「古代日本誕生の謎」PHP文庫 武光 誠/著
「名も知らぬ遠き島より」三五館 日高恒太郎/著
武光さんは歴史書に多く名を連ねていますね。
この本の中に一部日高見国について書いてありましたので、引用編集させていただきます。
興味の無い方はパスしてください。
朝廷は、「関東の人々が朝廷に従う前は、北方から文化を受け入れていた」と語った為に東北には「日高見国」という強国があったと発想したのです。
そこで、朝廷は東北地方への関心が急速に高まったのです。
581年(敏達十年)には、蝦夷の首長、綾糟(あやかす)らに大王への忠誠を誓わせた。
588年(崇峻ニ年)には、東山道に派遣した近江満(おうみのみつ)に蝦夷との国境を視察させた。
637年(舒明九年)に上毛野氏と蝦夷との間に小ぜりあいがあった。
この時期の朝廷は、東北には自国と異なる風習を持つ異国「日高見国」があったととらえていたようです。
七世紀の宮廷の祭祀で用いられた祝詞(のりと)の中で最も明確な形で語られる。
「かくて依(よ)さし(支配し)まつりし四方の国中に、大倭(おおやまと)・日高見国(ひだかみのくに)を安国(やすきくに)と定めまつる」
(大祓祝詞・「延喜式」所収)
意味は、「大王が治める大倭国と日高見国とが安穏でありますように」
日本武尊伝説は六世紀初頭に作られたものだから、原形をそのまま伝える「古事記」の中には遠征路は関東までしか及ばない。
しかし、七世紀初頭の加筆を受けた日本書紀の日本武尊は蝦夷討伐にも手を染めている。
日高見国はその話の中にも出てくる。
その前に武内宿禰が東北を視察して、次のように報告した。
「東の夷(ひな)の中に、日高見国あり。その国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為 人勇(ひととなりいさ)み悍(こわ)し。これを総て蝦夷と曰(い)ふ。亦土地沃壌(またくにこえ)て曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」
つまり、東北地方は、広大で肥沃な征服すべき土地だ。そこの住民は、髪を粗雑に整え、入墨をした乱暴な野蛮人だというのだ。
それを聞いて尊は日高見国に向かった。
しかし、大化の改新後まもない七世紀中葉に阿倍比羅夫が北海道南端まで遠征した。
そのことによって、日高見国と呼ぶべき豊かな強国はどこにも無いとわかった。
そこには、朝廷に属さないいくつもの小国が分立していただけだった。
その頃から、日高見国と呼ばれなくなったが、八世紀中葉になると朝廷の勢力圏の北限にあたる、現在の北上川流域だけを日高見国と呼ぶ用法が起こった。
天平宝字四年(760年)、北上川下流に桃生柵が築かれている。
その時、城輪神(きのわのかみ)の社が設けられた。
城輪神とは「城の守りの神」だ。そして別名を日高見水神といった。
「日高見の川の水神」という意味だ。 つまり日高見川=北上川のことですね。
陸奥国の胆沢郡と江刺郡とをつなぐ渡し場は日上の湊と呼ばれ、日高見の湊が訛ったものでしょう。
ここで出てきた、日高見川の水神を祀る神社は次回UPします。
ちょっと書き足りないのですが、自分も疲れたし、読む方も疲れるでしょうからこの位にしておきます。
日高見や蝦夷やアイヌ語については、また改めて・・・・
何度か書きましたが、蝦夷(えみし)の呼び名は朝廷側が勝手につけた呼び名であって
決して自らを蝦夷と名乗っていたわけではありません。
「名も知らぬ遠き島より」三五館 日高恒太郎/著
武光さんは歴史書に多く名を連ねていますね。
この本の中に一部日高見国について書いてありましたので、引用編集させていただきます。
興味の無い方はパスしてください。
朝廷は、「関東の人々が朝廷に従う前は、北方から文化を受け入れていた」と語った為に東北には「日高見国」という強国があったと発想したのです。
そこで、朝廷は東北地方への関心が急速に高まったのです。
581年(敏達十年)には、蝦夷の首長、綾糟(あやかす)らに大王への忠誠を誓わせた。
588年(崇峻ニ年)には、東山道に派遣した近江満(おうみのみつ)に蝦夷との国境を視察させた。
637年(舒明九年)に上毛野氏と蝦夷との間に小ぜりあいがあった。
この時期の朝廷は、東北には自国と異なる風習を持つ異国「日高見国」があったととらえていたようです。
七世紀の宮廷の祭祀で用いられた祝詞(のりと)の中で最も明確な形で語られる。
「かくて依(よ)さし(支配し)まつりし四方の国中に、大倭(おおやまと)・日高見国(ひだかみのくに)を安国(やすきくに)と定めまつる」
(大祓祝詞・「延喜式」所収)
意味は、「大王が治める大倭国と日高見国とが安穏でありますように」
日本武尊伝説は六世紀初頭に作られたものだから、原形をそのまま伝える「古事記」の中には遠征路は関東までしか及ばない。
しかし、七世紀初頭の加筆を受けた日本書紀の日本武尊は蝦夷討伐にも手を染めている。
日高見国はその話の中にも出てくる。
その前に武内宿禰が東北を視察して、次のように報告した。
「東の夷(ひな)の中に、日高見国あり。その国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為 人勇(ひととなりいさ)み悍(こわ)し。これを総て蝦夷と曰(い)ふ。亦土地沃壌(またくにこえ)て曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」
つまり、東北地方は、広大で肥沃な征服すべき土地だ。そこの住民は、髪を粗雑に整え、入墨をした乱暴な野蛮人だというのだ。
それを聞いて尊は日高見国に向かった。
しかし、大化の改新後まもない七世紀中葉に阿倍比羅夫が北海道南端まで遠征した。
そのことによって、日高見国と呼ぶべき豊かな強国はどこにも無いとわかった。
そこには、朝廷に属さないいくつもの小国が分立していただけだった。
その頃から、日高見国と呼ばれなくなったが、八世紀中葉になると朝廷の勢力圏の北限にあたる、現在の北上川流域だけを日高見国と呼ぶ用法が起こった。
天平宝字四年(760年)、北上川下流に桃生柵が築かれている。
その時、城輪神(きのわのかみ)の社が設けられた。
城輪神とは「城の守りの神」だ。そして別名を日高見水神といった。
「日高見の川の水神」という意味だ。 つまり日高見川=北上川のことですね。
陸奥国の胆沢郡と江刺郡とをつなぐ渡し場は日上の湊と呼ばれ、日高見の湊が訛ったものでしょう。
ここで出てきた、日高見川の水神を祀る神社は次回UPします。
ちょっと書き足りないのですが、自分も疲れたし、読む方も疲れるでしょうからこの位にしておきます。
日高見や蝦夷やアイヌ語については、また改めて・・・・
何度か書きましたが、蝦夷(えみし)の呼び名は朝廷側が勝手につけた呼び名であって
決して自らを蝦夷と名乗っていたわけではありません。
お酒しか思い浮かびませぬ
自分は自分の住んでるこの土地は昔どうなっていたんだろう?
と知りたいだけなのです。
自分の先祖がどんな生活をしていたのか?
気になってしまうのですね。
自分のことだけで精一杯なのに・・・・そんなことを考えてしまうのです。
明日のことを考えればいいのにね。
蝦夷というのは、確かに蔑称に近いですね。
彼らは自分達を何と呼んでいたのでしょうね。
武光先生の本は 何冊か読んでいます
(知っておきたい 日本の神様とか)。
たまーにTVに出てたりもしますよね☆
これもまた 面白そうな本ですね♪
ハードカバーかな 文庫かな?
今度 本屋で探してみよっと♪
でも、たぶん丹治さんがものすごく詳しそうだから、いいかげんにはコメントできないなー。
山野が拡がる東北は、狩猟時代には国内でも有数の豊かな地域でした。
現在の農業耕作地は湿地帯や荒蕪地でしたから、関東なんかは未開の地のままでした。
当時は首長を中心とした小国の集まりだったと思われます。また古事記ができる以前は文字も持たず、口伝えの文化であることが知られています。
自分を呼称するとすれば、○○一族と言うようにグループの名前を言ってたかも知れませんね。
アテルイとの関係はどうなんでしょう?
時代が違うんでしょう~か?
ご教示ください (^_-)~☆
お休みとれてよかったですね~