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追記し、再度更新しました。
仙台藩の御家騒動である寛文事件又は伊達騒動と云われる大事件がありました。
伊達騒動(寛文事件)とは
江戸前期(1660潤オ1671)仙台潘伊達家に起こった御家騒動。
万治3年(1660)三代藩主伊達綱宗は所行紊乱(びんらん)の廉(かど)で幕命により、わずか二年で隠居を命じられます。
酒や遊興にふける綱宗に、藩の重臣や親戚の大名が注意をするものの一向に改善されませんでした。
藩の行く末を心配した一門や家老らが幕府に綱宗の隠居願いを提出したのです。
四代藩主に幼少の亀千代(後の綱村)が2歳で家督を嗣ぎます。
伊達兵部少輔宗勝(綱宗の叔父)は後見として田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと共に藩政の実権を握った。
それを見かねた保守派の老臣伊達安芸宗重らは所領問題を機会に宗勝らの失政を幕府に訴えた。
寛文11年(1671)大老酒井忠清がこれを裁決。
裁きの席上、伊達安芸宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、伊達兵部宗勝は土佐藩にお預け、田村右京宗良は閉門。
と処罰され幼少の綱村に所領を安堵して落着した。
この騒動は、奈河亀輔作「伽羅先代萩」などの歌舞伎や講談に脚色され上演された。
この事件については、HPの方に纏めてありますので詳しくは、伊達騒動
「伊達の黒箱」とはこの事件の関係資料が収められているものです。
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「伊達の黒箱」の存在については以前から知っていました。非常に興味深いものです。
この箱が黒箱と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのようです。
逆臣とされる原田甲斐は、実は忠義の家臣であることを示す資料が入った「黒箱」という箱が伊達家に伝わっているという噂が明治維新頃に広まりました。
当時行方不明になっていたこの木箱が発見され、これが噂の「黒箱」に比定されるようになりました。
ところが、原田甲斐が忠・不忠の真相を示す資料は含まれていなかったそうです。
『伊達の黒箱』について
増田繁幸:幕末戊辰のころ仙台藩若年寄、増田が仙台藩大参事だった明治四年の頃、伊達家が代々厳重に保管してきた黒塗り箱に収める文書を点検したことがあった。
ところが、その内容は寛文事件(伊達騒動)にかかわる秘密文書で従来の通説がまったく誤りであることを示していた。
伊達安芸は式部との所領争いに失敗した私憤から、幕府に提訴を企て、その提訴の実現の手段として、兵部・甲斐らに対する非難、流言を利用した。
甲斐は江戸在番の家老として審問に召喚され安芸の行為に憤激のあまりこれを斬殺するに至ったのだ。
また「伊達騒動実録」に収録された史料を検討した結果、「兵部は勿論、甲斐は伊達家に対してはむしろ忠義の人なり」という増田の言葉と一致する結論に到達した。
「先代萩の真相」著者、田辺実明の序の末尾のところで、田辺はのべている。「二百五十年の長日月、寃抂(えんおう:無実の罪)に沈み玉ひし雄山公(綱宗)の汚名を雪(すす)ぎ、兵部公及び甲斐等を悼み、其忠魂を慰めんと欲し、終に斯の一篇を草す」
寛文十一年(1671)三月二十七日の刃傷事件から古内志摩 帰還の四月十五日までの期間の江戸の仙台屋敷の発着した文書は六月になってから案分(ひかえ)も含めて二百三十六通が、一つの箱に納められ、田村図書、大町権左衛門、各務采女の手で封印されお納戸(なんど)御宝物方に移された。
仙台市立博物館に現存するその箱のふたにはこのことが記されている。
増田繁幸等の言う「黒箱」がこの箱に他ならないことは、箱書きから見てもまず確かであろう。
それぞれの説に相違と対立が存在する。それは、史料の解釈や評価であり研究する人の立場や歴史観であることはあきらかでしょう。
「実録」の著者大槻文彦は国語科であり「真相」の著者田辺実明は歴史学でいわば素人であった。
戦後歴史学者たちの論文がいくつか発表されている。 林亮勝氏・児玉幸多氏・小林清治・滝沢武雄氏・佐々木慶市氏・佐々木潤之介などの研究がそれである。
最近と言っても、それほど最近ではないが、平重道の著書が私の参考文献であった。
今になって思うのだが、40年ほど前、平重道先生の伊達治家記録が印刷されていたころ。私はその本を先生のご自宅に配達していたのだ。
あのころは、何の興味もなく愚かな自分であった。
話は戻るが、この騒動の注目される点はやはり忠臣逆臣が気になるところだと思います。
それはHP「伊達騒動・寛文事件」で・・・・まだ記載途中です。
こんな書状がありました。水戸黄門が綱宗を叱った書状です。
徳川光圀書状 元禄七年(1694)五月十四日 伊達綱宗宛
綱宗が隠居してから34年後、綱宗が五五歳の時に徳川光圀(水戸藩主)が綱宗の素行について苦言を呈したもの。
実は光圀と綱宗は従兄弟の関係にあり、光圀は伊達家の相談役をしていました。
また、綱宗36歳の頃には、「女中の召使方が荒いなど、綱宗の素行の悪さが噂されているが、幕府に知れてはもってのほかである」と綱宗に自制を促すように伝えていた。
光圀と綱宗は従兄弟の関係につての説明
綱宗を嫡母は徳川秀忠の養女徳川振姫です。 振姫=孝勝院(こうしょういん、慶長12年4月21日(1607年6月15日) - 万治2年2月5日(1659年3月27日))は、仙台藩主伊達忠宗の正室。 姫路藩主池田輝政の娘で、母は徳川家康の次女・督姫。
名は振姫(ふりひめ)。3代将軍徳川家光や水戸藩主徳川光圀は従兄弟にあたる。
この事件のように藩主を隠居にして御家を守ることを「主君押し込め」といいます。
仙台藩主重臣連署状案 万治三年(1660)七月九日 立花飛騨守(忠茂)・伊達兵部部(宗勝)宛
仙台藩の重臣十四名が伊達綱宗の隠居と亀千代の相続を願った文書。
家臣らは酒や遊興が目に余る綱宗に見切りをつけており、書状では病気と称して隠居させるよう、幕府に届け出て欲しいと頼んでいる。
当時の武家の間では、主君としての器量に欠ける藩主を隠居に追いやり、藩や大名の御家を守る「主君押し込め」という慣行が広まりつつあった。
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書状十四名の顔ぶれを見れば、寛文事件の関係者が多く見られます。
事件の中心人物、原田甲斐・田村右京・伊達安藝の名も見られる。まぁ当然ですが。
万治三年(1660)11月21日 伊達兵部・田村右京連署血判起請文 立花飛騨守(忠茂)宛
伊達兵部と田村右京が亀千代の後見役として、伊達家に尽くすこと、何事も両人で相談することを、神仏に誓った資料。
立花忠茂宛ですが、筑後柳川の藩主で、綱宗の義理の伯父にあたる親戚大名で仙台藩の後見的立場だった。
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茂庭家当主の記録を纏めたものに、綱宗の行ないについて記した部分がある。
万治三年六月十二日 定元君記録 巻之四
綱宗の夜遊びは幕府老中の酒井忠清から度々注意されているが改善せず、御家滅亡も懸念されると親戚大名の立花忠茂が述べている。
忠茂は当時奉行だった茂庭周防定元らを通じて綱宗に忠告書を渡すよう依頼している。
古内志摩書状 (伊達の黒箱から)
寛文11年(1671)3月27日
三月二十七日の刃傷事件直後に生存者の奉行古内志摩義如が記した書状があった。
その筆使いは、黒箱にある他の志摩の書状と比べると、事件の現場に遭遇した興奮冷めやらぬ様子がうかがえる。
内容は、原田甲斐の関係者などの取り締まりを行うこと、藩主のいる上屋敷の取締りを抜かりなく行うことなどを指示している。
また古内は四代綱村に遺書を書いていました。
寛文12年(1672)12月17日
事件後の仙台藩・・・・・
藩執行部には、伊達兵部や原田甲斐の一味であった「古悪人」が以前として残り、さらに茂庭主水(もんど)を奉行にしようと図る「新悪人」らがいるとして、その「悪人」の名前を列挙している。
事件後も藩内派閥構造が残っていたことがうかがえる。
古内志摩が臨終に際し四代藩主伊達綱基(のちの綱村)へ遺した遺書に・・・・
仁愛、正直が藩主心得であることや人事は人柄をよく見極めて行い、気に入ったからといって特定の者を重用してはならないなどを記す。
特に古内造酒祐重直(みきのすけしげなお)には注意してその資質をよく見極めなさい。
伊達兵部処罰罪人書付
伊達安芸が伊達兵部によって処罰された人々120名を列挙したものの写し、斬罪と切腹となった人物は20人に及ぶ、これは幕府老中板倉重矩宅で取り調べが行われた日に安芸が提出したもの
原田甲斐の処分
甲斐の息子四人は切腹、孫の男子二人は斬罪となり、甲斐の母や妻らは藩内の他家へお預け、領地は没収とする、厳しい処分であった。 詳細については後ほどHPの「伊達騒動」に記載したいと思います。
綱村は柴田中務(なかつかさ)【柴田外記の息子】らを呼び、「安芸は忠か不忠か?」と尋ねたという。
故、古内志摩は忠義と見ていたことを聞いて、綱村は安芸の行為が忠義だったと納得した。
綱村の安芸に対する評価はこうして決まった。
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長々と私のHPにも書いていますが、まだまだエピソードがあります。
県の図書館でこんな本を見つけました。
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これについては、いずれまた記事にしたいと思います。
HP伊達騒動
伊達政宗と仙台藩
仙台藩の御家騒動である寛文事件又は伊達騒動と云われる大事件がありました。
伊達騒動(寛文事件)とは
江戸前期(1660潤オ1671)仙台潘伊達家に起こった御家騒動。
万治3年(1660)三代藩主伊達綱宗は所行紊乱(びんらん)の廉(かど)で幕命により、わずか二年で隠居を命じられます。
酒や遊興にふける綱宗に、藩の重臣や親戚の大名が注意をするものの一向に改善されませんでした。
藩の行く末を心配した一門や家老らが幕府に綱宗の隠居願いを提出したのです。
四代藩主に幼少の亀千代(後の綱村)が2歳で家督を嗣ぎます。
伊達兵部少輔宗勝(綱宗の叔父)は後見として田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと共に藩政の実権を握った。
それを見かねた保守派の老臣伊達安芸宗重らは所領問題を機会に宗勝らの失政を幕府に訴えた。
寛文11年(1671)大老酒井忠清がこれを裁決。
裁きの席上、伊達安芸宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、伊達兵部宗勝は土佐藩にお預け、田村右京宗良は閉門。
と処罰され幼少の綱村に所領を安堵して落着した。
この騒動は、奈河亀輔作「伽羅先代萩」などの歌舞伎や講談に脚色され上演された。
この事件については、HPの方に纏めてありますので詳しくは、伊達騒動
「伊達の黒箱」とはこの事件の関係資料が収められているものです。
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「伊達の黒箱」の存在については以前から知っていました。非常に興味深いものです。
この箱が黒箱と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのようです。
逆臣とされる原田甲斐は、実は忠義の家臣であることを示す資料が入った「黒箱」という箱が伊達家に伝わっているという噂が明治維新頃に広まりました。
当時行方不明になっていたこの木箱が発見され、これが噂の「黒箱」に比定されるようになりました。
ところが、原田甲斐が忠・不忠の真相を示す資料は含まれていなかったそうです。
『伊達の黒箱』について
増田繁幸:幕末戊辰のころ仙台藩若年寄、増田が仙台藩大参事だった明治四年の頃、伊達家が代々厳重に保管してきた黒塗り箱に収める文書を点検したことがあった。
ところが、その内容は寛文事件(伊達騒動)にかかわる秘密文書で従来の通説がまったく誤りであることを示していた。
伊達安芸は式部との所領争いに失敗した私憤から、幕府に提訴を企て、その提訴の実現の手段として、兵部・甲斐らに対する非難、流言を利用した。
甲斐は江戸在番の家老として審問に召喚され安芸の行為に憤激のあまりこれを斬殺するに至ったのだ。
また「伊達騒動実録」に収録された史料を検討した結果、「兵部は勿論、甲斐は伊達家に対してはむしろ忠義の人なり」という増田の言葉と一致する結論に到達した。
「先代萩の真相」著者、田辺実明の序の末尾のところで、田辺はのべている。「二百五十年の長日月、寃抂(えんおう:無実の罪)に沈み玉ひし雄山公(綱宗)の汚名を雪(すす)ぎ、兵部公及び甲斐等を悼み、其忠魂を慰めんと欲し、終に斯の一篇を草す」
寛文十一年(1671)三月二十七日の刃傷事件から古内志摩 帰還の四月十五日までの期間の江戸の仙台屋敷の発着した文書は六月になってから案分(ひかえ)も含めて二百三十六通が、一つの箱に納められ、田村図書、大町権左衛門、各務采女の手で封印されお納戸(なんど)御宝物方に移された。
仙台市立博物館に現存するその箱のふたにはこのことが記されている。
増田繁幸等の言う「黒箱」がこの箱に他ならないことは、箱書きから見てもまず確かであろう。
それぞれの説に相違と対立が存在する。それは、史料の解釈や評価であり研究する人の立場や歴史観であることはあきらかでしょう。
「実録」の著者大槻文彦は国語科であり「真相」の著者田辺実明は歴史学でいわば素人であった。
戦後歴史学者たちの論文がいくつか発表されている。 林亮勝氏・児玉幸多氏・小林清治・滝沢武雄氏・佐々木慶市氏・佐々木潤之介などの研究がそれである。
最近と言っても、それほど最近ではないが、平重道の著書が私の参考文献であった。
今になって思うのだが、40年ほど前、平重道先生の伊達治家記録が印刷されていたころ。私はその本を先生のご自宅に配達していたのだ。
あのころは、何の興味もなく愚かな自分であった。
話は戻るが、この騒動の注目される点はやはり忠臣逆臣が気になるところだと思います。
それはHP「伊達騒動・寛文事件」で・・・・まだ記載途中です。
こんな書状がありました。水戸黄門が綱宗を叱った書状です。
徳川光圀書状 元禄七年(1694)五月十四日 伊達綱宗宛
綱宗が隠居してから34年後、綱宗が五五歳の時に徳川光圀(水戸藩主)が綱宗の素行について苦言を呈したもの。
実は光圀と綱宗は従兄弟の関係にあり、光圀は伊達家の相談役をしていました。
また、綱宗36歳の頃には、「女中の召使方が荒いなど、綱宗の素行の悪さが噂されているが、幕府に知れてはもってのほかである」と綱宗に自制を促すように伝えていた。
光圀と綱宗は従兄弟の関係につての説明
綱宗を嫡母は徳川秀忠の養女徳川振姫です。 振姫=孝勝院(こうしょういん、慶長12年4月21日(1607年6月15日) - 万治2年2月5日(1659年3月27日))は、仙台藩主伊達忠宗の正室。 姫路藩主池田輝政の娘で、母は徳川家康の次女・督姫。
名は振姫(ふりひめ)。3代将軍徳川家光や水戸藩主徳川光圀は従兄弟にあたる。
この事件のように藩主を隠居にして御家を守ることを「主君押し込め」といいます。
仙台藩主重臣連署状案 万治三年(1660)七月九日 立花飛騨守(忠茂)・伊達兵部部(宗勝)宛
仙台藩の重臣十四名が伊達綱宗の隠居と亀千代の相続を願った文書。
家臣らは酒や遊興が目に余る綱宗に見切りをつけており、書状では病気と称して隠居させるよう、幕府に届け出て欲しいと頼んでいる。
当時の武家の間では、主君としての器量に欠ける藩主を隠居に追いやり、藩や大名の御家を守る「主君押し込め」という慣行が広まりつつあった。
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書状十四名の顔ぶれを見れば、寛文事件の関係者が多く見られます。
事件の中心人物、原田甲斐・田村右京・伊達安藝の名も見られる。まぁ当然ですが。
万治三年(1660)11月21日 伊達兵部・田村右京連署血判起請文 立花飛騨守(忠茂)宛
伊達兵部と田村右京が亀千代の後見役として、伊達家に尽くすこと、何事も両人で相談することを、神仏に誓った資料。
立花忠茂宛ですが、筑後柳川の藩主で、綱宗の義理の伯父にあたる親戚大名で仙台藩の後見的立場だった。
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茂庭家当主の記録を纏めたものに、綱宗の行ないについて記した部分がある。
万治三年六月十二日 定元君記録 巻之四
綱宗の夜遊びは幕府老中の酒井忠清から度々注意されているが改善せず、御家滅亡も懸念されると親戚大名の立花忠茂が述べている。
忠茂は当時奉行だった茂庭周防定元らを通じて綱宗に忠告書を渡すよう依頼している。
古内志摩書状 (伊達の黒箱から)
寛文11年(1671)3月27日
三月二十七日の刃傷事件直後に生存者の奉行古内志摩義如が記した書状があった。
その筆使いは、黒箱にある他の志摩の書状と比べると、事件の現場に遭遇した興奮冷めやらぬ様子がうかがえる。
内容は、原田甲斐の関係者などの取り締まりを行うこと、藩主のいる上屋敷の取締りを抜かりなく行うことなどを指示している。
また古内は四代綱村に遺書を書いていました。
寛文12年(1672)12月17日
事件後の仙台藩・・・・・
藩執行部には、伊達兵部や原田甲斐の一味であった「古悪人」が以前として残り、さらに茂庭主水(もんど)を奉行にしようと図る「新悪人」らがいるとして、その「悪人」の名前を列挙している。
事件後も藩内派閥構造が残っていたことがうかがえる。
古内志摩が臨終に際し四代藩主伊達綱基(のちの綱村)へ遺した遺書に・・・・
仁愛、正直が藩主心得であることや人事は人柄をよく見極めて行い、気に入ったからといって特定の者を重用してはならないなどを記す。
特に古内造酒祐重直(みきのすけしげなお)には注意してその資質をよく見極めなさい。
伊達兵部処罰罪人書付
伊達安芸が伊達兵部によって処罰された人々120名を列挙したものの写し、斬罪と切腹となった人物は20人に及ぶ、これは幕府老中板倉重矩宅で取り調べが行われた日に安芸が提出したもの
原田甲斐の処分
甲斐の息子四人は切腹、孫の男子二人は斬罪となり、甲斐の母や妻らは藩内の他家へお預け、領地は没収とする、厳しい処分であった。 詳細については後ほどHPの「伊達騒動」に記載したいと思います。
綱村は柴田中務(なかつかさ)【柴田外記の息子】らを呼び、「安芸は忠か不忠か?」と尋ねたという。
故、古内志摩は忠義と見ていたことを聞いて、綱村は安芸の行為が忠義だったと納得した。
綱村の安芸に対する評価はこうして決まった。
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長々と私のHPにも書いていますが、まだまだエピソードがあります。
県の図書館でこんな本を見つけました。
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これについては、いずれまた記事にしたいと思います。
HP伊達騒動
伊達政宗と仙台藩
以前の記事より深い内容ですね。来週またおじゃま致します。
山周では魅力的な忠臣でした
こっちの方がいいいかな ww
携帯だと大変でしょう。
ゆっくり休んで・・・休む暇ありませんかね?
また、お仕事にも励んでください・・
体を壊さないように、手を抜いて(笑)
史実は何とも分かりませんが、甲斐等は実権を握って自分達の禄高を増やそうとしたのです。
誰でも実権を握ればそうしたくなるでしょうね。
今の政治かもこの事件を見て、我が身は国民に対して忠義なのか?自問自答して欲しいものです。
何故甲斐がお金を欲しがったかはいずれまた。
理由を見つけたのですよ。ww
興味深く読ませて頂きました。
土佐藩に預けられた伊達兵部宗勝はこの地で没したと言うことで、高知市に行ったときにお墓の所在を知りました。
私は岩出山城下で育ったので、幼いころ現在の城山公園のことを町民は「御本丸」と呼んでいましたよ。
いろいろ
あるんですね (=^・^=)
いずれ伊達藩を追われたものですから、伊達の領地には入れなかったかも知れませんね。
御墓があったんですね。 ~何が真実なのか分かりませんが、欲を出しすぎると罰が当たるのかも知れませんね。
岩出山は宮城の中で伊達家が成長してゆく過程大事な拠点ですね。
しばらく城山には行っていません。
岩出山は町が新しくなり大きな道路もできました。
有備館は今回の震災でつぶれてしまい「新聞の記事」失念しましたが解体が始まり、保存の方向に向っています。
この時、周囲の誰もが何も言えず、押し黙っていた時に中務が
「其方は安芸は忠義ということは出来ないと言っていたではないか」と言った話が書いてあったんですが
反兵部派もけして一枚岩ではなかったんでしょうね
兵部の土佐の件
柴田外記が長宗我部氏の出身であること考えると面白い偶然だなぁ、と思います
政宗の息子が土佐に眠ってて、元親の孫が仙台に眠ってる所とか
本来、敵の侵入を拒む為の機能としての城ではなかった。司馬遼太郎は「平和な城下だったのでは」と書いております。
原田甲斐がお金を欲しがった理由。
これは小説にはなかった部分ですよね。
興味あります。