あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

雨の日はコスモス畑を歩こうよ  あきオジ

2010-10-05 21:03:34 | 日記
昭和記念公園の広場です。
晴れの日もいいけど
雨の日も美しいですね。

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いつまで生きることのホヤをみがく  山頭火

(詩を意識したころから山頭火の句は引きしまった内容になっていくような気がします。それまでの酒に溺れ、それを許してくれる仲間の中で、そこそこだったのが、「死んで行くときは一人」という思いが溢れてくるのでしょう。ランプの灯を守るホヤ。もう、知る人も少ないでしょうね。)

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大家族の番組が好きでよくみます。
今日は28歳で7人の子育てをするお母さんの御父さんの奮闘記を見ました。
男らしく武骨だけれど器用な御父さん
つらい過去を乗り越えた賢いおかあさん
いい夫婦ですね。
いい子育てをしていることが分かります。

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今日は眼科検診のため夕刻まで待っていました。
それだけのことで予定が変わってしまいました。
ということで更新も遅い時間になってしまいました。
続けることは大変だ。





コスモスが揺れるさえもありがたき  あきオジ

2010-10-05 20:55:53 | 日記
どのようにしても
自分の人生は他の人に変わってもらうことはできない。
そんなことを思いながら西行の芸術を書いた本を読みました。
難しいことを考える人がいるのですね。

そんな本は投げ出すことです。
それが著者に対する親切です。

明日は神代植物公園に薔薇を見に行きたいですね。

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雨ふるふるはだしであるく  山頭火

(故郷近くまで行脚してたどり着いたときの句。こんなことができるのが、山頭火、そして、こんなことを言葉にすることができるのが山頭火ですね。ですから、こんなことを俳句にすることができるのが山頭火の個性なのでしょうね。芸術とは非日常的なことなのですね。)

もう逢えない顔と顔とでほほえむ  山頭火

(しみじみがいいですね。情緒に溺れているとかいないとか、そんなことはどうでもいいから、その状況を想起し、自分の過去のあれこれを重ねて思い起こせば、それで十分です。)


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手を隠すしゅうめい菊の寒さかな

2010-10-05 20:30:30 | 日記
いざ子ども走(はしり)ありかむ玉霰  芭蕉

(今日はいい句が見当たりません。朝のうち選んだ句なのに夕方になると、どうもその気にならない。そんなことで文句がでそうもない芭蕉の句で「まあ、いいか」)

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奈良時代を尋ねる番組があり、見ています。
かつて「過労死」を扱った歌があることを知って驚いた記憶がありますが、出土した木簡に勤務評定がありました。時代は変わっても高い方に厚い給料体系など変わらないのですね。面白いですね。

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比較するから評価があ。
でも、そんなことから抜け出したいですね。
しかも、早い年代に・・

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あふれでる言葉も消えて秋の暮れ  あきオジ

2010-10-05 07:09:18 | 日記
夏の暑さや寒さに一喜一憂して
実りの秋
今の時代
農業を取り巻く環境はきれいごとではないと思いますが
それでも自分の手で自分の育てたものを収穫できる
体感がるのですから、やりがいのある仕事ですね。

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秋ちかき心の寄や四畳半  芭蕉

(芭蕉には芭蕉が作り上げたワールドがあるのですね。しかも、きっちりと構築されているので、同じ山に登ろうとする人は大変ですね。でも、それに挑戦している。新しい景色を生みだそうとしてはぎこちなくしている。そんな時代なのですね。)

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このそらは鰯雲をそだてばしょ  あきオジ

2010-10-05 06:58:56 | 日記
彼岸花も終りですね。
一気に秋です。

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秋の空は雲の誕生するところ
生まれ
そして流れていけて行く
きっと、短命なので歌の題材にはなりにくのでしょうね。

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膝抱て寝漢顔して秋の暮  一茶

(望郷の想いとか、義母との確執。ちょっと人には見せられないような素の自分をとらえているような気がします。あれやこれや時代の子として生きてきた一茶。超越しようとしていた芭蕉とは違った距離の近さがいいですね。声を掛けると返事してくれるような気がする一茶、これを掛けても届かない芭蕉との差なのでしょうかね。)

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それぞれの秋が豊かに広がれり  あきオジ

2010-10-05 06:03:14 | 日記
あれこれ難しいことなどいらない。
最近は俳句(もどき)を作っているとき
そんなことを思いました。
芸術を求めているわけでもなく
サロンでの言葉遊びをするわけでもなく

ただ、一日の記憶として残していきたい
それだけだし、それ以上ではない。
文体などにこだわらず
形式も「とりあえず」でいい。

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ことしもここにへふかぎりの米五升  山頭火

(五升という表現、分かる人はそれなりの年ですね。むかし、米を入れたケースから米を升に入れて量って、御釜に入れたものです。ですから米櫃を知っている人なら、五升という言葉の響きや生活感が見えてくると思います。貧しさと重なる記憶ですね。みんなそんな時代を過ごしてきたのですね。)

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池の水の厚さを児等は知っている  放哉

(山頭火と放哉の句を仕分けることはできません。山頭火には情緒的な言葉が多く、過剰な感情表現もあるけれど、放哉は自分を押し殺して情緒的なことばを排除して、状態、あるいはものを表現することで主観的なものを封入しようとしている。その差異は見えますが、それが見えてこない句を並べたら、分からないでしょうね。きっと、現代短歌など作者など特定できないでしょうね。そんな世界なのですね。)

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