以前にもちょっと記事にしましたが、又軽く触れたいと思います。
今でも謎になっている、義経の死亡説。
義経は平泉で死んだのか?
公式の歴史では、文治五年(1189年)4月30日に平泉の高館にて藤原四代泰衡に襲われて自刃した。
享年31歳であった。となっている。
しかし、義経は生きていたという伝説が語り伝えられている。
私は、どちらが正しいというつもりは無い,
こんなところから歴史の面白さを感じ取っていただけれそれでいい。
この伝説は、岩手から青森を経由し北海道、さらに大陸に渡ってジンギスカン(成吉思汗)になったとか……
それを裏付けるような多くの資料が国内だけでなくシベリアにも残っているという。
義経の足どりを追ってみよう。
1188年4月、義経は平泉高館に家臣・杉目太郎を残して北へ旅立った。
観福寺、弁慶屋敷、源休館、人首(ひとかべ)、判官山から気仙郡に入った。
7月、一党は上閉伊郡に入った。
唐丹(とうに)村で遅れて来た常陸坊海尊が追いついて一緒になった。
津軽石判官館、八木沢判官館、小田判官松を経て宮古に入った。
横浜八幡宮に参龍、黒森山中で、般若経を写経した。
(黒森のクロは九郎判官のクロウを表していると思われる)
1189年4月30日、平泉で偽の戦いを行い、杉目太郎の首を義経の首として送った。
1190年、義経一党は、二又の出雲氏を訪いトコロ(野芋)を馳走になり、粟を借りて去った。
横山観音堂に般若経を納めた。
1191年、一党、宮古から田老へ向かい、吉内家に立ち寄った。
普代村で断食して海神に祈った。 稗(ひえ)二升借りて去る。
畠山重忠が、久慈で義経を待ち伏せていたが、空矢を放って北へ逃した。
1192年、八戸、小田を経て高館へ。 北の方が病死し、京ヶ崎に葬った。
1194年、一党、野内、安方、油川を経て一三港の壇林寺に着く。
1195年、一党、三厩村竜飛から蝦夷島に渡った。
この後について、アイヌの間で、
『ホンカンさまは、黄金の鷲を追って海を渡り、大きな川のあるクルセム国に行った』と語り継がれた。
佐々木勝三・菊池敬一著参照
まぁ、ロマンですかねぇ。('-^*)/
私も判官贔屓なのかも知れませんね。
杉目太郎行信
宮城県金成に杉目太郎行信の供養塔がある。
そこの石碑にには、以下のように刻まれている。
源祖義経神霊身替杉目太郎行信
つまり、杉目太郎行信が義経の身代りになった!と書いてある。
今でも謎になっている、義経の死亡説。
義経は平泉で死んだのか?
公式の歴史では、文治五年(1189年)4月30日に平泉の高館にて藤原四代泰衡に襲われて自刃した。
享年31歳であった。となっている。
しかし、義経は生きていたという伝説が語り伝えられている。
私は、どちらが正しいというつもりは無い,
こんなところから歴史の面白さを感じ取っていただけれそれでいい。
この伝説は、岩手から青森を経由し北海道、さらに大陸に渡ってジンギスカン(成吉思汗)になったとか……
それを裏付けるような多くの資料が国内だけでなくシベリアにも残っているという。
義経の足どりを追ってみよう。
1188年4月、義経は平泉高館に家臣・杉目太郎を残して北へ旅立った。
観福寺、弁慶屋敷、源休館、人首(ひとかべ)、判官山から気仙郡に入った。
7月、一党は上閉伊郡に入った。
唐丹(とうに)村で遅れて来た常陸坊海尊が追いついて一緒になった。
津軽石判官館、八木沢判官館、小田判官松を経て宮古に入った。
横浜八幡宮に参龍、黒森山中で、般若経を写経した。
(黒森のクロは九郎判官のクロウを表していると思われる)
1189年4月30日、平泉で偽の戦いを行い、杉目太郎の首を義経の首として送った。
1190年、義経一党は、二又の出雲氏を訪いトコロ(野芋)を馳走になり、粟を借りて去った。
横山観音堂に般若経を納めた。
1191年、一党、宮古から田老へ向かい、吉内家に立ち寄った。
普代村で断食して海神に祈った。 稗(ひえ)二升借りて去る。
畠山重忠が、久慈で義経を待ち伏せていたが、空矢を放って北へ逃した。
1192年、八戸、小田を経て高館へ。 北の方が病死し、京ヶ崎に葬った。
1194年、一党、野内、安方、油川を経て一三港の壇林寺に着く。
1195年、一党、三厩村竜飛から蝦夷島に渡った。
この後について、アイヌの間で、
『ホンカンさまは、黄金の鷲を追って海を渡り、大きな川のあるクルセム国に行った』と語り継がれた。
佐々木勝三・菊池敬一著参照
まぁ、ロマンですかねぇ。('-^*)/
私も判官贔屓なのかも知れませんね。
杉目太郎行信
宮城県金成に杉目太郎行信の供養塔がある。
そこの石碑にには、以下のように刻まれている。
源祖義経神霊身替杉目太郎行信
つまり、杉目太郎行信が義経の身代りになった!と書いてある。
藤沢にも義経縁の白旗神社があります
近いうち訪ねてみます
海戦の伝統を子孫に伝えなかったんですねぇ ww
惹かれました (^^)v
二又って 場所でしょう~か?
妄想広がるっちゃ・・・(-_-。)
信長は実は生きていたとかいう話も大好きです。
チンギスハーン・・世界で始めて騎馬戦術を確立した人ふだったような。
うろ覚えですみません
状況からすると、そう思える。
義経の首と言われるモノは焼け焦げていて、何日もかけて運ばれたので判別も困難だったというし、義経の位牌に書かれた文字には、山を通って逃げたと読めるような記述もあるとか、そんなことを聞いたことがあります。
ジンギスカンになったというのは、行き過ぎの話でしょうけど。
そういえば、義経の郎党の一人、この記事に名前が出ている常陸坊海尊、仙人になったとかいう伝説もあるとか。
日本語を話すモンゴルの一族がいてもいいですね。
以前から不思議なのが、卑弥呼にしても遣唐使にしても、中国や朝鮮をいききしていた時代に言葉の壁は無かったのでしょうか? 有名なお坊さん達は修行に言って言葉はどうしたんだろうとおもいます。
そう来ると思ってました。
でも今日は職場なので明日帰ったら見てみます。地名だと思います。ほとんど実在する地名で私もなんどか訪れてます。
妄想大好きです。
実際には無理でも妄想ならかないますからね。(*^-^)b