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さて、現在の祭神 に伊達綱村公が決めたのは前記しましたが、それ以前の中世~近世にかけて当時の人々はどのように考察し記録を残しているのでしょう。
宇比地邇神・須比智邇神
「鹽竈社考」(新井白石:「白石遺文」下)に二神始めて魚鹽の利を利し、以て民用をたらわす。
故に名付くとして「宇比地邇神・須比智邇神」を祭った。
ウヒチニノカミ・スヒチニノカミは、日本神話に登場する神で神代七代の三代目です。
宇比地邇が男神、須比智邇が女神で、日本書紀では陰陽の気が相交じって生まれたので男女一対になっています。
神代七代では二代目までは独神でしたが、三代のこの神から男女の対で現れます。
ただし、真の意味での夫婦神は七代のイザナギ・イザナミが最初となります。
この神は大地が泥や砂でやや形を表した状態を表現した神と考えられますが、具体的なエピソードは無く、祀られている神社は多くありません。
鹽竈六所大明神
祭神 一座、味耜高彦根命・「和漢字三才図会(正徳元年)」・吉野重泰の「式外神名帳」・古河古松軒の「東遊雑記」などがこの説にしたがっています。
また「封内名蹟志」では「多賀神社在、塩竈村 四座之一 今之塩竈一の宮也 郷説には浮島の明神也」
これは、鹽竈神社を多賀神社としていますね。
今の所多賀神社は突然文献から消え、現在多賀城廃寺跡の横に鎮座していますが、以前はどこにあったかわからないとしています。
封内名蹟志は仙台藩佐藤信要(さとうのぶあき)が1741年に21巻を編纂したもの。
塩竈明神(塩竈大明神)の説ですが、平家物語にこんな話があります。
これは、あこやの松の伝説が元になっています。
この話は知っていました。
何故かと云いますと旅行会社時代、ここを通るとガイドさんが話してくれていたからです。
山形自動車道を山形蔵王ICで降り286号を山形に向かうと左側に千歳山が見えてきます。
つまり笹谷峠を越えて山形に入ってからです。
阿古耶の松と阿古耶姫の伝説です。
阿古耶姫は信夫群司中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契りを結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので姫は嘆き悲しみ仏門に入り山の頂上に松を植えて弔ったのが後に阿古耶の松と称された。
平安物語 巻二 「阿古屋之松」
※備前・備中の話から例え話で出羽と陸奥国の話が出てくる・・・・
流罪になった大納言成親(なりちか)卿とその椅子でである丹波の将軍成経(なりつね)にまつわる話。
かつて藤原実方が陸奥(みちのく)の阿古屋の松のありかを尋ねた時には出羽国は陸奥国から分かれていたが元は一国であった。
備前、備中も元は一国であったから十二~三日もかかるはずがない。
これはきっと父の居所を知らせまいと思ってわざとでたらめを言っているのに違いないと思い父の事は何も尋ねなかった。というのがその段のあらすじです。
阿古屋の松に関わる部分・・・・
あづまに聞ゆる出羽陸奥両国も昔は六十六郡が一国にてありけるを、其の時十二郡をさきわかって、出羽国とはたてられたり。
さらば実方中将、奥州へながされたりける時、此国の名所にあこやの松と云所を見ばやとて、国のうちを尋ねありきけるが、尋ねかねて帰りける道に老翁の一人逢いたりければ「やや御辺(ごへん)は、ふるい人とこそ見奉れ。当国の名所にあこやの松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国のうちには候はず。出羽国にや候らん」
「さては御辺しらざりけり、世はすえになって名所をもはやよびうしなひたるにこそ」とてむなしく過ぎんとしければ、老翁中将の神をひかへて「あれは君はみちのくのあこや屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもつて当国の名所あこやの松とは仰せられ候か、それは両国が一国なりし時読待る歌也。十二郡をさきわかって後は、出羽国にや候らん」と申しければ、実方中将も出羽国に越えてこそ阿古屋の松をば見たりけれ。
とあります。注目すべき所は、老翁ですね。
実方中将にあこやの松のありかを教えたのは老翁ですが、実は塩竈明神(塩竈大明神)の化身であったといいます。
平家物語の異本とも言われた、源平盛哀記の中に
「彼老翁ト云ケルハ、塩竈大明神トゾ聞エシ。加様二名所ヲバ注シテ進セタレ共。 赦免ハナカリケリ。」とあります。
平安末期又は鎌倉時代には、「塩竈大明神」と呼ばれていたことがわかります。
鎌倉初期の建暦二年(1212)から建保三年(1225)の間に成る説話集の古事談にも同じような話が見られるようです。
江戸時代に鹽竃神社の縁起に継承されたとしている「春日権験記」「余目記録」は以下のように表している。
「春日権現霊験記繪」延慶二年(1309)
藤原氏の氏神として、興福寺と一体となって政治的・文化的両面での大きな影響力をもった春日大社の効験を集成した絵巻物である。
成立は鎌倉時代後期の1309(延慶2)年、絵師は高階隆兼と、成立年代や絵師の具体的な名までが判明している数少ない例で、歴史的資料としても注目されている。
昔我朝、悪鬼邪神あけくれたたかひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌命、是をあはれみて、陸奥国塩竈浦をあまくだり給。
邪神霊威におそれたてまつりて、或はにげさり、或はしたがひててまつる。そののち常陸国跡の社より鹿島に遷らせ給、~つまり~ 塩竈の浦にあまくだった神は常陸鹿島の祭神、武甕槌命であるとしている。宮内庁
「余目記録」 永正十一年 (1514)
これは、鎌倉・室町時代に奥州留守職であった伊沢家の正史です。
いまだ年号がはじまざる時に候。しほがまの大明神 仁王十四代仲哀天皇御孫、花園新少将が・・・・
あまり意味がないので割愛・・・
つまり、仲哀天皇の御孫が塩竈の明神として現れた・・と言うもの。
老翁と云う人物の姿はどこにでも見えますが、つまり名前が無いわけで、話のこじ付けでどのようにも変化してしまうということですね。
こうして大雑把に見ていても。文献に出てくるのは平安末期~鎌倉以降ですね。
しかたがないことだと思います。
多賀城に国府が築かれますと平安の都から国司達が赴任してまいります。
その時この社(やしろ)のことや文化に触れたのでしょう。
その風景やみちのくの魅力はその者達によって都人に知られることになったのでしょう。
その中に豊富な金や馬・漆などを欲しがる者もいたのでしょう。
国府軍は、戦って奪おうとアテルイを初め平泉の安倍貞任・宗任または奥州藤原との戦い起こったのです。
彼らは俘囚と呼ばれ、つまり朝廷に逆らう蝦夷のことですね。
話が飛びましたが、今回はここまで・・難しい話は精神的によくありませんね疲れましたので休憩。
次回は七曲坂について書きたいと思います。 今度は写真が豊富ですよ。
しおがまさまの不思議3
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「鹽竈社考」(新井白石:「白石遺文」下)に二神始めて魚鹽の利を利し、以て民用をたらわす。
故に名付くとして「宇比地邇神・須比智邇神」を祭った。
ウヒチニノカミ・スヒチニノカミは、日本神話に登場する神で神代七代の三代目です。
宇比地邇が男神、須比智邇が女神で、日本書紀では陰陽の気が相交じって生まれたので男女一対になっています。
神代七代では二代目までは独神でしたが、三代のこの神から男女の対で現れます。
ただし、真の意味での夫婦神は七代のイザナギ・イザナミが最初となります。
この神は大地が泥や砂でやや形を表した状態を表現した神と考えられますが、具体的なエピソードは無く、祀られている神社は多くありません。
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祭神 一座、味耜高彦根命・「和漢字三才図会(正徳元年)」・吉野重泰の「式外神名帳」・古河古松軒の「東遊雑記」などがこの説にしたがっています。
また「封内名蹟志」では「多賀神社在、塩竈村 四座之一 今之塩竈一の宮也 郷説には浮島の明神也」
これは、鹽竈神社を多賀神社としていますね。
今の所多賀神社は突然文献から消え、現在多賀城廃寺跡の横に鎮座していますが、以前はどこにあったかわからないとしています。
封内名蹟志は仙台藩佐藤信要(さとうのぶあき)が1741年に21巻を編纂したもの。
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これは、あこやの松の伝説が元になっています。
この話は知っていました。
何故かと云いますと旅行会社時代、ここを通るとガイドさんが話してくれていたからです。
山形自動車道を山形蔵王ICで降り286号を山形に向かうと左側に千歳山が見えてきます。
つまり笹谷峠を越えて山形に入ってからです。
阿古耶の松と阿古耶姫の伝説です。
阿古耶姫は信夫群司中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契りを結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので姫は嘆き悲しみ仏門に入り山の頂上に松を植えて弔ったのが後に阿古耶の松と称された。
平安物語 巻二 「阿古屋之松」
※備前・備中の話から例え話で出羽と陸奥国の話が出てくる・・・・
流罪になった大納言成親(なりちか)卿とその椅子でである丹波の将軍成経(なりつね)にまつわる話。
かつて藤原実方が陸奥(みちのく)の阿古屋の松のありかを尋ねた時には出羽国は陸奥国から分かれていたが元は一国であった。
備前、備中も元は一国であったから十二~三日もかかるはずがない。
これはきっと父の居所を知らせまいと思ってわざとでたらめを言っているのに違いないと思い父の事は何も尋ねなかった。というのがその段のあらすじです。
阿古屋の松に関わる部分・・・・
あづまに聞ゆる出羽陸奥両国も昔は六十六郡が一国にてありけるを、其の時十二郡をさきわかって、出羽国とはたてられたり。
さらば実方中将、奥州へながされたりける時、此国の名所にあこやの松と云所を見ばやとて、国のうちを尋ねありきけるが、尋ねかねて帰りける道に老翁の一人逢いたりければ「やや御辺(ごへん)は、ふるい人とこそ見奉れ。当国の名所にあこやの松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国のうちには候はず。出羽国にや候らん」
「さては御辺しらざりけり、世はすえになって名所をもはやよびうしなひたるにこそ」とてむなしく過ぎんとしければ、老翁中将の神をひかへて「あれは君はみちのくのあこや屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもつて当国の名所あこやの松とは仰せられ候か、それは両国が一国なりし時読待る歌也。十二郡をさきわかって後は、出羽国にや候らん」と申しければ、実方中将も出羽国に越えてこそ阿古屋の松をば見たりけれ。
とあります。注目すべき所は、老翁ですね。
実方中将にあこやの松のありかを教えたのは老翁ですが、実は塩竈明神(塩竈大明神)の化身であったといいます。
平家物語の異本とも言われた、源平盛哀記の中に
「彼老翁ト云ケルハ、塩竈大明神トゾ聞エシ。加様二名所ヲバ注シテ進セタレ共。 赦免ハナカリケリ。」とあります。
平安末期又は鎌倉時代には、「塩竈大明神」と呼ばれていたことがわかります。
鎌倉初期の建暦二年(1212)から建保三年(1225)の間に成る説話集の古事談にも同じような話が見られるようです。
江戸時代に鹽竃神社の縁起に継承されたとしている「春日権験記」「余目記録」は以下のように表している。
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藤原氏の氏神として、興福寺と一体となって政治的・文化的両面での大きな影響力をもった春日大社の効験を集成した絵巻物である。
成立は鎌倉時代後期の1309(延慶2)年、絵師は高階隆兼と、成立年代や絵師の具体的な名までが判明している数少ない例で、歴史的資料としても注目されている。
昔我朝、悪鬼邪神あけくれたたかひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌命、是をあはれみて、陸奥国塩竈浦をあまくだり給。
邪神霊威におそれたてまつりて、或はにげさり、或はしたがひててまつる。そののち常陸国跡の社より鹿島に遷らせ給、~つまり~ 塩竈の浦にあまくだった神は常陸鹿島の祭神、武甕槌命であるとしている。宮内庁
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これは、鎌倉・室町時代に奥州留守職であった伊沢家の正史です。
いまだ年号がはじまざる時に候。しほがまの大明神 仁王十四代仲哀天皇御孫、花園新少将が・・・・
あまり意味がないので割愛・・・
つまり、仲哀天皇の御孫が塩竈の明神として現れた・・と言うもの。
老翁と云う人物の姿はどこにでも見えますが、つまり名前が無いわけで、話のこじ付けでどのようにも変化してしまうということですね。
こうして大雑把に見ていても。文献に出てくるのは平安末期~鎌倉以降ですね。
しかたがないことだと思います。
多賀城に国府が築かれますと平安の都から国司達が赴任してまいります。
その時この社(やしろ)のことや文化に触れたのでしょう。
その風景やみちのくの魅力はその者達によって都人に知られることになったのでしょう。
その中に豊富な金や馬・漆などを欲しがる者もいたのでしょう。
国府軍は、戦って奪おうとアテルイを初め平泉の安倍貞任・宗任または奥州藤原との戦い起こったのです。
彼らは俘囚と呼ばれ、つまり朝廷に逆らう蝦夷のことですね。
話が飛びましたが、今回はここまで・・難しい話は精神的によくありませんね疲れましたので休憩。
次回は七曲坂について書きたいと思います。 今度は写真が豊富ですよ。
しおがまさまの不思議3
脱帽です
拙にも興味深い部門なので、引き続き
ご案内を♪
嘘も書けませんしね。
テダニィ コマオヨ <(_ _)>
↑以前から妄想していましたが、上記を読んでヤッパリと思いました。私としては大発見です。
そうそう、わりと最近??判った事らしいのですが、日光・東照宮と仙台・瑞鳳殿の飾りに、これまで龍と思われていた、神獣が彫られているそうです。
一つは「蜃」。
そしてもう一つの神獣の名前は「息」。
「イキ」と読むのか「ソク」と読むのかは不明と言うことですが、私は「オキ」と読むと思います。
塩釜神社にももしかしたら「息」が彫刻されているかも。いや、塩釜神社にこそあってしかるべきだと思います。
ではでは。
蛟(みずち)は、本来は、竜の一種を表す漢字である。
中国の伝説上の生物、日本では「みずち」の訓が当てられたが、ミズチ(古語ではミツチ)は本来は、八岐大蛇(八岐大蛇は川の神とされることがある)に代表される日本の水神、蛇神、龍蛇神である。ミズチ(ミツチ)のミは水であり、ツ(転訛後にズとなる)は連体修飾をつくる上代の格助詞で現代の格助詞「の」に相当し、チは霊的存在・霊力の意であるとされる。すなわちミズチ(ミツチ)とは「水の霊的存在(霊力)」を意味する。このような語源の例は雷(いかずち)が厳(イカ)つ霊(チ)、カグツチ(「迦具土」と当てられることもある)がかぐ(輝く)つ霊(チ)に由来するように、記紀の神々や神霊の名に広く見られる。
「蜃」と表記されることもある
『述異記』には「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応龍となる」とある。
瑞鵬殿の瓦には竜の瓦がありましたが、そのことですかね?
瑞鵬殿は写真を撮り直しに行こうと思っていました。
今度行ったら探してきます。
日光には狛犬に似た「恙(つつが)」の写真を撮りに行きたいと考えてました。
そろそろ手短に終わらせようと思ってました。
しかし、また難題を投げかけましたね。
伊豆佐・・行ってきました。近寄れなくて写真を撮って逃げるように帰ってきました。
あそこは駄目ですね。
違った気を感じましたよ。
云ってる意味がわかりました。
帰ってから調べたのですが、なるほどと思いましたよ。