日高見神社
(一)社 格 ・・・郷 社 (説明版には、こっしゃ。ごうしゃ)
(二)祭 神 ・・・天照大神・日本武尊・武内宿弥
(三)所在地 ・・・太田字拾貫
(四)祭 日 ・・・四月十九日・九月十九日
「続日本記」によれば、宝亀十一年(780)「百済王俊哲(くだらおうしゅんてつ)等が賊に囲まれ桃生・白河等の郡神(ぐんのかみ)十一の社に祈る」がこの神社の初見で、桓武天皇(かんむ)の延暦二十一年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(じょうかん859)の「陸奥国日高見水神に従四位下に授く」とあるので往古は北上川の河神ではなかったかと旧「桃生村誌」は記している。
後冷泉天皇の康平歴年中(1058~1069)、源義家が貞任討伐の折、神殿を造営して武内宿弥(たけのうちすくね)を併祀し、祭田を寄進した。
社殿は、永正八年(1511)山内首藤、葛西の合戦の折、兵火に罹って焼失し、宝永年間(1704~1710)に再建された。現在の社殿は、拝殿・幣社・本殿とも昭和45年に改築された神明造りである。
延喜式内社奥州百座中・桃生郡六座の一つとして社格を誇り、古くから遠近の信仰を集めてきた日高見神社は、この百社中所在地も明確で郡内六座の筆頭である。
平成6年3月 桃生町教育委員会
雨漏り書斎主人様から戴きました「全国神社名鑑」によると、通称日高見さまと呼ばれ由緒の一部には、武内宿禰の奉言による日高見の国名をとって社号とした。
居ました居ました鳥居の内側に向かい合わせに鎮座しておりました。
まずは、向かって右側阿形です。 これも青麻神社と同じで左足を引いていました。
左、吽形です。 スケールを忘れてしまい、これからは体長も測りたいと思います。
小さいと年代が古い可能性が現在の割合では高いですね。
どうやら文久三亥年九月の文字が見えます。 江戸末期1863年ですね。
参道の坂道の右側に石碑??が・・・
寛政の文字が見えます。1789~1800年 徳川で言うと家斉の時代です。
左側には巨木が・・・・
ご神木とされている欅の木ですが、推定樹齢九百~千年と言われています。
御冷泉天皇の御代に源義家が安倍貞任討伐の際、義家が身を隠して敵の追撃を逃れたことから、身隠しの木、除難の木、厄除けの木と言われています。
この隙間に隠れたのですね。 当時もこうだったかは知りませんがね。
帰り道にこの木の影から老人が現れ、説明してもらえるぞ・・・と、宮司の家らしき建物を覗きましたら、「あ~車ねぇがらいねぇなぁ~、俺の同級生なんだ。」と声をかけてくれました。
聞くところによると、この坂道の参道には、大人三人でやっと囲めるほどの大木の杉の木が並んでいたそうですが、戦争の時に北上川の木材屋が伐採してトラックで持っていってしまったそうです。
ひーさんはキョロキョロ
「日高見宮」になっていますね。
中には、八幡神社と刻まれています。
境内社が二社あるが、説はあるのですが、はっきりしていませんので記しません。
やはり、宮司さんに会えてれば良かった。
左右同じような建物です。
ひーさんは鳥居を見つけチョロチョロ・・・・
どうやら、新しく奉納されたばかりの鳥居のようです。
実は、日高見神社は唐桑半島の方にもありました。以前行った時は気づきませんでしたので次回は訪れたいと思います。 社名は御崎神社のようですが、石柱には日高見神社となっています。
日高見国についてはここをクリック昨日の記事です
(一)社 格 ・・・郷 社 (説明版には、こっしゃ。ごうしゃ)
(二)祭 神 ・・・天照大神・日本武尊・武内宿弥
(三)所在地 ・・・太田字拾貫
(四)祭 日 ・・・四月十九日・九月十九日
「続日本記」によれば、宝亀十一年(780)「百済王俊哲(くだらおうしゅんてつ)等が賊に囲まれ桃生・白河等の郡神(ぐんのかみ)十一の社に祈る」がこの神社の初見で、桓武天皇(かんむ)の延暦二十一年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(じょうかん859)の「陸奥国日高見水神に従四位下に授く」とあるので往古は北上川の河神ではなかったかと旧「桃生村誌」は記している。
後冷泉天皇の康平歴年中(1058~1069)、源義家が貞任討伐の折、神殿を造営して武内宿弥(たけのうちすくね)を併祀し、祭田を寄進した。
社殿は、永正八年(1511)山内首藤、葛西の合戦の折、兵火に罹って焼失し、宝永年間(1704~1710)に再建された。現在の社殿は、拝殿・幣社・本殿とも昭和45年に改築された神明造りである。
延喜式内社奥州百座中・桃生郡六座の一つとして社格を誇り、古くから遠近の信仰を集めてきた日高見神社は、この百社中所在地も明確で郡内六座の筆頭である。
平成6年3月 桃生町教育委員会
雨漏り書斎主人様から戴きました「全国神社名鑑」によると、通称日高見さまと呼ばれ由緒の一部には、武内宿禰の奉言による日高見の国名をとって社号とした。
居ました居ました鳥居の内側に向かい合わせに鎮座しておりました。
まずは、向かって右側阿形です。 これも青麻神社と同じで左足を引いていました。
左、吽形です。 スケールを忘れてしまい、これからは体長も測りたいと思います。
小さいと年代が古い可能性が現在の割合では高いですね。
どうやら文久三亥年九月の文字が見えます。 江戸末期1863年ですね。
参道の坂道の右側に石碑??が・・・
寛政の文字が見えます。1789~1800年 徳川で言うと家斉の時代です。
左側には巨木が・・・・
ご神木とされている欅の木ですが、推定樹齢九百~千年と言われています。
御冷泉天皇の御代に源義家が安倍貞任討伐の際、義家が身を隠して敵の追撃を逃れたことから、身隠しの木、除難の木、厄除けの木と言われています。
この隙間に隠れたのですね。 当時もこうだったかは知りませんがね。
帰り道にこの木の影から老人が現れ、説明してもらえるぞ・・・と、宮司の家らしき建物を覗きましたら、「あ~車ねぇがらいねぇなぁ~、俺の同級生なんだ。」と声をかけてくれました。
聞くところによると、この坂道の参道には、大人三人でやっと囲めるほどの大木の杉の木が並んでいたそうですが、戦争の時に北上川の木材屋が伐採してトラックで持っていってしまったそうです。
ひーさんはキョロキョロ
「日高見宮」になっていますね。
中には、八幡神社と刻まれています。
境内社が二社あるが、説はあるのですが、はっきりしていませんので記しません。
やはり、宮司さんに会えてれば良かった。
左右同じような建物です。
ひーさんは鳥居を見つけチョロチョロ・・・・
どうやら、新しく奉納されたばかりの鳥居のようです。
実は、日高見神社は唐桑半島の方にもありました。以前行った時は気づきませんでしたので次回は訪れたいと思います。 社名は御崎神社のようですが、石柱には日高見神社となっています。
日高見国についてはここをクリック昨日の記事です
古い神社なんですねぇ
日高見国の実在を想像させる社名♪
狛さまも、シッポ部分がシンプルだから相当古いことが判りますネ
150年以上も風雨にさらされてきたせいか、丸くなっています。
代々守ってくださる宮司さんの家系次第ということなのかもしれません。
民俗学や考古学も、圧倒的な大不況の時代にはまったくの不人気の学問です。
日本人の歴史がどんどん消えていってしまっています。
おっとウチの畑も危ないんだった!でも腰が・・・
狛様が居ましたのでホットしましたが、宮司さんがいたらもう少し面白い話が聞けたのかも?
最近、やはり古代イスラエルが気になりますね。
ここの由緒にも出てきますが、百済王は多賀城にも出て来ます。
名前が違うので一族なのでしょう。
朝鮮から日本に逃げてきた王族も気になるところです。
思い切って手術はどう?
東北の特徴でしょ~うか?
でも~
愛嬌があっていいですね (^_-)~☆
あーさんが行く関東地方は由緒ある神社が多くガッチリタイプが目立ちますね。
社殿右側のお社は「五十鈴神社(祭神:天照大御神)」で、
左側が「愛宕神社(祭神:迦具土神、通称「かぐつちさん」)」だそうですよ!
ご教授頂きましてありがとうございます。
近隣の神社が合祀されたのでしょうね。
記事に追記したいと思います。
ありがとうございました。