このマップは、今回参拝したところです。
外宮に入ろうかと思いましたが、「伊勢」の名の由来?も気になるところ。
3の二見興玉でも神様にちょっと触れましたが、神道に興味が無くても、日本人の多くが人生の成長過程の中で神様に関わりを持ちながら生きている事がわかります。
出産、いや出産の前に母親が安産祈願をしたり、子宝の願いをしているかも知れませんね。
そして、出産してお七夜、お宮参り、食い初め(百日祝い)、七五三、結婚、厄年、正月、還暦などなど、家を建てるときには地鎮祭もしました。
一つの区切り、または気持ちの切り替えとして知らないうちに神道に触れているのかも知れません。
我が家では、毎年暮れになると神社から神主さんに来ていただいて家の各部屋をお祓いして貰います。
家族が次々とインフルエンザなどで病に侵された時もお祓いをしていただきます。
お祓いをして頂くと、その後は気持ちが軽くなるんですよ。
一生に一度はお伊勢参りといいますし、行かずして語るべかざる!ですかね?
今でも参拝者は途切れることはありませんが、江戸期には現在よりもっと多くの人がお参りに来ていたようです。
歌川広重:「伊勢神宮:宮川渡し」
さて「伊勢」ですが皆さんはどの神様を思い浮かべますか?
当然「天照大御神」でしょうね。
この地の地名にもなった「伊勢津彦神」という神様がいます。
この神は出雲系の国津神で出雲建子命(いずもたけこのみこと)と呼ばれこの地を治めていたことに由来します。
伊勢津彦神のいわれは「伊勢国風土記」などの書物に見られます。
伊勢神宮に関係するところでは、このような話が記されています。
「神武天皇」が天日別命(あめのひわけのみこと)に勅命として「はるか天津のほう(日の出の方角・東)に国がある。
ただちにその国を平らげて欲しい。」といい天日別命は命に従い東に数百里ほど進軍する。
すると一つの村があり神様がいて名を伊勢津彦といった。
天日別命は「汝(なれ)の国を天孫に献上してはどうだ」と言う。
伊勢津彦は『我はこの国を拓き長靴統治している。その命令には、従えない』と答えた。
天日別命はならば兵を用いてこの神を殺すしかないと考える。
その動向を察した伊勢津彦は、これを恐れ「我が国はすべてを天孫に奉納し我もこの国を去ることにします。」と言った。
天日別命は、これを信じず「何をもってして汝がこの国を去ったという証とするのだ」と問うと「今夜、八風(大風)を起こして、海水を巻き上げ波浪に乗り東の方へ向かいます。これが退去の証です。」と答えた。
天日別命が兵の準備をしたまま事実かどうかを確認していると夜更けになって大風が四方から巻き起こり、波を打ち上げて光のように輝き、海も陸も昼間のように明るくなって、ついにこの神は波に乗って東の方へと去った。
古語の「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なり」とは、つまりこれを指している。
天日別命が凱旋して天皇にこのことを報告すると、天皇は大いに喜び「その平定した国の名は治めていた国津神の名を取りて伊勢と呼ぶようにしよう」と詔給(みことのりたま)う。
つまり、伊勢の地方はこの国を治めていた伊勢津彦神の名からついたことがわかりますね。
「日本書紀」にある
天照大御神が倭姫に語る「これにある神風の伊勢国は常世の波が幾重にも寄せる国だ。辺鄙な国であるが美しい国であるからこの国に鎮座することを欲する。」という話も伊勢津彦神が去る際に巻き起こした常世の重波(しまなみ)に由来する。
「倭姫に語る」とあるがこれは倭姫が天照大御神の鎮座する場所を探す役目、御杖代(天照の杖の代わり)になり、諸国を巡幸した。また伊勢津彦は、諏訪大明神の4柱の一つとなる説もあります。
倭姫については、この後『瀧原宮』『倭姫宮』で再度登場します。
外宮に入ろうかと思いましたが、「伊勢」の名の由来?も気になるところ。
3の二見興玉でも神様にちょっと触れましたが、神道に興味が無くても、日本人の多くが人生の成長過程の中で神様に関わりを持ちながら生きている事がわかります。
出産、いや出産の前に母親が安産祈願をしたり、子宝の願いをしているかも知れませんね。
そして、出産してお七夜、お宮参り、食い初め(百日祝い)、七五三、結婚、厄年、正月、還暦などなど、家を建てるときには地鎮祭もしました。
一つの区切り、または気持ちの切り替えとして知らないうちに神道に触れているのかも知れません。
我が家では、毎年暮れになると神社から神主さんに来ていただいて家の各部屋をお祓いして貰います。
家族が次々とインフルエンザなどで病に侵された時もお祓いをしていただきます。
お祓いをして頂くと、その後は気持ちが軽くなるんですよ。
一生に一度はお伊勢参りといいますし、行かずして語るべかざる!ですかね?
今でも参拝者は途切れることはありませんが、江戸期には現在よりもっと多くの人がお参りに来ていたようです。
歌川広重:「伊勢神宮:宮川渡し」
さて「伊勢」ですが皆さんはどの神様を思い浮かべますか?
当然「天照大御神」でしょうね。
この地の地名にもなった「伊勢津彦神」という神様がいます。
この神は出雲系の国津神で出雲建子命(いずもたけこのみこと)と呼ばれこの地を治めていたことに由来します。
伊勢津彦神のいわれは「伊勢国風土記」などの書物に見られます。
伊勢神宮に関係するところでは、このような話が記されています。
「神武天皇」が天日別命(あめのひわけのみこと)に勅命として「はるか天津のほう(日の出の方角・東)に国がある。
ただちにその国を平らげて欲しい。」といい天日別命は命に従い東に数百里ほど進軍する。
すると一つの村があり神様がいて名を伊勢津彦といった。
天日別命は「汝(なれ)の国を天孫に献上してはどうだ」と言う。
伊勢津彦は『我はこの国を拓き長靴統治している。その命令には、従えない』と答えた。
天日別命はならば兵を用いてこの神を殺すしかないと考える。
その動向を察した伊勢津彦は、これを恐れ「我が国はすべてを天孫に奉納し我もこの国を去ることにします。」と言った。
天日別命は、これを信じず「何をもってして汝がこの国を去ったという証とするのだ」と問うと「今夜、八風(大風)を起こして、海水を巻き上げ波浪に乗り東の方へ向かいます。これが退去の証です。」と答えた。
天日別命が兵の準備をしたまま事実かどうかを確認していると夜更けになって大風が四方から巻き起こり、波を打ち上げて光のように輝き、海も陸も昼間のように明るくなって、ついにこの神は波に乗って東の方へと去った。
古語の「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なり」とは、つまりこれを指している。
天日別命が凱旋して天皇にこのことを報告すると、天皇は大いに喜び「その平定した国の名は治めていた国津神の名を取りて伊勢と呼ぶようにしよう」と詔給(みことのりたま)う。
つまり、伊勢の地方はこの国を治めていた伊勢津彦神の名からついたことがわかりますね。
「日本書紀」にある
天照大御神が倭姫に語る「これにある神風の伊勢国は常世の波が幾重にも寄せる国だ。辺鄙な国であるが美しい国であるからこの国に鎮座することを欲する。」という話も伊勢津彦神が去る際に巻き起こした常世の重波(しまなみ)に由来する。
「倭姫に語る」とあるがこれは倭姫が天照大御神の鎮座する場所を探す役目、御杖代(天照の杖の代わり)になり、諸国を巡幸した。また伊勢津彦は、諏訪大明神の4柱の一つとなる説もあります。
倭姫については、この後『瀧原宮』『倭姫宮』で再度登場します。
そうだも伊勢に行って気になったのが、海幸の信仰がありそうな事です。釣り針をなくされちゃった方を大事にしているので海の民への敬意もあるように思います。干し鮑とか塩とか海の恵みでもてなされたのもありますしね。9642
アラハバキの本は以前から持っていた本ですが、埼玉の氷川神社についても多く書かれていたので、読み直しています。やはり自分の創造どおりだったところもあり納得していました。それは、氷川神社のページと別に伊勢が終ったらまとめようと思います。
脳みそがオーバーヒートしそうです。仕事もすごい状況で残業が続き、今夜で明日は休みです。
31日の24時間(仮眠あり)終って、1日の朝に帰ってきて、同日18時に出勤して2日(今日)の朝帰ってきました。そしてまた今日のPM2:30に出勤して24:30に終了で帰ってきます。自宅には深夜1時の帰りです。 まぁこんな勤務も珍しくなくちょくちょくあります。
基本は24時間がベースですから、誰かが休むと穴埋めに誰かが犠牲になるわけです。
仕方がないので働きますよ。
建御名方さんの息子? 何かに出ていたかな?
気にしておきます。