さいきんの流星光
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 村上春樹さんの、『東京奇譚集』というタイトルの本を図書館で見つけたので借りてきて読みました。短編集ということもあり、わりと一気に読めたという感じでした。

 僕は、村上春樹という超有名な小説家の作品は、二作品しか読んだことがありません。デビュー作の『風の音を聴け』と『海辺のカフカ(上・下)』です。

 『海辺のカフカ』は、「村上春樹」「おすすめ」という二つのワードで検索をかけたところ、第一位にランキングされていたのが、この作品でした。

 そして、『風の……』は、やはりデビュー作好きの僕としては、押さえておかなくてはいけないだろう、ということで読みました。

 この二作品を読んで、僕は、村上春樹さんから離れようと思いました。なんてまどろっこしい文章を書く作家だろうと思いました。それに、作風が、とても変わっていて、どうとらえれば良いのか、わからなかったからです。
 このような作家が、あんなにも人気があるとは、僕には理由がわかりませんでした。
 僕の感覚では、日本で一二を争う人気作家である、という印象です。それにノーベル文学賞にも、僕の記憶によると、何度かノミネートされているようです。いったい何が人々の心をつかむのか、理解に苦しみました。

 しかし、この『東京奇譚集』を読んで、僕の中の、村上春樹を拒絶している氷の塊のようなものが、少し溶けて、その氷全体がぐらりと揺れたような気がしました。

「村上春樹……、いいかも知れない」

 僕が、村上春樹を拒絶してから年月が経過したからでしょうか。歳を重ねたせいなのでしょうか。それとも、たくさんの小説を読んだ後だからでしょうか。とにかく僕は、がぜん、村上春樹という小説家に興味がわいてきてしまいました。
 これは、大変なことです。
 村上春樹は、これまでに、たくさんの小説を世に出してきました。ぜんぶ読破するには、そうとうな時間がかかります。
 僕の読書ペースは、ひと月に六冊程度です。
 ずっと村上春樹ばかりを読んでいては、飽きてしまうので、別の小説家の本も読むでしょう。
 それに更に、読破しようと思っている小説家が、もう一人いるのです。
 山崎ナオコーラさんです。
 あ、あと、アイドルグループNEWSの加藤シゲアキさんの本も、もう一冊、とか、あの人も、この人も、あれもこれも……。なんてことになっていくと、僕のこの後の人生は、おそらく、そうとうな勢いで読書一食に染まっていくでしょう。
 僕が、Kindle Paper White が欲しいと思い始めた、大きな理由の一つに、食事をしながらテーブルの上に置いて本を読み進めたいというのがあります。僕は、読むのが遅いので、食べ物を咀嚼している時間すら、読書にあてないと、たくさんの本を読むことができないのです。

 そんな感じで、要するに『東京奇譚集』は、思いのほか面白かった、という事です。

 そして、ひょっとしたら僕は、ハルキストの世界に一歩足を踏み入れたのかも知れないという事を書いて、読書感想文を終えたいと思います。






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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まあ、まず、最初にこの言葉を書いておこう。

面白かったです! 楽しんで読めました。


そう書いた上で、いろいろ細かい感想を書かせていただきます。

この後は、

ネタバレになるかもしれないので、
お気をつけください。












まず、
よくもまあ、こんなに登場人物の多い複雑な話を、まとめ上げたものだな、と作者に感心しました。

十二人を、性格的に描き分けるのって大変だろうな。
正直僕は、途中で混乱して、わからなくなってしまいました。

「あれ、バカっぽい子は何て名前だっけ? ゴスロリの子は誰だっけ?」

というぐあいに。僕の記憶力は、本当に頼りない。

読むのに時間をかけ過ぎたのでしょうか。
中盤にさしかかると、前の部分のことをかなり忘れてしまってました。

でも、分厚い本ですからね。
それなりに時間はかかるでしょ。
仕方ないですよね。



で、読み終わって感じたのは、僕は、人のマインドに興味があるんだなってこと。
マインドっていうのはつまり…、その人の心根、心情、生き方とか、でしょうか。

何がどうして、どうなった、とか、あの謎は、このようにして解かれた、とか、
ストーリーの部分には、関心がなくて、登場人物が、どういう人間なのかということに興味が向くらしい、という事がわかりました。

だから、純文学作品が好きなんだろうか。

うん、そうなんでしょうね。
この『十二人の…』は、純文学作品じゃないですからね。
どちらかというと、あまり好きではない部類の小説かな。
面白かったけど。


純文学というのは、僕が理解しているので正解かどうかわからないけど、結局、ブログみたいなモノだと僕は思っています。作者が、自分の考えをつらつら書いたブログを、読者は読む、キホンはそれだけ。

で、文章のはじめに、「太郎は思った。」とかって書いてから、書き始めると、それは純文学という小説になるのではないか、って勝手に解釈してます。

主人公が思ったこと以外にも、行動したこととかも書いて、それらを通して、作者が考えてること、わかったことを、こだわっていることを文章に起こしていく、それが純文学なのではないか、と。


僕は、そういうのが好きです。




あと、十二人いるってことで、十二人の人生を書かなくてはなりませんよね。それが原因なのかわからないけど、一人一人が薄っぺらになってしまっているなと、僕は感じました。それぞれの人物の表面の情報だけを表示するに終わってしまっている気がしました。

でも、そもそも、十二人いるからって、それぞれの人生を長々と説明する必要があるのかという点では疑問です。その必要はないのでは、とい気もしてきますね。どうなんでしょう。


とにかく、最後まで、一気に読めました。

実際は、一気にじゃなくて、休み休み、何日もかけて読破したんですけど。

だから、楽しんで読めたのではないか、という結論です。


この小説、映画も公開中らしいけど、この話が2時間以内におさめるために、また縮めたりカットしたりしたものになるのかと思うと、あまり見る気がしません。


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ありがとうございました! <(_ _)>


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お昼の時間は、とっくに過ぎていたんだけど、
なぜか僕は、お腹は減ってなかった。

でも、食べてしまわないと、腰を据えて仕事に取り組もうという気持ちになれないので、
キッチンへ行って、冷蔵庫からキャベツや玉ねぎ、ぶなしめじを取り出して、
まな板の上に並べて、無理やり準備を始めた。

おそらくとんでもない量のスギ花粉が舞っているので外に出たくなかったから、
肉を買いにも行かず、肉無しのスパゲティナポリタンを作ることにした。

外に出なければ、お金も使わない。
いい節約になる。



食事中。

最近はもう、テレビをつける気にもならない。
テレビに何の情報があるのだ、と、僕は、かたくなに見ることを拒んでいる。

文庫本を、ぐいぐいと力まかせに開いた形に形状記憶させ、
コタツのテーブルの上にべたっと広げて、手を使わずに紙面に目を落とす。




一冊の文庫本の中に、小説がふたつ収録されている本がある。

僕は、それが苦手だ。

やっと最初の小説を読み終えたからといって、
一冊を読み切った事にならないのが嫌だ。
ゴールの前に、「仮ゴール」が設置されているようだ。

「このゴールテープ、何ですか?」

そう質問したくなってしまう。

最初の小説の登場人物のこととか、ストーリーのこととか、
ラストシーンの感じとかも頭に残っているので、
すぐ次の小説に突入できない。

親子丼を食べ進んでいくと、
どんぶりの底に、ティラミスが置かれていた、みたいな気持ちだ。

いやちょっと例え話を間違えた。
かなりカオスだな、それ。

親子丼を美味しくたべたのに、
まだ美味しい別のものを食べなければいけない。

そんな感じ。




僕は、そんな時、時間を置く。
そういう人、多いんじゃないかな。

それしか、解決方法は、ないでしょ。



僕は、本を読んでると、
たまに、ふっと集中力が切れて、
自分の視界の焦点が合ってない事に気がつく。

僕の、読書する時の癖だ。
そういうゾーンに入り込むと、読書そっちのけで、
妄想が走り出してしまう。

今日は、実家で、父親が亡くなるところを想像したりした。

亡くなったその当日、親戚が集まって悲しみに暮れる中、
一人の訪問者が玄関にあらわれる。

「あのう、こんな時に、すみません。わたし、お父さんにお金を貸していたものでして」

聞くと、借用証書も何も作っていないという。

僕は怪しいと思い、断ろうとするが、
母親が、お金を渡そうと家じゅうを探し始めるのだ。

僕は、その人に
「当人は、もう亡くなっているので、借金は無効です」
と言おうと玄関へ向かうのだが、親戚ぜんいんに羽交い絞めにされて進めない。

そんな妄想の中、僕は、お昼ごはんを食べ終わった。


ごちそう様でした!





長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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残業をしたのは何年ぶりだろう。

「あとどのくらいで終わりそうですか」

ときかれ

「このまま続けると、朝四時くらいまでかかりそうです」

と僕は答えた。

ひょっとすると、今日の作業は、これで終わって、残りは明日にしてください、と言われるかとも思っていたんだけど、

何とかこのまま頑張って、上げてもらいたい、と返事がきた。

僕は、翌日は、休みだったので、仕事が延びる事は問題なかった。
だけど、先方が、翌日までは延ばせないという事だったので、

「了解しました!」

と元気がいいふりをして、作業を続けた。


 元気のいい返事をしたのはいいけれども、実は元気はなくて、
僕は、体が、どんどんだるくなっていくのを感じていた。

 昔、二十二歳のころ、僕が最初にアシスタントをした漫画家の先生が言っていたのだけれども、徹夜をすると、体中に毒の魔法を受けたようになる、とは確かに当たっていると思った。

 しかし、その漫画家の先生は、僕がはじめてアシをした先生で、当時たしか三十二歳くらいだったと思う。
 現在の僕からみると、とんでもない若者である。
 若造と言ってもいい。

 そんな若造がのたまう「毒の魔法を受けたよう」とはいったどんな感じだったのか。



 徹夜というのは、よくわからない。

 長時間起きていたからと言って、きつくなるとは限らないのだ。

 朝六時までずっと仕事をして、三時間だけ寝て、翌日も、元気いっぱい活動できることもある。
 最近も、そういうことは、あった。

 だけど昨日は、朝四時まで起きて、終わってすぐに眠て、五時間ほど後に目を覚ますとものすごく体がだるくて、まだ六時間くらいは眠ることができる気がした。



             ◎             ◎



 朝食の準備をしようと、冷蔵庫を開けると、肉のパックを発見した。

 透明プラスチックで仕切られチルド室の中にあった。
 おとといスーパーで購入した、豚肉の小間切れのパックだった。
 ぎゅっと押し込められていた。

 昨日のお昼ごはん用に、買っておいたらしい。

 だけど、昨日は、急にモスバーガーが食べたくなった。
 その時は、チルド室の肉パックの事なんて、完全に記憶からなくなっていた。
 僕は無邪気に、なんの躊躇もなくモスバーガーへ自転車を走らせたのだった。

 昨日の僕は、まだ若かった。



 肉の消費期限は、今日。

 そういうワケで、朝から、肉野菜辛みそ炒め定食を食べることになった。

 食べながら、

「殺し屋を主人公に、短編小説を書いてみたまえ」

と無茶振りされた想像を、したりした。

 三題話のように、お題が、いくつかある、という設定だ。

 まず、主人公が、殺し屋であること。
 そして、場所が、BARであること。
 最期に…。


 いや、最期のお題は、思い出せない。
 お題は、二つしかなかったのかも知れない。

 食べながら、いろいろ考えを巡らせて、どんどん話はふくらんでいく。

 だけど、メモも何もできない。
 食事中だったから両手は、ふさがっている。

 そして、食べ終わったころ、ほとんどすべて、記憶から消えていた。



 僕の頭の中には、お立ち台がある。
 色は、赤。
 直径1メートルの円筒形をしていて、高さは70センチくらいだ。

 お立ち台の上に、思いついたことが、トンと飛び乗る。
 だけど、次の瞬間、別のことを思いつくと、そいつがトンと、お立ち台に飛び乗る。
 お立ち台の上には、二人が同時に立つことは出来ないので、最初に飛び乗った者が下りなければならない。

 そうやって、いろんな考えが、トンとお立ち台に乗っては押されて下りる。
 僕の頭の中では、そんな事が繰り返されている。

 そうして、食事が終わって歯をみがき、
洗い物をすませ、珈琲を淹れてPCの前にくるまでに、
トン、トン、トンと何度も何度も入れ替わり、
指先がキーボードに触れたときに、トンとお立ち台にいる者が、
記録してもらえるという仕組みだ。




そんな、休日。




今月から、草野球が始まるので、今日はぜひとも、走りたい。

走らなければ、いけないだろう。

 

 ごちそう様でした。







長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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世のなかで起こるすべての事は、まるで意味がない。


よって、朝からニュースをチェックする必要などない。

何が起きようとも、いつかは消えていく。
誰が総理大臣になろうともいつかは変わる。

隣の家の住人だって、
かつては口うるさく言ってきたけども、もうこの世におらず、
今は、住人のいない空き家となっている。

最近、
どこかの誰かが何かの違法薬物をやって逮捕されたが、
その男が有名な芸能人だとかで大騒ぎになっている。

そのニュースだって、戦争なり大災害なりが起これば誰も見向きもしなくなって、
ほとぼりが冷めたころに、彼はまた、テレビに出るようになるだろう。

世のなかの動きなんてものは、だいたい一年に二回ほどチェックすれば済む。

一カ月に一度でも、頻度としては多すぎるくらいだ。


このあいだまで指先がじんじん痺れるほど寒かった仕事部屋も、
今日は、朝から汗ばむほど暑い。

世間の動きをじっと観察することなど、ほんとうに意味のない事であると、今朝、急激に実感した。

いや、以前から、そういう考えは持ってはいたんだけども、今朝ほど実感したのは初めてだ。

雲一つない青空の下、雷に打たれたようなショックを受けた。


ついに、頭がいかれたのか、と思われているかも知れない。
だが、もう少し時間潰しをしてはみませんか。

たとえ話をしよう。

縁側に座って、一日中、じっと空を観察している人がいたらどう思うだろうか。

それを一年中、あるいは、物心ついてからずっとずっと繰り返してきた人がいたとしたら、どう思うであろうか。

その人は、その行為によってお金をもらっている訳でもなく、
つまり、気象関係の仕事をしているワケでもなく、
そういう趣味趣向があるワケでもないとする。

通常は、
あの人は、大丈夫なのだろうか。
頭が、どうかしてしまったのではないか、と思うだろう。

それが知り合いであったなら、
注意しに訪ねるかもしれない。

しかし、
空の様子の移り変わりをじっとじっと長いあいだ観察し続けることと、
毎日まいにち、世の中の変化をチェックし続けることとの間に、
何が違いがあるだろうか。

そんな、小さな変化を、
毎日まいにち、全国民に、全世界の住人に発信しつづけているマスコミの皆さん、
朝早くから準備をして、テレビカメラの前で原稿を読んだりアドリブで喋ったりしているキャスターの皆さんは、ほんとうに大変な仕事だと思う。
心からご苦労様です、と言いたくなる。




自分は、
いったい、何をしているのだろうか。

この人生において、いったい何をしているのだろうか。

そして、すべての人間は、

この世界で、何をしているのだろうか、と考える。



答えは、ひとつだ。

世の中の動きなど、何でもないと考える僕の答えは一つ。




何もしてない。


だな。

それしかない。


僕は、何もしていない。


生まれてから、何もしていないし、これからも何もせず、
そして消えていくだけなのだ。






以上、今日の朝の日記でした。

さて、今日も、コーヒー淹れて、仕事の準備にとりかかるかな。




長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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偽善者とは、

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。 また、これを行う者は偽善者とよばれる。
Wikipedea「偽善」




僕は、善良でありたいというよりも、善良であると人から思われたい。

「あの人は、いい人だ」
「あの人は、誠実な人だ」

と言われたい。

それはもう、世界中の人から言われたい。
だから、そう言われるようにしている。
そう振舞っている。
ネット上でする発言も、そのような思考回路を通して決定している。

だから、完全なる偽善者だ。

確信的偽善者だ。

偽善者レトリィバァだ。



狭い個室に閉じ込められて「おまえがやったんだな」と刑事さんに迫られたら、
「ハイ、かつ丼でお願いします。せっかくなので大盛で」と答えるだろう。

違った。

「ハイ、わたしがやりました」と答えるだろう。

っていうか、狭い個室の入口で自供する。


「あなたは偽善者だ!」

と、よく、人を罵る(ののしる)目的で発言する人がいるけれども、
ほとんど全ての人が偽善者なのだから、それって何の意味もないんじゃないか?

そもそも、そう発言する人は、自分のことを善人だと思っているのだろうか。

正面きって問いただすと、思っていないと答えるだろう。

ならば、偽善者なのか?と問えば、それも違うと答えるだろう。

他人に、「あなたは偽善者だ」という言葉を投げかけるくらいなので、
まさか自分自身も偽善者だとは思っていないだろうと僕は思う。

ならば何なのか。

善人でもなく、偽善者でもない。
となると、悪人なのか。

偽善者がいるということは、偽悪人だっているはずである。

悪であると偽っているということは、その人は善良だ。
善良な市民だ。

なるほど、悪党でありながら陰では子犬をかわいがる、というアレか。


つまりは、見た目、悪党に見える人が善良な市民で、
ぱっと見、善良な市民に見える人が悪党だという理屈だ。

今まさに、僕の頭は混乱している。


まとめてみよう。

世のなかに「善人」などは、存在しない。

「悪人」もしかり。


いるのは、「偽善者」と「偽悪人」だけである。



ニセモノだらけの世界。

僕は、仮想的な、疑似的な、バーチャルな世界に囲まれているのだった。








長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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今日のお昼ごはん

近所のカレー屋さん
西荻窪 CURRY BAR シューベル「三種盛りカレー」。

ごちそう様でした!




ということで、行ってきましたけども、

妻に呼ばれて壁を見ると、

こんなメニューが。



このお店は、辛さが選べるんです。

ブラジル が、5辛。

サハラ が、10辛。

とレベルが上がっていって、最後、何?  B,H  とは?


僕は、宇宙の手前 を食べたことがあります。

朝ご飯に、めっちゃ辛いスパゲティを食べていたころ、
舌も、かなり辛いのに慣れていましたから、
食べた事ありますよ「宇宙の手前」。

めっちゃ辛かった。


「宇宙」は、無理だな、と思った記憶があります。

んで、なんか最近できたのか?

「B・H」って何だろう…?


その事を、食べ終わって家まで歩く時、妻と話しながら帰ったんだけど、
妻が思いつきました。

「ブラック・ホール?」


なるほど。

ああ、たぶんそうだ。


もはや、辛さって何でしょう。
僕は、辛さってものが、よくわからなくなりました。

ザラメってあるじゃないですか。
あれ、僕は子供の頃

「砂糖の濃いやつ」

と聞いて、さぞ甘いのだろうな、と思って食べてみたんですが、
にがくて吐き出しました。


辛い、とは、いったいどんな現象なんだろう。


ひょっとしたら、人間が合法的に近づくことができる最大の危険なのではないか、と考えてしまいます。

アラスカ、や、シベリア というメニューもありますが、

高い山に登る感覚に近いかも知れませんね。

エベレスト、とか、富士山、とか。

だんだん、死の世界に近づいて行く感じ。


確かにそうですよ。

辛いものを食べるって、ちょっと遊びというか、
もっと先にある、冒険に近いニュアンスがあるんですよね。

危険地帯に足を踏み入れるみたいな感覚があるんです。

食べ物で遊ぶなって感じですけど。




一番甘いのが「過保護」というのも面白いです。


とにかく、若い人ばっかりで、若者が集まるバーみたいな雰囲気のお店でした。

ごちそう様でした!






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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ランチタイム。

地元、西荻窪に新しく開店したピザ屋さんに行こうと、妻と家を出発したはいいが、場所がわからず探し回った。

スマホで簡単に検索できるし、グーグルマップだって見ることができる時代になぜと思われるだろうけど、先に結論を言うと、今日は、休みだったのだ。

「食べログ」の地図で、所在地は確認してから向かったのだけれども、
目的の店は、シャッターが閉まっていた。

近づいてみて、はじめて文字が読み取れるくらいの紙が貼ってあって、

「本日は、スタッフ不足のため、休ませていただきます」

と書いてあった。

しかし、なぜ、その場所に、その店があることすらわからなかったのだろうか。

原因は、下りているシャッターの上の「看板」にある。

そこには、ステンレス製のようにピカピカ輝く、厚みのあるアルファベットを模した固形物が、8個、壁に固定されていたからだ。

「CLEANING」

クリーニング。

だから、僕らは、何回その店の前を通過しても、

「ここではない」

と思って、探し続けた。

シャッターのど真ん中に貼ってある紙を読まなかったのだ。


休みなら仕方がないので、僕らは、その近所にある、和風のオーガニック専門店というか、
自然な体にいい食材ばかりを使っている定食屋へ行くことにした。

店内に入ると、二人掛けのテーブルが並んでいるんだけど、それぞれが、ちょっと近い。
隣のテーブルの二人の女性が、我々とグループなのではないかと感じるくらい近い。

結果、となりのテーブルの女性二人ばかりが会話をして、
われわれ二人は無言でスマホをいじる、という形になった。


となりのテーブルの女性二人が、仕事の話をしている。

某有名企業に訪問に行ったら、オフィスがとてもきれいで可愛くて、などという話題。
その時に撮影した写真を、相手に見せたりしている。

僕は、そういう話が聞こえてくると、少しいらっとする。

人間が、いらっとした時、何が原因でいらっとしたのか、
いらいら成分分析っていう機能があって、
ピピッと表示されたりすればいいのにな、なんて思った。

その時の、僕のいらいら成分表は、

円グラフの最も大きなスペースを占めるのが、
最近、体が、舞っている花粉に過剰反応して、鼻水や涙がだらだら出てきているのに、
家を出る時に、新しいポケットティッシュを補充してくるのを忘れたこと。

補充しなくてはマズいぞ、と思ったはずなのに。


次に大きなのは、劣等感だろう。
ビジネスの話をされると、その話をしたのが男性であれ女性であれ、自分と比較するからだろうか、負けた感がある。
自分が、そういう社会に出てやる仕事をしておらず、
下働きのような仕事をしているために、気後れしてしまうのだ。


もし、自分に、有名人の知り合いなんかがいて、
その知り合いが、たまたま店の扉を開けて入ってきて、
僕に気づいて、「やあ、どうも」なんて挨拶をしてきてくれたら、
彼女たちを見返してやれるのに。などと考える。

なんという情けない考えなんだ。
自分でもわかっているけど、そんな考えを持ってしまう。

結局、僕も、そういう話をして、人に自慢したいと思う人種なのだ、情けない。

いや、彼女たちは、自慢が目的ではなかったのだけど。
それは、間違いない。



そういえば昔、
ネットで生配信している人が、こう言っていたっけな。

「人間の会話の目的は、すべて、マウントを取ることである」

マウントをとる、とは、つまり優位に立つということだ。

その言葉を聞いた時、僕は、激しい怒りと嫌悪感を感じて、
もうこの人間の放送は見ない、話も聞かない、と決意したものだが、

最近は変わってきた。


それも一理ある、と考えるようになった。


結局、ひとは、相手と比べて、優位に立つことで、快感を持つように出来ているのかもしれない。





長くなったけど、それが成分表の二つめ。

そして、店内が、むあっと暑かったこと。

ほか、些末なこといろいろ。

などなどあって、いらっとしたのだ。


つまりは、自分のせい。


ですな。


最近も、「いらいらいするのは自分のせい」というブログ記事をアップしたけど、
本当にその通りだ。

そして、いらいらするのは時間の無駄。
無駄に、集中力を欠いている時間を過ごすだけなのだ。














長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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テレビで、『カメラを止めるな』という映画が放映された。

一年くらい前に、
これは面白い!面白過ぎる!
と、世間じゅうをにぎわせた映画が放映されるというので、
妻が録画しておいてくれたのだ。

妻と一緒に、ぼくも観た。



なにやら、放映前に、

「この映画の最初のほうは、我慢して観てください。あとで、きっと面白くなりますから」

というような解説があった。

そして、映画は、始まった。


観終わった。


ストレス性の何かの病気になりそうになった。

冒頭に、ノーカット長回しのシーンが延々と続く。

その後で、退屈なシーンが延々と続く。

普段の僕なら、確実に、市長を中止して、



ああ、感じの誤変換が多すぎていらいらする!


視聴を中止して、自室に閉じこもって読書でもしているところだが、
とにかく「我慢してください」とクギを刺されていたので、我慢して観た。

その時の僕の顔は、表情がなくなり、
本当につまらないものを無理やり見させられている人間の顔だったに違いない。

ふだんから感情をあまり表に表さないんだけど、その時は、
近年まれにみる無表情であったに違いない。


観たくないものを、無理やり見るように強いられるなんて、
人間、極度のストレスにさらされて危険なのだ。

体の中に、何らかの病気が発生するかもしれない。

座りごこちの悪いイスに少しの間だけでも座っていると、
お尻におできみたいな、ぢ、みたいなものが出来てしまう。
結構すぐに。

それくらいに、人間の体というのはストレスに弱いものなのだ。

我慢してください、とは何事か。
映画を作っただけならまだしも、その後で、最初は我慢してみてくださいとは何事か。

人体とストレスの関係について、何もわかっていない製作者であると僕は感じた。


直前に、映画「バイオハザード」をパート1から6(ファイナル)まで一気に観たことも、少なからず影響していたに違いない。

とにかく、総評すると、

「この稚拙なゾンビ映画は、こういうふうに作られているんですよ、みたいなメイキング動画を見せられた」

というだけであった。

そういえば、映画が始まる前に出演した役者の一人がこう言っていたっけ

「本編は、クレジットロールです」(不正確)

それは、なるほど、と思った。



確かに、本編は、クレジットロールなのだ。

あとは、不要。


何よりも、ホラーだったのは、
この映画を、ほぼ一年前に、僕が感じた限りでは、
ほぼ世の中じゅうの人が、

「すばらしい!」
「おもしろかった!」
「サイコー!」

と絶賛したことだった。


当時は、僕はまったく見ることがなかったんだけど、

「へー、そうなんだ」

くらにしか思ってなかった。

しかし、本編を見てみて愕然とした。


「何コレ…。」


「なんでこれが、大絶賛されたの?」

僕は、世間からのズレを強烈に感じて怖くなった。

いよいよ僕も終わりなのか?

もう完全に、別の惑星の生き物同士のようになってしまったのか。

それとも、世の中が、気が狂ってるのか?

そして、その狂気は、いつか治るのか?
ゾンビが、知性を取り戻すように。

ふだんから人と会わない僕は、ますます孤独感を強くした。

世の中には、僕一人。


耳もよく聞こえない、目もかすんで、人の顔もよく見えない。
テレビのアナウンサーの喋るスピードにもついていけいない、
となってしまった老人のように。

誰に話しかけても、帰ってくるのは、異国の言葉のような
超ハイスピードの小声の言語だけ。

結果、黙って空を見るだけの毎日になる、みたいな
そんな老人に、一気になってしまった感覚をおぼえて、

僕は、ぞっとした。


この映画を、高校生が製作し、たまたま行った文化祭で上映されていたら、
僕は、たぶん絶賛しただろう。

なんて将来性のある監督だ。
すばらしい!と。

だけど、現実は違った。

この映画は、普通に大人が作った映画であり、
普通にお金を取って、日本じゅうの人が、観たのだ。



この映画は、ホラーだ。






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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ぼくは、病気かもしれない。

けれど、もしそうではなかったら、

人類は、滅亡の淵にいる。



たがみよしひさ氏の「HERO」というSF短編は、こんな言葉で始まる。

その前半部分、

ぼくは、病気かも知れない。

というところをお借りして、この文章を始めよう。




僕は、映画やドラマを見ていて、役者の演技がうるさくてしかたがない。

そういう病気になってしまったのかも知れない。

嫌演技病、とでも名づけようか。


とにかく、演技がうるさい。

演技くさいのが、うるさい。

どんなに上手い役者がやったとしても、やっぱり演技なので、
演技がうるさいと感じてしまう。

いっそ、素人にやらせた方が、いいのではないか、と思ったりもする。



例えば 30歳の男性をスクリーンに登場させて、

「え、なんで?」

というセリフを言わせるとしよう。

素人さんなのだから、そりゃ上手くはないですわな。

そこで、素人さんが、自然にそれを言える環境を整えてみよう。




「え、なんで?」

は、敬語ではない。

まず、その素人男性が、敬語をつかわずに話すことができる人物を連れてくる。

そして、カメラのこちら側にいてもらって、言葉を投げかけてもらうのだ。

鼻から台本は、渡さない。


そして、男性が「え、なんで?」と自然に発するのを待つ。

「え、なんで?」という言葉を発するまで、さまざまな言葉を投げかけてもらう。


「ちょっと、ウナギを生のまま食べてみて」

「犬を猫、猫を犬って置き換えて、この文章を読んでみて」

「逆立ちしたまま、広島まで旅行してみて」


多少、その辺は苦労するかもしれないが。




そうして、超自然な「え、なんで?」をつなぎ合わせるのだ。


それは、

「あぶない!」かもれいないし

「やめろ!」なのかも知れないが、自然なセリフだけをつなげるのだ。


なかなか骨の折れる作業になるだろう。

なぜなら、セリフは一言であるとは限らないからだ。

「もう俺たちは終わりだ」

みたいなセリフなのかも知れない。

そのセリフを、素人さんに、自然に言っていただくには、
本当に、彼らを「終わり」にしてあげなくてはならないだろう。

ああ、気が遠くなる。

全員、死ぬではないですか。



そんな想像を、いま、しています。

















長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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