七曲坂の話を3話でしておりましたが、続きです。
今は、殆ど通る人はいないでしょう。
こんな感じの坂です。
そして境内へと入る出入り口です。
境内側からは・・・
最古の参道から上がったところに鳥居があります。
ここから現在の左宮右宮別宮までは、かなり距離があり不自然に思います。
古代には、ここに社(やしろ)があるのが理にかなっていると思いませんか?
ここには博物館があり、御神馬の馬小屋があります。
御神馬は伊達家が準備したものですから、江戸時代以前にはありません。
注目する場所は、この裏にある小高い丘です。
鳥居をくぐって右側にあります。
実は友人からこの場所を聞きました。どの文献から知ったのかまだ聞いていませんが、先に現場を見に行きました。
今まで気付かずにいたのが恥ずかしい位です。
この丘には石碑がありました。どうやら明治天皇が東北巡行の際にここから松島を眺め「またとない景色だ」と申され、この丘を「萬多奈能岡」と刻まれた石碑があります。
確かに、現在は樹木が生長し建造物で見えにくいのですが、塩竈神社では一番高い位置のように思います。
この通りです。
高い場所には古墳があったりその上には神社が出来たりしていることは、良くあることですね。
私の興味はこちらの方ですね。
もう一つの石碑がありました。
塩竈神社と刻まれています。
元々はここに祀られていたのではないかと想像してしまいます。
塩竈神社と刻まれた石碑は他に無いように思いますが? まぁ石碑は大正3年のものですがね。
これはコンクリートですが、一対になっています。何があったのでしょう。
ここはこれからも調べる価値がありそうです。 きっと縄文からの神が祀られていたのでは?
ここが一番古い入口だったのです。
今は、殆ど通る人はいないでしょう。
こんな感じの坂です。
そして境内へと入る出入り口です。
境内側からは・・・
最古の参道から上がったところに鳥居があります。
ここから現在の左宮右宮別宮までは、かなり距離があり不自然に思います。
古代には、ここに社(やしろ)があるのが理にかなっていると思いませんか?
ここには博物館があり、御神馬の馬小屋があります。
御神馬は伊達家が準備したものですから、江戸時代以前にはありません。
注目する場所は、この裏にある小高い丘です。
鳥居をくぐって右側にあります。
実は友人からこの場所を聞きました。どの文献から知ったのかまだ聞いていませんが、先に現場を見に行きました。
今まで気付かずにいたのが恥ずかしい位です。
この丘には石碑がありました。どうやら明治天皇が東北巡行の際にここから松島を眺め「またとない景色だ」と申され、この丘を「萬多奈能岡」と刻まれた石碑があります。
確かに、現在は樹木が生長し建造物で見えにくいのですが、塩竈神社では一番高い位置のように思います。
この通りです。
高い場所には古墳があったりその上には神社が出来たりしていることは、良くあることですね。
私の興味はこちらの方ですね。
もう一つの石碑がありました。
塩竈神社と刻まれています。
元々はここに祀られていたのではないかと想像してしまいます。
塩竈神社と刻まれた石碑は他に無いように思いますが? まぁ石碑は大正3年のものですがね。
これはコンクリートですが、一対になっています。何があったのでしょう。
ここはこれからも調べる価値がありそうです。 きっと縄文からの神が祀られていたのでは?
ここが一番古い入口だったのです。
ここは大きいし有名な神社ですね。
刀や鎧が一堂に並んでいた博物館が隣にあったかと? 水軍関係の資料もあったような。
今治のタオルは高くてお土産にできなかった記憶があります。
しまなみ海道はまだまだ工事が始まったか、これからというころでした。
なかなか、神様の系図は色々あって複雑ですよね。
いずれそこに伝えられてきたわけですから、それはそれで大事にしないといけませんね。
でも気になる神々ですね。
先日青森で、小さな大山祇神社に立ち寄ってきました。通りすがりの神社ですけどね。
宝物館に大山積一族の系図が展示してあり、それによると「大山積大神」の子が「塩土老翁」と記載されていました。鹽竈神社の祭神名が遠く離れた神社の系図に記されていたことに驚き、私は系図を手書きで写してきました(館内は撮影禁止だったのです)。神社が掲示していますので両神が親子であったことは信憑性が高いのではないかと思われます。
ちなみに「大山積大神」の孫として「宇都神」「手名椎神」「足名椎神」「磐長姫」「木花開耶姫」の5柱が記載されていました。磐長姫・木花開耶姫は古事記では大山積の娘とされていますので、差異が見られます。もし系図が正しいとすると、大山積がニニギと結婚させたのは自分の娘ではなく大山積一族の中の娘だったのかな?などとも妄想しています。
私はひーさんのブログを拝見できたので「鹽竈神社の不思議」が頭の中に強く残っており、「塩土老翁」の名前に反応してしまいました。もし読んでいなかったら、今回の大山祇神社の系図も眺めただけで終わっていたかもしれません。幸運に感謝しております。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/9bda7307102063090cadf8e814beed48
上記の記事を読むと志波彦神社のことがわかります。
確か昔は志波彦神社・鹽竈神社とは読んでいませんでした。 肩書に頼ったネーミングなんです。 というのは、志波彦神社は式内社なのです。延喜式式内社は認められた神社となります。しかし陸奥国一之宮でありながら式内社に選ばれていないのが鹽竈神社です。
それでも国から支払われている対価は志波彦神社よりも多く国内的にも他の大社にまけません。このような神社は何社か見られます。
つまり、鹽竈神社が古い由緒があるのに、形式上の式内社を優先しているのです。
志波彦神社は上記した記事にありますが、宮城県岩切にある八坂神社の境内にあった志波彦神社(冠川神社)を鹽竈神社へ遷座しました。
鹽竈神社の摂社なのです。
武甕槌神と経津主神ですが、鹽竈神社の祭神がはっきりしていなかったため(文献をみても決定的な祭神はわかっていません)それを見て伊達家四代伊達綱村が伊達家が祀っている神であるこの二神に決めたのです。 つまりこの神の本当の正体はわかっていません。
しおがま様の不思議にすべて書いていたと思います?
自分的にはここもアラハバキだったのかな?と思う一つの理由です。 いずれ古代塩づくりを始めたころにはあったはずです。 まだまだ不思議な鹽竈神社です。
神社仏閣と狛犬
https://sanpomichi114.web.fc2.com/komainu.html
神社でいただいたリーフレットによりますと「しおがまさま」は志波彦神社と鹽竈神社の総称のようですが、志波彦神社が先に書かれていますね。
志波彦神は初めて聞いた神ですが、南東にある御釜神社の方向を向いていますので、古代から鎮座されている神のように感じました。鹽竈神社の別宮とも関連しているのでしょうか?
鹽竈神社は別宮(岐神)が客神社のように配置され、左宮と右宮が奥に配置されていました。私は関東の東国3社のように、鹿島神宮(武甕槌神)と香取神宮(経津主神)が息栖神社(岐神)を監視しているように思えました。
また神社HPに、別宮は「2番目の意味ではなく、特別(スペシャル)な社である」と記載されているのに感動しました。鹽土老翁神(岐神)を大切に祀っている関係者の気持ちが伝わってきます。
機会があればもう一度訪問してみたいと思っています。
塩竈にはよくある苗字ですね。私の友人にも同じ苗字の者が居ます。 島出身です。
塩竈の歴史は古いですね。
多賀城の国府とも大きな関わりがあるようです。また歴史の中の多くの人物も訪れていますね。まだまだ勉強不足でこれからも気がついたら記事にしたいと思います。
地元人です。
古くから沿岸部に住む先祖を持つ者です。
名前を察して頂けると、分かるかな?
余り記述に残って居ない自分の先祖の事が知りたくて、此方にたどり着いた次第です。
苗字から見て元から居た氏族では有りませんが、何故ここに居るのか探しております。
此方のブログを参考に勉強させて頂きます。
小さいのが沢山並んでいるところですね。
私も以前にUP済みですが、私の様なオジサンが多くなったようですね。
娘が最近行ったみたいですが鳩がいっぱい居たと言っていました。
そうそう、御釜神社の藻塩焼神事は7月4日だったと思います。偶然公休なので、用事がなければ行こうと思っていました。
先日、所用で仙台に出かけたときに、時間もないのに、どうしても見ておきたかったので、塩釜神社に行ってきました。
この写真を頼りに歩いたのですが、最初は場所が全く分からずに、車道を歩いて神社入り口まで来てしまいました・・・。
どうしても七曲り坂を歩きたいと思ったので、やっと探して下り、二回目は裏坂を登り、最後は表坂を下りました・・・。(疲れました。笑)
いや~、塩釜神社、興味深いですね・・・。
またなの岡は、最初全然探せなくて、ちょっと諦めるほど分かりずらかったです。
でも、七曲り坂からだと、真直ぐに延びた場所にあるのが分かりました。
ひっそりとしていて、ここが聖地のような気がします。
また、なにか解れば教えてくださいね。
神社の左側に小さな末社が並んでいて、私が写真を撮っていると、他にも高級カメラで写真を撮るオジサマが2人いらっしゃいました。
結構、神社って調べている人が多いんでしょうかね?
自分が興味を持ったからなのかもしれませんが、最近摂社・末社の辺りに高級カメラをもったオジサマが多いと思います。(笑)
先日は吉日だったのか、結婚式を4組も見ました。
白無垢の花嫁さんの美しいこと・・・。
感激しました。
おみくじは全くふるいませんでしたが、よしとしました。(笑)
三色だんごもいただきましたし。
鳩もかなりの数はいましたよ。(元々がどのくらいかはわかりませんが)
時間もなかったのですが、御釜神社も行きました。(御釜が見られなかった・・・残念です)
また、行こうと思います!!!
ほどほどに毎日アクセスがありますよ。
全体で毎日600人近くの人が見てくれています。
軽い気持ちで書けなくなっています(笑)
アラハバキについて、たまたま面白い記事を見つけました。
何の民族学の本を参考にしているのかわかりませんので、私自身が確認取れませんが、一つの小さな説として記載したいと思います。
UP済みの記事は沢山訂正する部分があります。
時間がいくらあっても足りませんよ。
平家と言っても平将門の流れです。
機会がありましたら、またお話したいと思います。
ではでは。
調べていてわかりました。
調べることが多くて半分投げています。
途中で放棄するかも? まぁ、取り合えず貯めている写真をUPします。
志波彦神社についても何故志波姫と志波彦や離れているのか、あちらは地名になるほど中心の神社になっています。
分けて祀る意味何故志波彦と七北川との関係・・
疑問うを持つと限が無く途方も無く大きな課題であることをしみじみと感じております。
そういえばネットサーフィンをしているとわかりましたよ。 伝八郎さんの別名(笑)
「レイライン」気になるところですね「レイライン」と言う本を持っています。
とにかく書物が箱詰めのままなので確認等が出来ず。困っていました。
利府と言う地名は国府から来ているとのことですが、もしかして離府から来ているのかも。
古代の横穴墓が集中しているのも、昔は奥羽の中心地の一つだったのは間違いないと思います。
そして円仁の言われも多い・・・・。
菅谷不動尊と塩釜神社を直線で結び延長すると、金華山、山寺をも結ぶレイラインが完成すると聞いたことがありますが、利府を絡めて塩釜神社を考えると何か出てきそうな気がします。
ではでは。
何かを隠していますね。
取り払われた物は何なんでしょう?
友人が宮司に聞くと迷惑そうな顔をされたとも聞きます。
私はここに秘密があると思います。
七曲坂しか無かった頃、現在の神社の位置は不自然です。
現在の所に創建した頃、表坂が出来たのではないかと考えます。
もう少し調べないとわかりませんがね。
この丘への標識は無かったように思います。
後で境内図に表記しているか前の記事を見てみます。
ナガスネ彦の石碑は隠されましたかね?
またいって見ますよ。
恐いですね。もしかするとあの辺りを支配していた豪族のお墓かも知れませんよ。
明治天皇が眺めた景色ならもっと観光スポットになってもおかしくないのですが、 特別入口も無く何故ひっそりしているのでしょう。
不思議の一つでもあります。
私も時間があれば探しに行きたいです。
でも、もしかしたら、都合悪いから取り除かれたのかも。
木々の間から見える塩竈港と、ひーさんが言うように神社境内で高い位置にあるのに、人目を避けられる。ですが、碑があって、何か妙な感じがしたものです。
萬多奈能岡は、小学校高学年には「謎解き」にはぴったりでした。
「萬→万。多→多い」と解釈して、「塩竈神社の財宝の隠し場所」との結論。
「掘ったらおもせんでねべか」となりましたが、やはり怖くなる訳です。
初詣の混雑を避けるのに、「七曲り」は最適でした。一度雪の中を丹治さんたちと初詣。七曲り途中で「八甲田山」のテーマ音楽を鼻歌にしておりました丹治先生でした。
あそこは自分でも、以前より気になっておりました。変な形をした場所には違いないのです。
ひーさんの推論。なるほどです。
ご存知の通り、古代の神様は同一神とか××天皇を意味していたりとか、 答えが多すぎます。
神社を三社写真を撮って来ましたが、一社は名前は式内社で歴史的にも立派な神社なのですが、色々祟りのあった神社で今は参拝者の影もなく気味が悪かったです。
後程UPします 。
考古学の学者も昔の神主も、多くの歴史家も想像でしか語ることが出来ません。
・・・・そうだったのでしょう。
としか結論付けられません。
言えるのは、大和朝廷が出来る前・・・文字も無かった時代にここには何らかの神が祀られていたのだと思います。
趣味の領域で考える人々は、自分の理論で考えますが難しいですね。
ひ~さんの
調査が待たれます