事にしようと考えてました。
地元では、松島こうれんを知る人が多いのですが、この話を知っている人は居ません。
この生き方が正しいとは言いませんが、彼女の責任感なのでしょう。
他人の両親の面倒を一生見るなんて出来ないことです。
辛いこともあったでしょう。時代とは言えこんな生き方をした女性が居たことを知っていただきたかったのです。
それは、ひーさんすぐ帰ってきく気持ち分かります。
出世・・ゴリ君に是非参拝して欲しいところだわ~。
全く向上心の無い人で~。
平で良いんだって!
年下の後輩がこの度出世。
それでも元気なゴリ君です。
ひーさん、fc2のIDもあるんですね!
訪問者リストみたらひーさんのIDがあって
ビックリ!!
>まさに島があった・・・
本当に『おか松島』って感じですね・・・
不思議なものを拝見したような
ちょっと感動です。m(_w_)m
追伸・その井戸、きっと出ますネ。。
芭蕉が春秋戦国時代の呉越の争いの犠牲になった西施を思い浮かべたのは、蚶満寺ゆえなのかなー(ようくわからん)。
密教系であの鐘楼、中国風ですよねー。
・・・うーむむ 誰か教えてけさい!