前回の記事偽書「東日流外三郡誌」の正体1
大事なことを忘れていました。「東日流外三郡誌」とは何なのか話しをていませんでした。
和田喜八郎氏によって公開された文献で「和田家文書」とも呼ばれています。その一部が「東日流外三郡誌」です。
内容ですがその昔・・・・
神武天皇の東征によって大和を追われた長髄彦の一族がアソベ族、ツボケ族などと呼ばれた津軽の原住民を平定してアラハバキ王国なるものを建て、大和朝廷に抵抗し続けたとするものです。
このアラハバキの子孫は中世の安倍氏、近世の秋田市となり、現在も残っているという。
このようにみると一貫したストーリーがあるように見えますが、和田家文書は短い文章の集積でありその中には内容の重複や前後の矛盾が少なくない。
また、文体は稚拙で誤字・脱字も多く、その書体は流行した御家流よりも現代人が筆ペンで書いた文字に近い。
また、和田家文書は安倍氏、秋田家の伝承を記したもののはずなのだが素性の確かな安倍氏、秋田家の家系に伝わらない「独自の伝承」が余りにも多すぎるのである。
寛政~文政年間、三春藩主の家臣であった秋田孝季(たかすえ)なる人物が和田氏の祖先・和田長三郎吉次とともにまとめた物だという由来を主張している。
つまり、これが本当なら近世の古記録・古文書の類として、独自の史料価値があるということになるわけである。
ただし、秋田孝季、和田長三郎吉次なる人物は和田家文書の中にしか登場せず、その実在を裏付ける証拠はない。
平成六年秋田孝季が神社に奉納した江戸時代の額が発見されたというニュースが共同通信社から配信されたこともあったが、同社は間もなく報道内容を否定する第二報を出し、その誤報であることを認めた。(【季刊邪馬台国】五五号、梓書院、平成六年十二月、参照)
和田家文書の現行テキストは明治から昭和初期にかけての写本とされる。
和田氏の主張によると、昭和二十三年頃、自家の天井裏に隠されていた和田家文書を見つけたということだが、その発見談は和田氏の文章ごとに二転三転しており定まっていない。
その家が前記事の写真である。
東北は長い間、中央の差別史観の下に置かれていた。
蝦夷を人倫を知らぬ獣ときめつけ、明治維新の際には朝廷に弓を引いた朝敵として扱い、烙印を押されたのが東北であった。 東北の人々は辺境にあって蔑視に耐え、自分たちを鼓舞激励する書物の出現を待望してきた。
そこで、東北の名誉と誇りを回復したいと願う人々にとって、「東日流外三郡誌」の出現は、早天の慈雨のごときものであったことは、充分に推察できる。
(上記の文については私も同感です。確かに当時の東北人は朝廷からはこの知識のない獣扱いでした。東北出身の古代史ファンにとってこの本は朝廷を見返してやったと思ったことでしょう。)
そうした東北人の心情をたくみに利用して、次から次に偽書を流布して人々を手玉にとった悪徳の行為を許すことはできないが、それに踊らされた善人たちについては、一片の同情を禁じ得ない。
しかし、虚偽を真実とすることは不可能である。
「だましの法則」から
千坂さん談話・・・・・・千坂嵃峰(ちさか・げんぽう)宮城県生まれ・東北大学文学部卒・聖和学園短大教授
北上川流域の歴史と文化を考える会、同流域地名研究会・両会長
珍しいものにひかれるという点でマスコミの果たす役割が問題になると思うのです。
例えばTBSで「東日流外三郡誌」を取り上げたことがありました。「世界不思議発見」という番組でこれをやったことがあるんですよ。
TBSの場合は、その後、「東日流外三郡誌」の問題を訂正したので、良心的な方だったのかも知れませが、やはりマスコミが、珍しいというだけで確かめもせず報道するという姿勢は、問題ではないでしょうか。
浅見・・・・・浅見定雄(あさみ・さだお)山梨県生まれ・東京神学大学博士課程修了・ハーバード大学神学部博士課程卒業
東北学院大学文学部教授
テレビに取り上げたというだけで権威があるように思ってしまう。 権威の法則が働くんです。
信じたい人が騙されやすい
千坂 「東日流外三郡誌」も同じですね。 先だって青森県へ行きました。 最初に巻き込まれたというか、偽の古文書を発行する時に、引き込まれて、編集なんかのお手伝いをしたいという人に会ってきたんです。 その人たちの反省の弁を紹介して、彼らも被害者だというそういう形で紹介しようと思っているんですが、実際には加害者の面もあるんです。 やはり、今言ってたようにですね。コミットメントの法則に当てはまるんですよ。
その後、青森県の市浦村・岩手県の衣川村・秋田県の田沢湖町などもだまされたんです。
最初希少価値のある古文書ということで「東日流外三郡誌」が地域の有力者のところに流れて来て、次に来るのが、古物。
刀ですとか、仏像ですとか、当初は和田さんが差し上げる、相手が貰うという形なんですけれども、いつの間にか、それに対して対価を差し上げなければいけないだろうみたいなことになってくる。
自分で買っている分についてはまだいいんですけれども、それを誰かにまた斡旋するようになり、そしてほかの知人にも紹介しちゃうとコミットメントが成立する。 コミットメント="commitment" 約束・義務・責任・献身・傾倒・・・
そこから自分はもう抜けられない。 だから、今ではだまされたと思いつつも、公言できないでいるという構造になっているんです。
浅見 若い娘さんが結婚詐欺師にひっかかる心理も同じです。 信じたいわけですよ。
信じたい人を騙すくらい簡単なことはないのです。
衣川村でも一関市でも結構ですが、信じたがっている人が相手なら、私だって偽書を作って騙しに行けます。
まず「希少性」で売り込んで、次にハバード大学の博士ですとか、テレビにもよく出ますとか、「権威の法則」で信じさせちゃえば、あとはもう自分から信じたがってきますから・・・・・・
自己過信は騙されやすい
千坂 東北人にはある種のコンプレックスがあり、歴史に関心のある人の中には、自分たちの郷土の誇れるものを求めるあまり、古代東北の栄光を記した「東日流外三郡誌」のよって培った情報を、何の裏付けもないままに主張し発表したりします。
それを読んだ一般の人がまた影響を受けて、嘘の歴史が出来上がってしまう。
そのようなことをそのままにしておいては、真の地域づくり妨げになるというのが、私の考えです。
「東日流外三郡誌」を見れば、いかにも教養のない者が書いたということがわかるはずですが、こんなに広まった原因を作った一人である古田武彦氏について、お聞きしていきたいと思います。
まず、斎藤さんが一番初めに「東日流外三郡誌」と関わったきっかけからお話し願います。
※古田武彦氏について前ページに記載しています。
斎藤・・・・・斎藤隆一(さいとう・りゅういち)福島県うまれ・東北の民俗と歴史を研究・市民の古代研究会会員
著書に「歴史を変えた偽書」「東日流外三郡誌」偽書の証明など多数
わたしも東北の民俗と歴史に興味があって、いろいろと地方の伝承などを調べていたので「東日流外三郡誌」についても、当時話題になっていて注目しておりました。
それで、昭和六十一年頃、北方新社刊の六巻本を購入して読んでみると、ひとつ私の目を引いた箇所がありました。
それは『安倍大観記』という題の中の「神武軍に追われて、傷を負った長髄彦が東国へ逃れ、兄の安日彦(あびびこ)が越国へ逃れて、出会ったところが会津という内容でした。
千坂 「古事記」にも同じような説話がありますね。
斎藤 崇神天皇の、いわゆる四道将軍派遣の説話ですが、「古事記」では「大毘古命が高志国へ、建沼河別命(たけぬかわわけののみこと)が東に行って、会津で出会った」という内容になっていて、こちらは親子ですが、当初わたしは、「古事記」説話を知っていながら、長髄彦説話を新たに創作するというような偽作は、通常な精神では、まずやらないのではないかと思い、長髄彦説話のほうが原型ではないかと思いかけた時期もありました。
・・・・・・・・・・・・「東日流外三郡誌」を含む「和田家文書」の大部分は、偽作にせよ、やはり、その核となる本物はあったんじゃないかと思っている人が多いのです。
ところが調べてみると「和田家文書群」だけにみられる稚拙な創作部分を除けば、その核となるのは、「古事記」だったり、「陸奥話記」だったり、あるいは古典だけでなく、昔の地方出版物や現在の研究者だったりするので、かえってオリジナルな原本の存在は考えにくいんです。
千坂 本当にあるなら、三年も前に原本を出すと言っていながら、いまだにでていないというのも、おかしなものですね。
斎藤 原本があるのなら何をおいても先に出すべきですが、出さない。 つまり、現代の偽作物なので原本が無いと思うしか有りません。
しかし、三内丸山遺跡なんかが記されている「大正写本」「昭和写本」といった新資料は、相変わらず和田喜八郎さんと同じ筆跡で次々と出てくるのですから偽作は明らかなわけです。
だからといって、今さら原本を偽造するとしても、江戸時代の用語、筆法、文法、紙質、墨質などをきちんとしなければなりませんので、まず、不可能でしょう。いくら古田さんらが「原本さえ出れば」と言っても、もう「東日流外三郡誌」の江戸期原本の出現はありえないと思いますね。
千坂 「東日流外三郡誌」は、漢籍や仏教の知識のない人物が書いた、非常に杜撰な内容ですから、ちょっとその方面の知識のある人が見れば、すぐに偽作とわかるシロモノです。
歴史史料としては使えない
千坂 斎藤さんが「東日流外三郡誌」をダメだと思ったのは、どんなことからでしたか。
斎藤 「陸奥国の成立」を調べていたら「東日流外三郡誌」の中に多賀城の事を述べている文書「東日流古今往来」がありまして、それには「天平宝字三年に、多賀城は蝦夷に征服され、陸奥国には一兵もいなくなり、それは田村麻呂が大軍を牽いて蝦夷を征服するまで続いた」とありました。
つまり、「強い蝦夷軍団がいて、陸奥国を奪回したという。 わたしたち東北人には、耳ざわりの良い話なのです。
しかし、事実は違いました。天平宝字三年(759)から延暦三年(784)の間に伊冶公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱があり、その期間の漆紙文書や木簡が、多賀城から多数発掘されておりまして陸奥国には一兵もいないどころか、多賀城が政庁として正常に機能していた事を示しています。
それで、これは歴史史料としては、とても使える文献ではないこと示しています。
(漆紙文書や木簡は東北歴史博物館で実物を見ました。私は多賀城出身なので身近に政庁跡や多賀城廃寺または多賀城碑などがあります)
今回はこの辺で・・・かなり長くなってしまいそうなので、もっと省略したいと思います。
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
大事なことを忘れていました。「東日流外三郡誌」とは何なのか話しをていませんでした。
和田喜八郎氏によって公開された文献で「和田家文書」とも呼ばれています。その一部が「東日流外三郡誌」です。
内容ですがその昔・・・・
神武天皇の東征によって大和を追われた長髄彦の一族がアソベ族、ツボケ族などと呼ばれた津軽の原住民を平定してアラハバキ王国なるものを建て、大和朝廷に抵抗し続けたとするものです。
このアラハバキの子孫は中世の安倍氏、近世の秋田市となり、現在も残っているという。
このようにみると一貫したストーリーがあるように見えますが、和田家文書は短い文章の集積でありその中には内容の重複や前後の矛盾が少なくない。
また、文体は稚拙で誤字・脱字も多く、その書体は流行した御家流よりも現代人が筆ペンで書いた文字に近い。
また、和田家文書は安倍氏、秋田家の伝承を記したもののはずなのだが素性の確かな安倍氏、秋田家の家系に伝わらない「独自の伝承」が余りにも多すぎるのである。
寛政~文政年間、三春藩主の家臣であった秋田孝季(たかすえ)なる人物が和田氏の祖先・和田長三郎吉次とともにまとめた物だという由来を主張している。
つまり、これが本当なら近世の古記録・古文書の類として、独自の史料価値があるということになるわけである。
ただし、秋田孝季、和田長三郎吉次なる人物は和田家文書の中にしか登場せず、その実在を裏付ける証拠はない。
平成六年秋田孝季が神社に奉納した江戸時代の額が発見されたというニュースが共同通信社から配信されたこともあったが、同社は間もなく報道内容を否定する第二報を出し、その誤報であることを認めた。(【季刊邪馬台国】五五号、梓書院、平成六年十二月、参照)
和田家文書の現行テキストは明治から昭和初期にかけての写本とされる。
和田氏の主張によると、昭和二十三年頃、自家の天井裏に隠されていた和田家文書を見つけたということだが、その発見談は和田氏の文章ごとに二転三転しており定まっていない。
その家が前記事の写真である。
東北は長い間、中央の差別史観の下に置かれていた。
蝦夷を人倫を知らぬ獣ときめつけ、明治維新の際には朝廷に弓を引いた朝敵として扱い、烙印を押されたのが東北であった。 東北の人々は辺境にあって蔑視に耐え、自分たちを鼓舞激励する書物の出現を待望してきた。
そこで、東北の名誉と誇りを回復したいと願う人々にとって、「東日流外三郡誌」の出現は、早天の慈雨のごときものであったことは、充分に推察できる。
(上記の文については私も同感です。確かに当時の東北人は朝廷からはこの知識のない獣扱いでした。東北出身の古代史ファンにとってこの本は朝廷を見返してやったと思ったことでしょう。)
そうした東北人の心情をたくみに利用して、次から次に偽書を流布して人々を手玉にとった悪徳の行為を許すことはできないが、それに踊らされた善人たちについては、一片の同情を禁じ得ない。
しかし、虚偽を真実とすることは不可能である。
「だましの法則」から
千坂さん談話・・・・・・千坂嵃峰(ちさか・げんぽう)宮城県生まれ・東北大学文学部卒・聖和学園短大教授
北上川流域の歴史と文化を考える会、同流域地名研究会・両会長
珍しいものにひかれるという点でマスコミの果たす役割が問題になると思うのです。
例えばTBSで「東日流外三郡誌」を取り上げたことがありました。「世界不思議発見」という番組でこれをやったことがあるんですよ。
TBSの場合は、その後、「東日流外三郡誌」の問題を訂正したので、良心的な方だったのかも知れませが、やはりマスコミが、珍しいというだけで確かめもせず報道するという姿勢は、問題ではないでしょうか。
浅見・・・・・浅見定雄(あさみ・さだお)山梨県生まれ・東京神学大学博士課程修了・ハーバード大学神学部博士課程卒業
東北学院大学文学部教授
テレビに取り上げたというだけで権威があるように思ってしまう。 権威の法則が働くんです。
信じたい人が騙されやすい
千坂 「東日流外三郡誌」も同じですね。 先だって青森県へ行きました。 最初に巻き込まれたというか、偽の古文書を発行する時に、引き込まれて、編集なんかのお手伝いをしたいという人に会ってきたんです。 その人たちの反省の弁を紹介して、彼らも被害者だというそういう形で紹介しようと思っているんですが、実際には加害者の面もあるんです。 やはり、今言ってたようにですね。コミットメントの法則に当てはまるんですよ。
その後、青森県の市浦村・岩手県の衣川村・秋田県の田沢湖町などもだまされたんです。
最初希少価値のある古文書ということで「東日流外三郡誌」が地域の有力者のところに流れて来て、次に来るのが、古物。
刀ですとか、仏像ですとか、当初は和田さんが差し上げる、相手が貰うという形なんですけれども、いつの間にか、それに対して対価を差し上げなければいけないだろうみたいなことになってくる。
自分で買っている分についてはまだいいんですけれども、それを誰かにまた斡旋するようになり、そしてほかの知人にも紹介しちゃうとコミットメントが成立する。 コミットメント="commitment" 約束・義務・責任・献身・傾倒・・・
そこから自分はもう抜けられない。 だから、今ではだまされたと思いつつも、公言できないでいるという構造になっているんです。
浅見 若い娘さんが結婚詐欺師にひっかかる心理も同じです。 信じたいわけですよ。
信じたい人を騙すくらい簡単なことはないのです。
衣川村でも一関市でも結構ですが、信じたがっている人が相手なら、私だって偽書を作って騙しに行けます。
まず「希少性」で売り込んで、次にハバード大学の博士ですとか、テレビにもよく出ますとか、「権威の法則」で信じさせちゃえば、あとはもう自分から信じたがってきますから・・・・・・
自己過信は騙されやすい
千坂 東北人にはある種のコンプレックスがあり、歴史に関心のある人の中には、自分たちの郷土の誇れるものを求めるあまり、古代東北の栄光を記した「東日流外三郡誌」のよって培った情報を、何の裏付けもないままに主張し発表したりします。
それを読んだ一般の人がまた影響を受けて、嘘の歴史が出来上がってしまう。
そのようなことをそのままにしておいては、真の地域づくり妨げになるというのが、私の考えです。
「東日流外三郡誌」を見れば、いかにも教養のない者が書いたということがわかるはずですが、こんなに広まった原因を作った一人である古田武彦氏について、お聞きしていきたいと思います。
まず、斎藤さんが一番初めに「東日流外三郡誌」と関わったきっかけからお話し願います。
※古田武彦氏について前ページに記載しています。
斎藤・・・・・斎藤隆一(さいとう・りゅういち)福島県うまれ・東北の民俗と歴史を研究・市民の古代研究会会員
著書に「歴史を変えた偽書」「東日流外三郡誌」偽書の証明など多数
わたしも東北の民俗と歴史に興味があって、いろいろと地方の伝承などを調べていたので「東日流外三郡誌」についても、当時話題になっていて注目しておりました。
それで、昭和六十一年頃、北方新社刊の六巻本を購入して読んでみると、ひとつ私の目を引いた箇所がありました。
それは『安倍大観記』という題の中の「神武軍に追われて、傷を負った長髄彦が東国へ逃れ、兄の安日彦(あびびこ)が越国へ逃れて、出会ったところが会津という内容でした。
千坂 「古事記」にも同じような説話がありますね。
斎藤 崇神天皇の、いわゆる四道将軍派遣の説話ですが、「古事記」では「大毘古命が高志国へ、建沼河別命(たけぬかわわけののみこと)が東に行って、会津で出会った」という内容になっていて、こちらは親子ですが、当初わたしは、「古事記」説話を知っていながら、長髄彦説話を新たに創作するというような偽作は、通常な精神では、まずやらないのではないかと思い、長髄彦説話のほうが原型ではないかと思いかけた時期もありました。
・・・・・・・・・・・・「東日流外三郡誌」を含む「和田家文書」の大部分は、偽作にせよ、やはり、その核となる本物はあったんじゃないかと思っている人が多いのです。
ところが調べてみると「和田家文書群」だけにみられる稚拙な創作部分を除けば、その核となるのは、「古事記」だったり、「陸奥話記」だったり、あるいは古典だけでなく、昔の地方出版物や現在の研究者だったりするので、かえってオリジナルな原本の存在は考えにくいんです。
千坂 本当にあるなら、三年も前に原本を出すと言っていながら、いまだにでていないというのも、おかしなものですね。
斎藤 原本があるのなら何をおいても先に出すべきですが、出さない。 つまり、現代の偽作物なので原本が無いと思うしか有りません。
しかし、三内丸山遺跡なんかが記されている「大正写本」「昭和写本」といった新資料は、相変わらず和田喜八郎さんと同じ筆跡で次々と出てくるのですから偽作は明らかなわけです。
だからといって、今さら原本を偽造するとしても、江戸時代の用語、筆法、文法、紙質、墨質などをきちんとしなければなりませんので、まず、不可能でしょう。いくら古田さんらが「原本さえ出れば」と言っても、もう「東日流外三郡誌」の江戸期原本の出現はありえないと思いますね。
千坂 「東日流外三郡誌」は、漢籍や仏教の知識のない人物が書いた、非常に杜撰な内容ですから、ちょっとその方面の知識のある人が見れば、すぐに偽作とわかるシロモノです。
歴史史料としては使えない
千坂 斎藤さんが「東日流外三郡誌」をダメだと思ったのは、どんなことからでしたか。
斎藤 「陸奥国の成立」を調べていたら「東日流外三郡誌」の中に多賀城の事を述べている文書「東日流古今往来」がありまして、それには「天平宝字三年に、多賀城は蝦夷に征服され、陸奥国には一兵もいなくなり、それは田村麻呂が大軍を牽いて蝦夷を征服するまで続いた」とありました。
つまり、「強い蝦夷軍団がいて、陸奥国を奪回したという。 わたしたち東北人には、耳ざわりの良い話なのです。
しかし、事実は違いました。天平宝字三年(759)から延暦三年(784)の間に伊冶公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱があり、その期間の漆紙文書や木簡が、多賀城から多数発掘されておりまして陸奥国には一兵もいないどころか、多賀城が政庁として正常に機能していた事を示しています。
それで、これは歴史史料としては、とても使える文献ではないこと示しています。
(漆紙文書や木簡は東北歴史博物館で実物を見ました。私は多賀城出身なので身近に政庁跡や多賀城廃寺または多賀城碑などがあります)
今回はこの辺で・・・かなり長くなってしまいそうなので、もっと省略したいと思います。
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
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