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仙台藩:歴代藩主の側室たち 藩祖政宗~二代忠宗
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上記写真は瑞鵬殿にある、政宗から三代までの廟所が建っていますが、前回の記事で政宗の瑞鵬殿と忠宗の感仙殿の一部をUPしました。
この建造物は三代綱宗の善応殿です。 この写真ではわからないのですが、ある部分が違います。
この理由については私の想像で記事にしています。ご覧になりたい方はこちらにリンクします。
瑞鵬殿
三代綱宗の側室
●三沢初子 三代藩主に正夫人はいなかった。
しかし、事実上の夫人がこの三沢初子であり、二代忠宗は子息綱宗と三沢初子を明暦元年(1655)正月結婚させた。
ところが、このことは正式に幕府への届け出や仙台藩伊達氏の系図にも記載されていないので、側室とした。
三沢初子については「仙台藩伊達家歴代藩主の正室たち」の三代藩主の正夫人に記載しています。
歌舞伎の「伽羅先代萩」の中で幼君を亡きものにしようとする悪臣から、愛児を身代わりにしてその幼君を守りぬく政岡(まさおか)という女性がいる。
この政岡という女性のモデルになった人物です。
上記にリンクした記事にも貼り付けていますが、このブログのサイドバー「伊達騒動と寛文事件」に詳しく事件について記載しています。
●藤子の方 不明(分かりましたら追記します)
●於梁の方 (黒江源右衛門の娘)
安寿院と号し、綱宗の次女類姫、四女千姫、五女知恵姫の三人の娘を産んだ。
●於幾伊の方 夫人は養性院と号し、五女綺羅姫および那禮姫、菊之充君、牟須姫の四人のお子を産んだ。
●於登の方 證智院と号し、夫人は元禄十一年(1702)十二月十日八女由布姫を産んだ。この姫君は三歳で同十三年七月十日に亡くなっている。
●於加與の方 (今泉甚介良信の娘)
夫人は霊照院と号し綱宗の末娘多気姫を産んだが、この姫は三歳で亡くなっている。
●某氏(家の女房)名は不詳
貞享四年(1687)六月十日に、六男吉十郎を生んだが、この子息は二歳で亡くなっている。
●昌葉院 (駿河大納言忠長の家臣で平田五郎佐衛門清重の娘)
夫人は夏姫(名を清、綱宗の長女)と村直(幼名基永、後大蔵基永綱宗の四男)及び三姫(三女)の三人のお子がある。
村直ははのちに二代藩主忠宗の嗣子となり、登米郡寺池邑主となる。
四代綱村の側室
側室は持ちませんでした。
五代吉村の側室
●於隆の方 (岡村道仙玄澄の娘)久米又は津禮とも称した。
夫人は清涼院と号し宝永六年(1709)七月六日に、長男村匡および六女三保姫の二人のお子を生む。
●於曾恵の方 (鈴木養圖の娘)
中奥に仕えて上(城中に仕える女中の上位の夫人のこと)となった。
正徳元年(1711)十一月二十五日に、次男武三郎君を、それから五年後の正徳五年(1715)三男の村風君(後の右京村風)の二人のお子を生んだ。
円球院と号す。
●於多智の方 名を智子(知子ともある)といった。
父は仙台藩士で二百余石を支給されていた虎間番士高橋兵三郎治昌という。
番士とは平士ともいわれ伊達軍団の主力をなす武士であった。普段は普段は城の番人や諸役人をしているが、いざ戦争となると大番士という組織に組み入れられた。
伊達軍団にはこの大番士が十番まであり、一番の大番士は番士三百六十人で編成されていた。
この番士の下に組士と呼ばれる武士がおり更に更にその下に足軽がいたのですから、番士は上級武士ということになる。
於多智の方には三男三女いた。 藤子姫・昌子姫・村隆君・某女(出産後、よく9日に亡くなってしまった名はないが法名は「鏡華」富之介君・村良君。
六代宗村の側室
●於興世の方 名を坂氏信子
七代藩主重村を生んだ。重村は宝暦六年(1756)七月九日に七代藩主となったので、於興世の方も同年十一月に格式を藩公に準ずる扱いとされた。
側室ではあるが、夫人の地位も藩主並ということである。
九人の側室の中では、最もお子に恵まれた。
久米之丞・重村・沛姫・直姫・従姫・藤七郎君・正敦君・子・認姫
●於豊の方 (橋本半左衛門秋長入道嘉休の娘)
夫人は四男村倫(後に安芸村倫と称下)を生んだ。
●阿清の方(喜興とも称した:於喜興の方)
(林従吾通明の娘)
五男利置(土井大隅守利信の嗣子となった)
方子姫(よりこひめ)の二人のお子を生んだ。
●於古興の方 (石川八右衛門定道の娘)
宝暦二年(1752)宗村の命で国老津田丹波信康の夫人となった。
しかし四年後信康がある事件にかかわり領知を没収されたので夫人は生家に戻った。
宗村とのとの間に才姫が居る。
●阿留世の方 (江戸の浪士安田徳右衛門義高の娘)
夫人の名は静子又は留代と称した。三十二歳で亡くなった。
●於登恵の方 (丹野定五郎敬之の娘)
瑛姫(たまひめ)・ 房姫・珋姫の三女を生んだ。しかしこの三女ともすべて、七歳および八歳で亡くなっている。
●お理久の方 (佐野宗智の娘)名を證子という。
この佐野という父は幕府の掃除坊であったという。夫人には利徳(後の淡路村賢と称した)という子息がいる。
七代重村の側室
ここからは名前だけにします。
●於久の方
●於琴の方
●於潔の方
●於袖の方
●於愛の方
●於奈興の方
●於寛の方
八代斉村の側室
●お信の方
九代周宗の側室
側室なし
十代斉宗の側室
●於富の方
●於留世の方
十一代斉義の側室
●於美屋の方
●於美寿の方
十二代斉邦の側室
側室なし
十三代慶邦の側室
●於千佐の方(名はちさと称し、後に久と改めている)
●お勝の方 仙台藩士松岡静吉時良の娘、お勝の方 十四代藩主(四男宗基)の母親
●岩間氏包子 徳川大番(警備役)岩間兵衛正吉の女で晴子と呼ばれた。 嘉永二年一五歳の時伊達家の奥に仕え、お包の方として慶邦公の側室となり上﨟に昇進し、公子菊重郎(邦宗君)が生まれた。(第十五代伊達家当主伊達邦宗)
藩公は包子の人物を見込みその養育に当たらせ、一族である岩間藤十郎義徳に十五人扶持を与えて伊達家の家族に取り立て国評に召連れられた。
包子は明治二十四年の冬肺炎にかかり名医外塚文海の治療を受けたが五十九歳で大井邸内で死去し大年寺に葬られた。
菊十郎は母の節操を追慕して追悼の詩歌を捧げている。
以上、簡単にUPしました。最後は疲れたので省略・・・
参考文献:仙台藩伊達家の女たち 安部宗男著
出産して、その日の内に自らの命を落とした姫君もいた。 身体が弱かったのもあるが、当時の結婚年齢が早かったこともあるのでしょう。
歴史の表舞台には、出て来ませんが、伊達家を支えた女たちが多くいたことを知りました。
伊達家の墓は大年寺に多くありますが、側室たちの墓は仙台の各お寺や県内各地のお寺にも多く見られます。
HP伊達騒動
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上記写真は瑞鵬殿にある、政宗から三代までの廟所が建っていますが、前回の記事で政宗の瑞鵬殿と忠宗の感仙殿の一部をUPしました。
この建造物は三代綱宗の善応殿です。 この写真ではわからないのですが、ある部分が違います。
この理由については私の想像で記事にしています。ご覧になりたい方はこちらにリンクします。
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三代綱宗の側室
●三沢初子 三代藩主に正夫人はいなかった。
しかし、事実上の夫人がこの三沢初子であり、二代忠宗は子息綱宗と三沢初子を明暦元年(1655)正月結婚させた。
ところが、このことは正式に幕府への届け出や仙台藩伊達氏の系図にも記載されていないので、側室とした。
三沢初子については「仙台藩伊達家歴代藩主の正室たち」の三代藩主の正夫人に記載しています。
歌舞伎の「伽羅先代萩」の中で幼君を亡きものにしようとする悪臣から、愛児を身代わりにしてその幼君を守りぬく政岡(まさおか)という女性がいる。
この政岡という女性のモデルになった人物です。
上記にリンクした記事にも貼り付けていますが、このブログのサイドバー「伊達騒動と寛文事件」に詳しく事件について記載しています。
●藤子の方 不明(分かりましたら追記します)
●於梁の方 (黒江源右衛門の娘)
安寿院と号し、綱宗の次女類姫、四女千姫、五女知恵姫の三人の娘を産んだ。
●於幾伊の方 夫人は養性院と号し、五女綺羅姫および那禮姫、菊之充君、牟須姫の四人のお子を産んだ。
●於登の方 證智院と号し、夫人は元禄十一年(1702)十二月十日八女由布姫を産んだ。この姫君は三歳で同十三年七月十日に亡くなっている。
●於加與の方 (今泉甚介良信の娘)
夫人は霊照院と号し綱宗の末娘多気姫を産んだが、この姫は三歳で亡くなっている。
●某氏(家の女房)名は不詳
貞享四年(1687)六月十日に、六男吉十郎を生んだが、この子息は二歳で亡くなっている。
●昌葉院 (駿河大納言忠長の家臣で平田五郎佐衛門清重の娘)
夫人は夏姫(名を清、綱宗の長女)と村直(幼名基永、後大蔵基永綱宗の四男)及び三姫(三女)の三人のお子がある。
村直ははのちに二代藩主忠宗の嗣子となり、登米郡寺池邑主となる。
四代綱村の側室
側室は持ちませんでした。
五代吉村の側室
●於隆の方 (岡村道仙玄澄の娘)久米又は津禮とも称した。
夫人は清涼院と号し宝永六年(1709)七月六日に、長男村匡および六女三保姫の二人のお子を生む。
●於曾恵の方 (鈴木養圖の娘)
中奥に仕えて上(城中に仕える女中の上位の夫人のこと)となった。
正徳元年(1711)十一月二十五日に、次男武三郎君を、それから五年後の正徳五年(1715)三男の村風君(後の右京村風)の二人のお子を生んだ。
円球院と号す。
●於多智の方 名を智子(知子ともある)といった。
父は仙台藩士で二百余石を支給されていた虎間番士高橋兵三郎治昌という。
番士とは平士ともいわれ伊達軍団の主力をなす武士であった。普段は普段は城の番人や諸役人をしているが、いざ戦争となると大番士という組織に組み入れられた。
伊達軍団にはこの大番士が十番まであり、一番の大番士は番士三百六十人で編成されていた。
この番士の下に組士と呼ばれる武士がおり更に更にその下に足軽がいたのですから、番士は上級武士ということになる。
於多智の方には三男三女いた。 藤子姫・昌子姫・村隆君・某女(出産後、よく9日に亡くなってしまった名はないが法名は「鏡華」富之介君・村良君。
六代宗村の側室
●於興世の方 名を坂氏信子
七代藩主重村を生んだ。重村は宝暦六年(1756)七月九日に七代藩主となったので、於興世の方も同年十一月に格式を藩公に準ずる扱いとされた。
側室ではあるが、夫人の地位も藩主並ということである。
九人の側室の中では、最もお子に恵まれた。
久米之丞・重村・沛姫・直姫・従姫・藤七郎君・正敦君・子・認姫
●於豊の方 (橋本半左衛門秋長入道嘉休の娘)
夫人は四男村倫(後に安芸村倫と称下)を生んだ。
●阿清の方(喜興とも称した:於喜興の方)
(林従吾通明の娘)
五男利置(土井大隅守利信の嗣子となった)
方子姫(よりこひめ)の二人のお子を生んだ。
●於古興の方 (石川八右衛門定道の娘)
宝暦二年(1752)宗村の命で国老津田丹波信康の夫人となった。
しかし四年後信康がある事件にかかわり領知を没収されたので夫人は生家に戻った。
宗村とのとの間に才姫が居る。
●阿留世の方 (江戸の浪士安田徳右衛門義高の娘)
夫人の名は静子又は留代と称した。三十二歳で亡くなった。
●於登恵の方 (丹野定五郎敬之の娘)
瑛姫(たまひめ)・ 房姫・珋姫の三女を生んだ。しかしこの三女ともすべて、七歳および八歳で亡くなっている。
●お理久の方 (佐野宗智の娘)名を證子という。
この佐野という父は幕府の掃除坊であったという。夫人には利徳(後の淡路村賢と称した)という子息がいる。
七代重村の側室
ここからは名前だけにします。
●於久の方
●於琴の方
●於潔の方
●於袖の方
●於愛の方
●於奈興の方
●於寛の方
八代斉村の側室
●お信の方
九代周宗の側室
側室なし
十代斉宗の側室
●於富の方
●於留世の方
十一代斉義の側室
●於美屋の方
●於美寿の方
十二代斉邦の側室
側室なし
十三代慶邦の側室
●於千佐の方(名はちさと称し、後に久と改めている)
●お勝の方 仙台藩士松岡静吉時良の娘、お勝の方 十四代藩主(四男宗基)の母親
●岩間氏包子 徳川大番(警備役)岩間兵衛正吉の女で晴子と呼ばれた。 嘉永二年一五歳の時伊達家の奥に仕え、お包の方として慶邦公の側室となり上﨟に昇進し、公子菊重郎(邦宗君)が生まれた。(第十五代伊達家当主伊達邦宗)
藩公は包子の人物を見込みその養育に当たらせ、一族である岩間藤十郎義徳に十五人扶持を与えて伊達家の家族に取り立て国評に召連れられた。
包子は明治二十四年の冬肺炎にかかり名医外塚文海の治療を受けたが五十九歳で大井邸内で死去し大年寺に葬られた。
菊十郎は母の節操を追慕して追悼の詩歌を捧げている。
以上、簡単にUPしました。最後は疲れたので省略・・・
参考文献:仙台藩伊達家の女たち 安部宗男著
出産して、その日の内に自らの命を落とした姫君もいた。 身体が弱かったのもあるが、当時の結婚年齢が早かったこともあるのでしょう。
歴史の表舞台には、出て来ませんが、伊達家を支えた女たちが多くいたことを知りました。
伊達家の墓は大年寺に多くありますが、側室たちの墓は仙台の各お寺や県内各地のお寺にも多く見られます。
HP伊達騒動
貴重な情報もありがとうございました。
参考にした本をもう一度読んでみます。
分からない場合は、このコメントを記事に参照し調べて見ます。詳しいページ数はありがたいですね。
図書館で勉強させていただきます。