小さい頃から両親に連れられ、幾度と無く訪れた松島です。
昔は、ヘルスセンターや松島タワーなどがあり、遊んだものです。
確か動物園もあったような?
しかし、いまだにここだけは入った事がありませんでした。
チョット小高い山と云うか島と云うか、一段高い見晴らしのいい所です。
地元では、よくCMに使われる場所で、『白松がモナカ』さんもここじゃないかな(^_^)b?
それでは、階段を上ってみましょう。
入場料は200円でした。
抹茶を頼むと、菓子付きで300円です。
中から景色が見えるように、そして見学者が部屋の中を見れるように、二間続く部屋は障子などの戸は外されてます。
ですからそこでお茶を飲む気には、寒過ぎるので辞めました。
暖かい日だったら、殿様気分でお茶が楽しめるのでは・・・
この建物は、文禄中(安土桃山時代1592~1596)に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領したもので、伏見桃山城の一棟(茶室)でした。
江戸品川の藩邸に移築していたものを、二代藩主忠宗が海路にてこの地に移したものと伝えられています。
建物自体は、いたってシンプルで京間18畳の2室になってます。
京間=一間を6尺5寸 畳の大きさを6尺3寸×3尺1寸5分
中京間=畳の大きさを6尺×3尺
田舎間=1間を6尺とし、畳の大きさを5尺8寸×2尺9寸とする。
床の間の張付絵や襖絵は金箔を貼り付け、極彩色で描かれており、構図法や彩色法から伊達家お抱えの狩野派系統の絵師の遺品と見られています。
残念ながら撮影禁止なので撮れませんでした。
『月見御殿』とも呼ばれましたが、公式な記録では藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊および接待用の施設となる『御仮屋』として利用されたそうです。
説明は、ここまでにしておきます。
観瀾亭からの眺めです
裏手には博物館があります。
殺風景な建物ですが、伊達家にまつわる色々な物がありました。
化粧道具や鏡、携帯用弁当箱、格式の高い金紋鋏箱(はさみばこ)、どれも金箔で紋が入ってました。
目についたのは、 『貝合わせ』 の道具でしたね。
1760年近衛家から伊達家七代重村公に輿入れされた年子(のぶこ)姫が持参されたものと思われます。
上下や振袖がありましたが、かなり短めでしたねぇ
当時の人々の身長が低かったことを思い出されます。
昔は、ヘルスセンターや松島タワーなどがあり、遊んだものです。
確か動物園もあったような?
しかし、いまだにここだけは入った事がありませんでした。
チョット小高い山と云うか島と云うか、一段高い見晴らしのいい所です。
地元では、よくCMに使われる場所で、『白松がモナカ』さんもここじゃないかな(^_^)b?
それでは、階段を上ってみましょう。
入場料は200円でした。
抹茶を頼むと、菓子付きで300円です。
中から景色が見えるように、そして見学者が部屋の中を見れるように、二間続く部屋は障子などの戸は外されてます。
ですからそこでお茶を飲む気には、寒過ぎるので辞めました。
暖かい日だったら、殿様気分でお茶が楽しめるのでは・・・
この建物は、文禄中(安土桃山時代1592~1596)に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領したもので、伏見桃山城の一棟(茶室)でした。
江戸品川の藩邸に移築していたものを、二代藩主忠宗が海路にてこの地に移したものと伝えられています。
建物自体は、いたってシンプルで京間18畳の2室になってます。
京間=一間を6尺5寸 畳の大きさを6尺3寸×3尺1寸5分
中京間=畳の大きさを6尺×3尺
田舎間=1間を6尺とし、畳の大きさを5尺8寸×2尺9寸とする。
床の間の張付絵や襖絵は金箔を貼り付け、極彩色で描かれており、構図法や彩色法から伊達家お抱えの狩野派系統の絵師の遺品と見られています。
残念ながら撮影禁止なので撮れませんでした。
『月見御殿』とも呼ばれましたが、公式な記録では藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊および接待用の施設となる『御仮屋』として利用されたそうです。
説明は、ここまでにしておきます。
裏手には博物館があります。
殺風景な建物ですが、伊達家にまつわる色々な物がありました。
化粧道具や鏡、携帯用弁当箱、格式の高い金紋鋏箱(はさみばこ)、どれも金箔で紋が入ってました。
目についたのは、 『貝合わせ』 の道具でしたね。
1760年近衛家から伊達家七代重村公に輿入れされた年子(のぶこ)姫が持参されたものと思われます。
上下や振袖がありましたが、かなり短めでしたねぇ
当時の人々の身長が低かったことを思い出されます。
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