七曲坂 この坂こそ最古の参道とされています。
昔の所謂鹽竈神社に参拝する道はここだけだったのです。
表参道の長い階段も、女坂と呼ばれる裏参道も近世代の参道と云うことになりますね。
この神社の記録が無いのですから当然その形成も不鮮明ではありますが、神社の創建と同時期の奈良時代頃と推測されています。
私の考えでは、鹽竈神社として考えれば奈良かも知れませんが、それ以前の古代から神聖な聖域として何らかの古代の神が祀られていたのでしょう。
下記に示す地図からも七曲坂しか鹽竈神社への道はありません。
この参道の下は、江尻と呼ばれ古代中世にかけて海が入り込み、入江の最奥部をなしていたことから江尻と呼ばれたようです。
古くはこの辺りまで船が入り込み停泊していたことでしょう。
ここから南の丘を登る道は、古代多賀城(国府)への古道ですが、国府:多賀城からの道順は、多賀城から香津(国府津ー古代市街地/第一小学校周辺)へ至る東海道を鳥居原(古代の市場/塩釜高校校庭)で江尻へ下り、入江となっていた祓川(はらいがわ)を舟で渡りこの坂への道筋になっていた。
祓川には鎌倉時代に「御臺の橋(おだいのはし)」架けられ、江戸時代には橋板の間から水面が見える透かし橋造りで、一般の人馬の通行は禁じられていました。
祓川は現在道路の下に埋められています。
またここから、地図に見れる上野原(古代の野菜採取場)や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともなっていたようです。
それから、この坂下の四方石(よもせき)辺りは道を作る際に排出した土砂を用いて海面を埋め立て造成されたもので、神社創設以来の神官阿部家が江戸時代初期まで約一千年間屋敷を構え参道口を守っていたと伝えられています。
一千年も同じ地に居たら親戚も増えるでしょう。
阿部家がこの街に多いのもうなづけますね。
享保十六年(1731)から近年までは、御神輿の帰る道筋となっていたようです。
平安末から鎌倉初期
国府津を抜け国府多賀城への道
地図にある母子石は以前記事にしております。母子石の伝説
古代の塩竈地方
塩竈浦
こんな感じですが、地元の人なら大体わかりますね。
さて、現在の江尻・・つまり七曲坂の入口のところです。
しるべの石 「奥塩地名集」では塩竈九名石の一つになっています。
東 なゝまがり水戸
南 御だい乃はし
北 なゝまがり坂
西 御古しかけ石 と刻まれています。
ここが塩竈の中心地だったのかも知れませんね。
突き当たりを左に曲がると七曲坂です。
今は、道路になっていますが、この道の下に祓川が流れていたのです。
完全に塞がれたのは最近のことです。 以前は一方通行で今の半分が道路で半分が川でした。
おさんこ茶屋です。地元では有名。
七曲坂の入口の横に四方跡公園ですが、鹽竈神社の左宮一禰宜であった阿部安太夫家が約千年もの間存続した場所とされています。
ここに塩土老翁神が座って休まれたと云われる「おこしかけの石」があると言い伝えられてきました。
江戸時代の古文書には「影向石(ようこうせき)」や「神憩石(しんけいせき)」とみられます。
この猿田彦の石碑の前にある六角形石がそれであると云われていますが、異説ではこの下に大きな石が埋まっているというせつもあります。
でも、この地は道を作る時に出た土で埋め立てした土地ですから、その後に塩土老翁神が現れるのは時代が食い違います。
神社が出来てから神が来るのは変ですよね。
やはり、鎌倉~江戸時期に考えられた話なのかも知れません。
他にも石碑があります。
さて、この上の鹽竈神社の境内ですが次回にさせていただきます。
地図は「鹽竈神社」押木耿介著から引用。
しおがまさまの不思議4
昔の所謂鹽竈神社に参拝する道はここだけだったのです。
表参道の長い階段も、女坂と呼ばれる裏参道も近世代の参道と云うことになりますね。
この神社の記録が無いのですから当然その形成も不鮮明ではありますが、神社の創建と同時期の奈良時代頃と推測されています。
私の考えでは、鹽竈神社として考えれば奈良かも知れませんが、それ以前の古代から神聖な聖域として何らかの古代の神が祀られていたのでしょう。
下記に示す地図からも七曲坂しか鹽竈神社への道はありません。
この参道の下は、江尻と呼ばれ古代中世にかけて海が入り込み、入江の最奥部をなしていたことから江尻と呼ばれたようです。
古くはこの辺りまで船が入り込み停泊していたことでしょう。
ここから南の丘を登る道は、古代多賀城(国府)への古道ですが、国府:多賀城からの道順は、多賀城から香津(国府津ー古代市街地/第一小学校周辺)へ至る東海道を鳥居原(古代の市場/塩釜高校校庭)で江尻へ下り、入江となっていた祓川(はらいがわ)を舟で渡りこの坂への道筋になっていた。
祓川には鎌倉時代に「御臺の橋(おだいのはし)」架けられ、江戸時代には橋板の間から水面が見える透かし橋造りで、一般の人馬の通行は禁じられていました。
祓川は現在道路の下に埋められています。
またここから、地図に見れる上野原(古代の野菜採取場)や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともなっていたようです。
それから、この坂下の四方石(よもせき)辺りは道を作る際に排出した土砂を用いて海面を埋め立て造成されたもので、神社創設以来の神官阿部家が江戸時代初期まで約一千年間屋敷を構え参道口を守っていたと伝えられています。
一千年も同じ地に居たら親戚も増えるでしょう。
阿部家がこの街に多いのもうなづけますね。
享保十六年(1731)から近年までは、御神輿の帰る道筋となっていたようです。
平安末から鎌倉初期
国府津を抜け国府多賀城への道
地図にある母子石は以前記事にしております。母子石の伝説
古代の塩竈地方
塩竈浦
こんな感じですが、地元の人なら大体わかりますね。
さて、現在の江尻・・つまり七曲坂の入口のところです。
しるべの石 「奥塩地名集」では塩竈九名石の一つになっています。
東 なゝまがり水戸
南 御だい乃はし
北 なゝまがり坂
西 御古しかけ石 と刻まれています。
ここが塩竈の中心地だったのかも知れませんね。
突き当たりを左に曲がると七曲坂です。
今は、道路になっていますが、この道の下に祓川が流れていたのです。
完全に塞がれたのは最近のことです。 以前は一方通行で今の半分が道路で半分が川でした。
おさんこ茶屋です。地元では有名。
七曲坂の入口の横に四方跡公園ですが、鹽竈神社の左宮一禰宜であった阿部安太夫家が約千年もの間存続した場所とされています。
ここに塩土老翁神が座って休まれたと云われる「おこしかけの石」があると言い伝えられてきました。
江戸時代の古文書には「影向石(ようこうせき)」や「神憩石(しんけいせき)」とみられます。
この猿田彦の石碑の前にある六角形石がそれであると云われていますが、異説ではこの下に大きな石が埋まっているというせつもあります。
でも、この地は道を作る時に出た土で埋め立てした土地ですから、その後に塩土老翁神が現れるのは時代が食い違います。
神社が出来てから神が来るのは変ですよね。
やはり、鎌倉~江戸時期に考えられた話なのかも知れません。
他にも石碑があります。
さて、この上の鹽竈神社の境内ですが次回にさせていただきます。
地図は「鹽竈神社」押木耿介著から引用。
しおがまさまの不思議4
祓川が、完全に埋没して、その面影は無くなりました。今だ、埋められた道路に橋が架かっております。江尻は海の末。丁度、川との境目に使われる地名と聞きました。(各地にありますが)千賀浦の端と考えれば、頷けます。
七曲りは理にかなった参道と思ってました。
船からすぐに坂道を上がり、宮まで行くことが出来ます。やはり、ここが主参道だということですね。
多賀城の方向から海を見て、それは鬼門にあたります。鳥居(原)はそれを抑える為の風水だったのではないかと、これは自身の推論です。
とは言うものの・・・悪さばかりしていた場所の写真が満載でした。
多賀城がらみでは「鼻節神社」ですが、この写真にる「猿田彦大神」の謂れを知らないのです。道祖神ですから。
ひーさんは何かご存知でしょうか。
猿田彦についてはもう少しお待ち下さい。
探したいものがありますので。
鼻節神社の祭神でもありますが、一話で書いたと思いますが、岐神と同神とされています。
こらがややこしいわけですね。
岐神=翁神や鹽土翁など曖昧です
クナトとして=地蔵も説の一つですが、基本的に海神の性格と導く性格があります。
祭りの時に見られる、神輿を積んだ御座船を案内しているのが猿田彦です。
神話でも瓊瓊杵尊を案内しています。
それと重ねると、鹽土翁を導いたとも考えられます。 まぁ素人の考えですからその辺は宜しくです。
書物が引越しの時に他の所に保管してあり出せない状態です。
そうそう、鹽竈神社は六所大明神と云われた時鼻節神社もその一つとされています。
いずれにせよ。最終的には結論が出ないわけです。
謎の多いしおがまさまです。
意味合いもよく考えないと
解釈を間違えてしまう可能性もありますね
すみません。
地元の今の状態を知っている人じゃないと見比べられませんからね。
3.11前ならここまで津波が来るなんて、"ふざけてる"としか思わないでしょう。
しかも、発表されている海に流された放射能図によれば、赤い表示の一番の濃度の放射能が、宮城県の湾曲に沿って、牡鹿半島まで収まるように停滞しているようです。これはかなり深刻です。
もう釣りどころではないと思います(花淵浜で釣りしていた人がいましたが・・・)。
それと私も赤い押木宮司の塩釜神社の本を持っていましたが、殆ど読んでおらず、地震で全て片付けてしまいました。
どこに行ったのやら・・・・。
原発事故直後は、みんな外に出て水を汲みに行ったり、状況を見に行ったり、職場に向ったり・・・
あの頃一番酷かったのかも?
「直ちに問題ない!」と当時の官房長官が話していました。何も知らずにいたのは日本の中枢でした。
もっとしっかりして欲しいものです。
そうそう、江尻の先には、記事にしているのですが浪切不動尊があります。貞観津波でもそこまで来たのでしょうか?