ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

仙台空襲:あれから63年

2008年07月11日 15時22分08秒 | 仙台・宮城今昔物語
こうして始まった大東亜戦争の結末は・・・




1945年 昭和20年7月10日 未明

123機のB29の大軍が仙台上空を襲います。


わずか2時間あまりの間に街の中心部は焦土と化し、
1万2千戸焼失その犠牲者は千数百人となりました。


63年前の昨日です。

その一ヵ月後・・・・・・・・・敗戦


仙台空襲の動画が無いので、東京大空襲の動画です。

東京大空襲



アメリカは、今も日本を苦しめているのでは・・・・・・・

仙台は復興への道を歩むのです。


昭和31年の仙台市内


現在の様子


昭和18年 常盤木女子学園






仙台空襲ウィキペディア(Wikipedia)

仙台市戦災復興記念館



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18 コメント

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教育は怖い (ひー)
2008-07-12 21:46:46
家族の為、お国の為とはいえ
特攻し自爆する行為は現代のどっかの国と同じです。
一人の人物を崇め万歳する行為もどっかの国と同じですね。
ひとつ誉めたいのは、立派に成長したこと…でも、反省もありますけどね。
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Unknown (はー)
2008-07-12 20:49:38
仙台は7月10日 なのですね~
神戸は3月17日 わたしの
生まれた家も地域も 焼けました~
4歳のときで~その後 疎開先で
育ちましたけれど~人生を変えた
あの戦争は~わたしの原点です(^^)
教育の怖さを実感するこの頃です(^^;)


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林さんへ (ひー)
2008-07-12 10:16:08
博物館の駄菓子屋さんは次回にでもアップします。
疎開の頃は見落としましたね。
今から見て来ます。
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酔漢さんへ (ひー)
2008-07-12 10:12:12
東二番丁小学校なら街のド真ん中ですからねぇ。
悲しいことが、沢山あったことでしょうね。
常盤木の写真は本から拝借したものですが、図書館から借りたものでタイトルも忘れてしまいました。
鉢巻をしてる姿は如何にも日本的ですね。
説明書きがあったのですが……?
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子どものころ戦争がありました。 ()
2008-07-12 09:37:44
古い写真を懐かしい思いで見ました。
「東北歴史博物館」には先日行ったけれど「古代」などを中心に見て
「昭和」は昭和の古い家(駄菓子屋さん?)を見て新聞は見落としました。

仙台空襲については2005年07月10日に
「疎開のころ」というタイトルで私も書きました。
http://blog.goo.ne.jp/hayasi211/e/ee2b9b9cf19ec0400dc6d9a862f77e36
空襲には実際にはあわなかったものの
その後の住宅事情、モノがない時代を経験しています。
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写真ありがとうございます (酔漢です)
2008-07-12 08:29:50
常磐木学園の写真は、校舎が焼けた事もあり、残っているものが少ないそうです。
当時母は東北線で仙台まで塩竈から通っていたそうです。母は新制高校になってもそのまま常磐木におりました。
早速、写真を見てもらいたいと思います。
お気遣い、本当にありがとうございました。
戦争の記憶が風化している中、仙台にも空襲があったことは、僕達の世代でも語るべきもだと思いました。東二番丁小学校の校庭には、空襲で亡くなった児童の碑がありました。
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桃源児さんへ (ひー)
2008-07-12 08:08:26
おはようございます。
いやこの新聞は歴史博物館のものです。昭和の歴史みたいなコーナーがあって…
続きは、明日帰ってから紹介します。
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Unknown (桃源児)
2008-07-12 00:36:14
当時の新聞、ひーさん方の物ですか。すごいですね。
昭和30年代でも、まだ空き地が目立つ状態だったんですね。
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母上様 (ひー)
2008-07-11 22:39:37
当時の常盤木なら、お嬢様学校じゃないですか?
すごい!
30年代の常盤木の学生を追加しておきます。
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母から聞いた話 (酔漢です )
2008-07-11 22:23:05
塩竈市内からも空が赤くなっていたのが見えていたそうです。母は当時、常磐木中学(旧制)の学生。空襲後。焼けた校舎の後始末をしたそうです。それと、同級生が数名、お亡くなりになったそうです。
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memeさんへ (ひー)
2008-07-11 21:24:25
実は、この新聞は、多賀城の歴史博物館に飾られてるものです。
三丁目の夕日を思い出す世界もあります。
明日UPしますね。
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これは? (meme)
2008-07-11 21:18:43
ひーさん、この当時の新聞は
元々手元にあったものですか?
凄く、貴重な記事ですね。
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維真尽さんへ (ひー)
2008-07-11 19:54:08
映像も生生しいですが、実体験はもっとすごいのでしょうね。
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あーさんへ (ひー)
2008-07-11 19:52:06
もしや、あーさん、今でも癖がぬけなくて
横書きは、右からでは・・・・ウヒ
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Bar☆さんへ (ひー)
2008-07-11 19:49:34
母も、防空壕に入り、ここから動くなと言われて、隠れていたようです。
義理の父も、市内にいたようで、何とか逃げ切ったそうですよ。
アメリカ軍は笑いながら、爆撃したのでしょう。
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東京~ (維真尽(^^))
2008-07-11 18:59:51
大空襲~
むかし
早乙女勝元さんの本を読みましたが
想像を絶しますね 
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そうそう (あーさん)
2008-07-11 18:38:23
右から左に書いたんですね、横書きは。

懐かすぃ~  って、パパなら言うかな。


昭和31年   終戦後11年経っても、こんな状態だったんですねぇ。
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戦争は… (Bar☆)
2008-07-11 17:40:06
もうたくさん
仙台の空襲で亡くなられた方の人数は把握できていないそうですね。仙台に疎開していた方の人数が分からないからだそうですが。
母が疎開していた山元町からも仙台の方角が真っ赤になっていたのがはっきり分かったそうです。
西公園から仙台駅が見えたとも聞いています。
東二番丁の写真は…現在のタワービルの場所が市立病院でしたね。
写真を比較すると仙台は頑張ったなあと思います。
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