藩主達は何故側室を持ったのでしょう。
当時の社会における藩主達には、側室は必要だったと言えるでしょう。
後継者を作ることは不可欠でしたが、それだけではありません。
多くのお子を作って、他の藩や家臣と縁組をさせることが自分の藩を守る一番良い手段であったのです。
正夫人たちは家柄の立派な血筋を重んじましたが、側室たちは必ずしもそれにこだわらなかったようです。
家臣の娘や浪人の娘など、その生まれた環境は様々であった。
仙台藩における場合を見ると側室たちは立派にその存在意義を証明してくれたいえます。
即ち、藩祖政宗から慶邦にいたる十三人の内、実に六人もの藩主が側室たる夫人から生まれているのです。
当時の藩においては一般的には側室のお子が例えどんなに秀れた藩主の子を産んでも正夫人から男子のお子が生まれた時は、
その正夫人のお子が藩主となることになっていて例外はあるが、側室たちのお子は決して藩主になりえなかった。
夫人たちは、あくまでも予備であり、またそのお子たちもあくまで万一の場合の控え的な存在であった。
調べてみると、長生きせずに短い命のお子たちが多く存在することが見えてきます。
藩を又は家を守るということがどれだけ大変だったのかわかります。
藩祖:伊達政宗の側室
●新造御方 (飯坂右近宗康の娘) (飯坂の局など別名あり・大河ドラマでは猫御前のモデル)
政宗最初の側室 宇和島藩祖の生母
天正十九年 米沢城から岩手沢城(後に岩出山)に移ってきたが、夫人はこの時すでに身ごもっていた。
●祥光院 (檀団右衛門直之の娘)
大坂の陣で大坂方の驍将壇団右衛門直之は戦死した。
この時一人の娘が政宗の居る陣営を通り過ぎた。政宗の家臣がこれを捕まえ陣営内に入れて、調べたところ
大坂方にその人ありと聞こえた勇将檀団右衛門直之の二女であることがわかった。
政宗は、その子の哀れさを思って、この娘を待女とした。これが後の祥光院である。
●於山の方 (阿山の方) 柴田城主・柴田但馬宗義の娘 天渓院と号す。
夫人は伊達右衛門宗高(政宗の七男)と牟宇姫(むうひめ)の二人のお子を産んだ。
●柴田(芝田)氏弘子 (阿茶の局) 柴田信恒の娘。後に綱村の命により柴田と改名
夫人は政宗の九男、伊達安房宗実を産む。
●於勝の方 (多田伊賀吉広の娘で勝女ともいう)
勝女姫についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。 伊達政宗の資質と歴史の因果
伊達騒動の首謀者である伊達兵部宗勝を産んだ。 伊達騒動についてはHPに纏めています。寛文事件(伊達騒動)
●本寿院 (村上内膳正重の娘)
政宗の末娘(四女)千菊姫を産んだ。
●安楽院香の前 (高田治郎右衛門の娘) 香の前については詳しくこちらの記事に書いてあります。 伊達政宗の資質と歴史の因果
伊達家の系図などには正式の側室として記載されていないが、政宗の愛した夫人ととして「お種殿」とも言われる。
二代忠宗の側室
●於房の方 (大坂方の臣であった三田村又右衛門の娘)
夫人と忠宗との間には、陽徳院(政宗の正夫人愛姫)の命を受けて田村氏を継いだ田村右京宗良(忠宗の三男)と伊達佐兵衛宗規(忠宗の七男)の二人のお子がある。
陽徳院御霊屋「寶華殿」と瑞巌寺庫裡~愛姫の霊屋
●瑞昌院 (織田上総介信忠の家臣長田次佐衛門忠重の娘)
夫人には五郎吉(忠宗の四男)がいたが、七歳で亡くなっている。
もう一人のお子は伊達式部宗倫(五男)である。
●貝姫(公家出身)
二代将軍秀忠の養女であり、播磨宰相池田輝政の娘となっているが、実は櫛笥(くしげ)佐中将藤原隆政の娘である。
寛永十六年、伊達家では京都屋敷の留守居役である佐藤市兵衛に命じて忠宗の待女を探させた。
ただし公家の娘と大坂浪人(豊臣家の残党)の娘だけは徳川将軍ににらまれるから除外せよという条件だった。
この仕事を引き受けたのが京都の町人象牙屋茂兵衛であった。
茂兵衛は櫛笥隆政の娘貞姫を町人の娘として仙台に下した。この娘が貝姫である。
貝姫の長姉は御匣局(みくしげのつぼね)といって(後の逢春門院)後水尾天皇(第108代天皇)の後宮に入り良仁親王(後の後西天皇・第111代天皇)
他多くの皇子や皇女を産んだ。
従って綱宗と後西天皇とは生母が姉妹であるから、いわばいとこの関係にある。伊達家の側室で公家出身の側室はこの貝姫ただ一人である。
●慶雲院 山戸土佐の娘で正保三年忠宗の八男宗房と慶安元年九男宗章の二人のお子を産むが、八男宗房が後に伊達肥前宗房となり、黒川郡宮床館の館主となる。
この宗房の嫡子藤二郎が四代藩主綱村の男子が五歳で早死したので、五代藩主と迎えられた。 これが後の吉村である。
三代から十三代は次回にさせていただきます。
HP伊達騒動
当時の社会における藩主達には、側室は必要だったと言えるでしょう。
後継者を作ることは不可欠でしたが、それだけではありません。
多くのお子を作って、他の藩や家臣と縁組をさせることが自分の藩を守る一番良い手段であったのです。
正夫人たちは家柄の立派な血筋を重んじましたが、側室たちは必ずしもそれにこだわらなかったようです。
家臣の娘や浪人の娘など、その生まれた環境は様々であった。
仙台藩における場合を見ると側室たちは立派にその存在意義を証明してくれたいえます。
即ち、藩祖政宗から慶邦にいたる十三人の内、実に六人もの藩主が側室たる夫人から生まれているのです。
当時の藩においては一般的には側室のお子が例えどんなに秀れた藩主の子を産んでも正夫人から男子のお子が生まれた時は、
その正夫人のお子が藩主となることになっていて例外はあるが、側室たちのお子は決して藩主になりえなかった。
夫人たちは、あくまでも予備であり、またそのお子たちもあくまで万一の場合の控え的な存在であった。
調べてみると、長生きせずに短い命のお子たちが多く存在することが見えてきます。
藩を又は家を守るということがどれだけ大変だったのかわかります。
藩祖:伊達政宗の側室
●新造御方 (飯坂右近宗康の娘) (飯坂の局など別名あり・大河ドラマでは猫御前のモデル)
政宗最初の側室 宇和島藩祖の生母
天正十九年 米沢城から岩手沢城(後に岩出山)に移ってきたが、夫人はこの時すでに身ごもっていた。
●祥光院 (檀団右衛門直之の娘)
大坂の陣で大坂方の驍将壇団右衛門直之は戦死した。
この時一人の娘が政宗の居る陣営を通り過ぎた。政宗の家臣がこれを捕まえ陣営内に入れて、調べたところ
大坂方にその人ありと聞こえた勇将檀団右衛門直之の二女であることがわかった。
政宗は、その子の哀れさを思って、この娘を待女とした。これが後の祥光院である。
●於山の方 (阿山の方) 柴田城主・柴田但馬宗義の娘 天渓院と号す。
夫人は伊達右衛門宗高(政宗の七男)と牟宇姫(むうひめ)の二人のお子を産んだ。
●柴田(芝田)氏弘子 (阿茶の局) 柴田信恒の娘。後に綱村の命により柴田と改名
夫人は政宗の九男、伊達安房宗実を産む。
●於勝の方 (多田伊賀吉広の娘で勝女ともいう)
勝女姫についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。 伊達政宗の資質と歴史の因果
伊達騒動の首謀者である伊達兵部宗勝を産んだ。 伊達騒動についてはHPに纏めています。寛文事件(伊達騒動)
●本寿院 (村上内膳正重の娘)
政宗の末娘(四女)千菊姫を産んだ。
●安楽院香の前 (高田治郎右衛門の娘) 香の前については詳しくこちらの記事に書いてあります。 伊達政宗の資質と歴史の因果
伊達家の系図などには正式の側室として記載されていないが、政宗の愛した夫人ととして「お種殿」とも言われる。
二代忠宗の側室
●於房の方 (大坂方の臣であった三田村又右衛門の娘)
夫人と忠宗との間には、陽徳院(政宗の正夫人愛姫)の命を受けて田村氏を継いだ田村右京宗良(忠宗の三男)と伊達佐兵衛宗規(忠宗の七男)の二人のお子がある。
陽徳院御霊屋「寶華殿」と瑞巌寺庫裡~愛姫の霊屋
●瑞昌院 (織田上総介信忠の家臣長田次佐衛門忠重の娘)
夫人には五郎吉(忠宗の四男)がいたが、七歳で亡くなっている。
もう一人のお子は伊達式部宗倫(五男)である。
●貝姫(公家出身)
二代将軍秀忠の養女であり、播磨宰相池田輝政の娘となっているが、実は櫛笥(くしげ)佐中将藤原隆政の娘である。
寛永十六年、伊達家では京都屋敷の留守居役である佐藤市兵衛に命じて忠宗の待女を探させた。
ただし公家の娘と大坂浪人(豊臣家の残党)の娘だけは徳川将軍ににらまれるから除外せよという条件だった。
この仕事を引き受けたのが京都の町人象牙屋茂兵衛であった。
茂兵衛は櫛笥隆政の娘貞姫を町人の娘として仙台に下した。この娘が貝姫である。
貝姫の長姉は御匣局(みくしげのつぼね)といって(後の逢春門院)後水尾天皇(第108代天皇)の後宮に入り良仁親王(後の後西天皇・第111代天皇)
他多くの皇子や皇女を産んだ。
従って綱宗と後西天皇とは生母が姉妹であるから、いわばいとこの関係にある。伊達家の側室で公家出身の側室はこの貝姫ただ一人である。
●慶雲院 山戸土佐の娘で正保三年忠宗の八男宗房と慶安元年九男宗章の二人のお子を産むが、八男宗房が後に伊達肥前宗房となり、黒川郡宮床館の館主となる。
この宗房の嫡子藤二郎が四代藩主綱村の男子が五歳で早死したので、五代藩主と迎えられた。 これが後の吉村である。
三代から十三代は次回にさせていただきます。
HP伊達騒動
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます