八幡(やわた)を通り・・・そうそうここの石仏はまだ紹介した事が無かったのでカメラに収めて着ました。
八幡の旧沖区にあったことから沖地蔵と呼ばれています。旧沖区=桜木南から桜木東にかけて広がっていた。
戦時中この一帯に多賀城海軍工廠が建設され昭和17年からの強制移転によってここに移り住んだ。
沖地蔵もこの時移ったわけですね。この3体が一緒に置かれるようになったのは昭和40年頃のようです。
旧沖区は、中谷地・宮内・原の三つの集落になっていました。
その中の中や知の地蔵が進駐軍によって持ち去られわからなくなりましたがのちに苦竹駐屯地で発見されたそうです。
ここに集まった石仏は、それぞれ開発か何かで集められたものでしょう。
ここを後に、多賀城駅の方へ・・・
砂押川です。
震災の時はこの川を隔てて、海側は地獄でした。 津波もこの川を遡上しました。
河口付近にあったと思われる。ボートはこの川上まで流され、自衛隊付近では堤防が決壊し付近は水害に遭いました。
子供の頃は、この先で船を漕ぎ遊んだものです。
こちらは多賀城駅が左に見えます。 現在マンションの工事が進んでいます。 駅前にマンションですか?
住む人には便利ですが、駅前の一等地がマンションとはちょっと残念です。
多賀城市は仙台のベットタウンであるともいえます。 そんな意味では仕方がないんでしょう。
市の財政も頻拍しているようですからね。
この多賀城が現代になっても繁華街ができないのは、駅前に川があるからだと昔から思っています。
それでいいのかもしれませんが・・・・
この先に子供の頃から中学まで住んでいました。
土手で釣りをしていて川に落ちたこともありました。 引き潮の時はスコップを持って川でゴカイ(釣りの餌)を取り、近くの釣り具店のおじいさんに一合30円?だったか10円だったか? 買ってもらいました。
土手を歩く釣り人も売ってくれときたものです。 ミミズも堆肥の中から探して売ったものです。
でも楽しかったですよ。
高度成長期、多賀城は桜木にある工場地帯のおかげで財政は豊でした、私の記憶の中では、東北造船(鹽竈市)が衰退したころから影響があったような気がします。 これは私のイメージです。
造船業が衰えると鉄鋼業が大きなダメージを受けます。
将棋倒しのように不況が迫って来たような気がします。
ここ多賀城には海軍工廠がありました。 関係ない話ですが、いずれこれも記事にしたいと思います。
何を造っていたか?? わかりやすいところではゼロ戦の機銃20ミリ砲も造っていたようです。
それはいずれ・・・・。
市役所の駐車場の敷地にこれがあります。
そうです空間放射線量を測定するもです。
あの震災以降に建てられました。 いつも0.03マイクロシーベルトを表示しています。
しかし、これはあくまでも空間です。
近くの公園の枯葉の下にカウンターを入れるととてつもない数値を表します。
やばいですよ。
このまま北に進むと東北学院大学のキャンパスがあります。
ここの桜も見事に咲きます。
今はまだつぼみでした。
間もなく満開になる事でしょう。長い冬が終わろうとしています。
この消火栓・・・ズーッと昔からありました。 進駐軍の消火栓ですね。
東北学院大学工学部の敷地周囲にあります数個あります。
私が小、中学の頃は、進駐軍が住んでいた家もそのまま残っており、市民が住んでいました。
一目で様式の建物であることがわかりましたよ。壁は白く、ドアは二重になっていました。
空には多数の飛行機雲・・・ケムトレイルという言い方もあるようですが・・・
庭の花々も先はじめました。 仙台もやっと開花宣言されたようです。
新年度もはじまりましたね。
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詢に重畳に「存じます ♪
また ジモティネタ を読ませていただきますネ
家人Tが 一昨年秋 軽井沢で呆れ巣県を断裂して以来
拙ブログも不定更新になっていますぅ
改めまして ヨロピク~です
通勤の途中は寄り道ばかりで、浜周辺をうろついてから仕事に就きます。
首都圏の満員電車に乗っていた時間と同じなのが不思議な感じもいたします。
「くだまき」が「散歩道」になって来ました(^_^;)
治ったらリハビリも必要なんですかね?
お大事にしてくださいです。
ソメイヨシノや鹽竈桜。夜桜も楽しみですね。
満員電車からはしばらく解放されますね。