ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

「つきのうら」の真実サン・ファン・バウティスタ号出帆の地とは?

2021年11月18日 12時18分34秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
雄勝町にあったサン・ファン・バウティスタ号の造船の地であった雄勝町は、東日本大震災による壊滅的な被害により
その資料や造船の地としての場所を示す看板などが破壊され消えてしまった。
このブログでは、仙台藩にまつわる多くの出来事をマイペースで書き綴っていましたが、雄勝町の造船の地も取材に行き
写真を撮ってブログにアップしていました。
資料や看板を失った。雄勝町の関係者から一通のメールが届きました。どうやら私の写真が役に立ったとのことでした。
そのメールを送って頂いた方が、この本の著者である。遠藤光行様でした。
何度かのメールのやり取りで、この書籍を送って頂き、私の意見を聞きたいとのことでした。
当然私が意見を言う立場にもありませんので、この本の概要を取り上げ私の感想を綴って行きたいと思います。

話は変わりますが、不思議なつながりを感じているのが、私が最初勤めたところが宝文堂でした。
伊達治家記録の出版社ですが、著者である平重道氏のところに書籍が刊行されると届けていたのが私でした。
当然その頃は私も若く歴史には全く興味が無かったのでした。
このブログを始めてから、何かと伊達家に纏わる本が宝文堂から刊行されていたことに驚く次第です。



さて、本題に戻りましょう。サン・ファン・バウティスタ号出帆地の記録です。
そして、造船の地が出帆の地なのか現在の地が本当の月の浦なのか検証していきます。

書籍や古文書には「月浦」から出帆として、と記載されている。それについては異論はない。
問題は、その月浦がどこだったのかということです。 それについてこの本では追及しています。




本書には、『貞山公治家記録』の原文が記されていますが、割愛させていただきます。
「伊達治家記録」には、このように「牡鹿郡月浦より発ス」と明記されています。
石巻市の市史には、慶長遣欧使節船の出帆地については、異論のないところである。とし次のように解釈しています。
(「大日本史料」第十二編之十二)には、慶長十八年癸牛九月十五日六右衛門等是日、伊達政宗家臣支倉六右衛門、さん・ふらんしすこ派ノ宣教師そてろ等ヲ使トシテ信者音物ヲ羅馬法王及び西班牙国王に贈ル、六右衛門等是日、陸奥月浦ヨリ発ス
「貞山公治家記録」には、九月十五日癸牛此日蛮国へ渡サル黒船、牡鹿郡月浦ヨリ発す
(「寛政重修諸家譜」七六三)には、九月十五日忠勝の配下のもの政宗の家臣、支倉六右衛門常長等をよ、南蛮人あわせて百八十人余、領国牡鹿郡月浦を出帆す

いずれも、牡鹿郡月浦を出帆したとある。

地名の由来を見てみましょう。
牡鹿郡月浦は、現在の石巻市月浦である。
月浦の牡鹿半島の西岸、袴ヶ岳の西麓に位置し、石巻湾に面し湾の西部に小出島があって湾内への西風を防いでいる。
地名の由来は、葛西清重が奥州下向の折、船で着いた所なので着きの浦と呼ばれ、のち月の浦と書くようになったという
  『宮城県地名考』宝文堂 著者菊池勝之介
慶長十六年(1611)十一月二十日 イスパニア(現スペイン)特派大使セバスチャンビスカイノは、この浦を発見し、「右(小竹浜)に劣らざる他の良港あり。
サン・フェリペ San の称を与えたり」(『金銀島探検報告』『異国叢書』1929年)と記している。
(「石巻の歴史第二巻通史編(下の一)」一九八八)

造船の地

造船の地について記載された資料はなく、出帆の地である「石巻市月浦造船説」と造船資料や口伝、痕跡などを根拠として主張する
「(現石巻市)雄勝町呉壺造船説」との間で長年論争が繰り返されてきました。
近年は小倉博士の「出帆の地と言えば、特別の事情のない限り造船の地をも意味するのが常識」
(「仙台市郷土研究」一九九六)

復元船展示施設は「宮城県慶長使節船ミュージアム(愛称サンファン館)」と呼ばれ、慶長使節の歴史や大航海時代の帆船文化を紹介する博物館として役割を担っています。
宮城県民においては藩祖伊達政宗への関心とともに慶長使節が乗船したサン・ファン号の出帆地・造船地への関心も高いことから、「つきのうら」はその象徴的なキーワードと言えます。


ブログ著者
勤務先や知人・若者に、伊達家の話をしても全く無関心であり、知識もほとんどない。
伊達政宗の存在くらいしか知らなのが現実です。 歴史や伊達家好きの人はまれに見かけますが、地元の歴史として何があったのか、ちょっと気にして欲しいですね。 現実には、仙台にいる人は地方出身者も多いので無理もないのかも知ませんが、このサン・ファン号で航海するのは当時では自殺行為に近いくらい難しいものだったに違いありません。
日本人だけではその知識もなくビスカイノの力は大きく貢献されたでしょう。
航海に先立つために必要だったのが、まず造船・そして伊達家に依頼され中心となった支倉常長・その裏にはいろいろなストーリーがあります。関係する記事は下記に記載します。

私が最初に疑問視したのは、現在の月浦に行って、後日造船の地に行きました。
まるで半島の西と東です。わざわざ雄勝で造って、なぜ現在の月の浦に運ぶ必要があったのかです。
その為には、船員も必要だったし指揮する人も知識も必要だったはず。移動する理由が見当たらないし文献に見当たらない。本の著者が記載した通り「造船の地について記載された資料はなく」逆を言えば、資料なくて口伝がある。
つまり出帆の地=造船の地で、誰も記載する必要が無いから資料にする必要もない。
当たり前のことだったのかもしれない。



地形を見てみましょう。

雄勝が造船した言われるところ、月浦は出帆したとされた場所。
現在の地図ですが、見たように半島を挟んで離れています。

周辺の観光地


「つきのうら」の不整合な点がある。しかし検証はされてこなかった。

ア、正史である「伊達治か記録」には「牡鹿郡月浦」とあるが原資料といわれる「真山記」には「遠島月浦」両者が同じとは言えないとの見解がる。

イ、「牡鹿郡月浦」が大型洋式帆船の出帆や造船に適していることを裏付ける資料が無い。

ウ、アンジュリス「第二蝦夷報告」付載地図に描かれている航路線の出発点は石巻月浦とは場所が明らかに異なる。
  
「つきのうら」ですが、本当に一つしか存在しないのでしょうか。

昭和四十一年(1966年)刊行の『雄勝町史』には、江戸期に「雄勝湾」が「月の浦」と呼ばれていたとの証言を紹介しています。
雄勝湾を往古月の浦と称えた考証として、仙台藩の老儒者、永沼柏堂翁が、仙台藩の三浦として、雄勝(旧十五浜)の月の浦、塩釜の千賀の浦、気仙沼の鼎ヶ浦を挙げている。

永沼柏堂という人間は幕末に仙台藩校養賢堂に学んだ仙台藩士ですが、縁あって雄勝町名振浜の永沼家に養子になった人です。
仙台藩校養賢堂ですが以前記事にしていましたので、ここにリンクしておきます。
            旧仙台藩藩校養賢堂正門(泰心院山門)

また、雄勝湾に「月の浦」と書き込まれた地図があります。
大正十二年(1923年)に刊行された『桃生郡誌』に添付された「桃生郡名勝古蹟図」と呼ばれる地図です。

この地図は桃生郡内の名勝古跡を記したもので、十五浜村(現在の雄勝湾)に「月の浦」と書いてある。





その他にも、文章の中に「月の浦」とこの湾の名前を記している。



まだ書籍の前半であり、この後も記載を続けますが、一度アップしておきます。
この後も検証の続きを記載しますが、少しづつ加えていきたいと思います。
上記の記載だけでも月の浦は当時造船した、雄勝こそ月の浦だということがわかってきます。

下記に、サンファンバウティスタ号に関連する記事をリンクしておきます。
お時間があったらご覧ください。

私の先祖は日本のサムライ/支倉常長一行の子孫
支倉常長の名と大使抜擢の理由
ビスカイノが見た慶長三陸大津波(慶長使節派遣の布石)
伊達黒船造船の地/サン・ファン・バウティスタ号
支倉六右衛門常長の墓所/圓福寺・川崎町
支倉常長/三つの像と三つの謎&メモリアルパーク
サン・ファン・バウティスタ号、出航の地:月浦
慶長遣欧使節船 第一段終了
サン・ファン・バウティスタ号 船内1
サン・ファン・バウティスタ号 船内2
支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号


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3 コメント

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お元気でしようか? (綱永井寵生)
2023-09-21 09:04:34
更新が途絶えて心配しています。仕事が忙しいのでしょうか。お身体に何かあったのでしょうか。

新しい投降、楽しみにしています。
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綱永井寵生さんへ (ひー)
2023-09-22 11:41:57
お久しぶりです。
もう仕事は退職しました。時間はたっぷりあるのですが趣味で忙しいといって大したことは無いのですがね。コロナ以来出かけなくなってしまいネタもいまいちでそのうちアップしようと思ってまし先日最上町の中で寒ノ神見つけたので,道祖神ですね。
多賀城の南大門もできつつあるので完成したらアップしようと思いました。こんなにアップしなくても毎日400~500人くらい来てますよ。ご心配ありがとうございます。元気ですので安心してください。
返信する
安心しました。 (綱永井寵生)
2023-09-23 00:15:05
ひーさんへ

大病を患っているのではないかと心配していました。

このコロナ期は私の人生も一変しました。父も誤嚥性肺炎でなくなり、母も認知症が進み私の事も忘れました。

コロナウイルスの注射をしてから二人とも体調を急に悪化させました。父は食欲がなくなったと言い始めてから、3か月で亡くなりましたし。

取り敢えず、ひーさんが元気で安心しました。良かったです。

またの投稿、楽しみにしています。
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