1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

連休の過ごし方は人其々だ

2022-05-08 21:53:00 | ゴーストライター

休暇が取れた人たちのGWの過ごし方は人其々で結構なことだと思う。

羨ましい限りだ。


養生中の身で、無理(スポーツができない)ができない自分がやりたいことと言えば、昨年来ずっとハマっている歴史の勉強くらいだ。


昨日(令和458)熊本県立図書館3階大研修室で行われた佐藤信氏の「肥後と列島・東アジアの古代史」を聴講した。


どこまでついていけるかと思ったが、これまで勉強していた成果は大きかった。

十分に楽しめたし、山ほど質問も浮かんだ。


ただ、残念だったのは、聴講者の中に蒲島県知事がいて講演時間の終了とともに佐藤先生と知事は研修室を一緒に出て行き、質問時間が無かったことだ。これは、非常に残念であった。マジ勉派にはモヤモヤが残ってしまった講演会であった。


ただ、エラそうに言うのもなんだが、県知事がマジメに聴講していたことは評価したい。

というのは、大陸と島嶼の海洋を挟んだ世界観から熊本を観る時、熊本の高官が肥後の古代史の知識を抜きにして、現在のことを語るのは極めて薄っぺらい行為になるからだ。


折りしも、国策の一環でTSMCの熊本進出が決定し、本年4月には基礎工事が始まり再来年には本格稼働が予定されている。


熊本に世界最先端の技術が海を渡って導入される。

これは古代においても同様であったのだ。

おそらく、未来においてもだ。


肥後、熊本とは地政学的にそういうおクニ柄なのである。


想像したくないが、しかし、第三次世界大戦となった場合、このおクニ柄がリスクになることを忘れてはならない。


熊本の高官には期待している。


そう言えば、去年の今頃は、MS-06系に夢中だったなぁ。












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記憶と誓い

2022-05-04 21:15:26 | ゴーストライター
GWも中盤を迎え、皆様には記憶に残る良い休日をお過ごしのこととお察ししたい。
一方、不肖西には、こんなにゆっくりとした時間を過ごしつつあるGWの連休は記憶にない。

そう、記憶にないと言えば、心臓発作で昏倒した令和4年4月10日だ。
丸1日がすっぽりと欠けているのだ。

前日の4月9日は53歳の誕生日で、お昼は火の国サラマンダーズの試合を藤崎台球場に観にいっていてその試合内容が記憶にはある。夜は妻と近所にイアタリアンを食べに行き、その時食べたメニューも思い出すことができる。

しかし、4月10日のことは全く思い出せない。
妻が言うには、午前中は車のタイヤ交換で出かけていたのだそうだが、その記憶がない。ランニング中に昏倒しているのだが、その途中で苦しくなったとか前兆のようなものを感じた記憶もない。
ただ、入院中にその日の気象データを見ることで思い出したことがあった。
その日は、四月の初旬としては温かく乾燥していたことだ。
妻が後に話してくれたことによれば、その日は珍しく給水用のボトルを持参して家を出たとのことだった。私は、まだ、十分に温かい時間に家を出発したのだ。

そして、入院中にもう一つ思い出したことがあった。
4月10日の記憶が無かった自分は、何か記録に残してあることが有りはしないかと、スマホの中身をチェックしたのだ。すると、4月10日付けの画像があったのだ。
花の写真を撮るなどのメルヘン文化精神は具備されていないにも関わらず、なんと、ツツジの美しい画像があったのだ。しかも、その撮影場所はいつも折り返す予定地点の交差点よりも更に1km弱進んだ先だった。
私は、その画像を見つけるまで、昏倒を起こした時刻や場所は、日が暮れて暗くなった時間の近所の人通りの多い通称第二空港線と思い込んでいた。
しかし、ツツジの画像を見つけたことで、その日は明るいうちに走っておこうと思って家を出発したことを朧げながら思い出したのだった。

そして、退院してさらにわかった事がひとつ。
4月10日13:54で保存されたクソ文書。
ここでは詳しく書かないが、日本史に関する考察を「弥生時代中期を出発点とし現代に至る日本史に通底する精神的背景とバックグラウンド」的なことを書いていたのだ。確かにそのようなアイディアが浮かんでいたような気がしないでもないが、おそらく、その文書の夜の完成を見込み、気分転換を兼ねてランニングに出たのではないだろうか。

前置きが長くなった。

昨日(令和4年5月2日)、熊本市消防局益城西原消防署を訪問した。
自分自身に起こったことの経緯を確認するためだ。
私は着用型AEDを装着しているため、車の運転は御法度。
妻の運転で消防署へ向かった。

対応して頂いたのはK永署長、M田副署長、Y本警防課長の3名だった。
残念ながら実際に救命を行った隊員の方々に会うことはできなかった。彼らは私たちの到着と入れ違いに救急車とポンプ車が出動していったところだった。

私は、応接のソファで姿勢を改めて正すと、この度の件について、妻と頭を下げて謝意を伝えた。そして、病院で行われた処置、その予後や現在の健康状態について説明した。

署長をはじめとする副署長、課長様には本当に良かったと言って頂いた。そして、元気な姿で来署頂いたことは、救命活動を行っている隊員の今後の士気向上にもつながることとして感謝のお言葉さえ頂いた。

そして以下の説明を受けた(主治医のM永先生からの説明も含む)。
通報入電時刻  16:58
救急隊到着時刻 17:06
発生場所 上益城郡益城町馬水167「キムチの里」直売所東側路上
通報者 益城町在住 M下 氏(男性) 及び連絡先

そして、通報者のM下氏は第一発見者ではないことを知らされた。

「では、どなたが救急隊が到着するまでのあいだ、救命措置を行なってくれたのでしょうか。」

現場では、私が心肺停止状態で一刻を争う状況であったので、通報者以外の人物から話を聞く余裕はなかったとのことだ。

心臓発作(致死性不整脈)が発生したあと、電気ショックを受けて心臓が拍動するまでの時間が、その後の生存率に大きく関わっている。一般には拍動の開始が1分遅れるごとに生存率は7〜10%ずつ減少すると言われている。5分で生存率は50%だ。
通報から救急隊到着までの時間は8分、この時間から考えられる生存率は約20%になるが、発作が発生した時刻や拍動までの時間を加味すれば生存率はさらに下がる。

救急車両では2度目の電気ショックで心臓が動き出したとのことだった。

5 日目に意識を取り戻したとき、主治医のM永先生から私が生存していることは奇跡だと言われ、存命に一番寄与したのは、第一発見者による救急隊到着までの間続けられた胸骨圧迫(心臓マッサージ)による救命措置だったと聞かされていた。

西原消防署としても、救命措置を行った人物について何らかの手掛かりはないものかと管轄の御船警察署にも相談したそうだが、その人物に繋がる情報は得られなかったとのことだった。

そして、本日(令和4年5月3日)、通報者であるM下氏に連絡をとった。

M下氏によれば、
西原方面に向かっていた車が路上に急停車し、そこから人が出てきたことで、歩道に人が倒れていることに気がついたとのこと。駆け寄ると車から降りてきた40代と思われる男性から救急車を呼ぶように指示されたとのことだった。その男性は直ぐに心臓マッサージを始め、救急隊が到着するまで続けたそうだ。
倒れていた私は、呼びかけに応じることは無く顔面からは出血が始まっていて、とにかく、救急車が到着するまでの時間が途方もなく長く感じられたそうだ。
そして、私が救急車で搬送されると、その人物は多くを語らず車に乗ってその場を離れたとのことだった。もちろん、M下氏にとって、その人物は見ず知らず。ただ、乗っていた車が特徴的だったそうだ。

「白のベンツの4駆でしたよ」

おそらく、メルセデス・ベンツGクラス、だ。

第一発見者による適切な処置と指示。奇跡的な生還と意識回復後に感じた胸部の肋骨痛。目撃された高級車種。
これらのことから類推される人物は、医療関係者ではなかろうか。
激感謝だ。

しかし、私がこうして命を繋ぐことができたのは、第一発見者だけでなく、救命を行う社会システムと現代医学、それと高度な看護の連携にほかならない。

救われた命、大切にすることを誓う。

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【本当の安静の理由】

2022-04-29 11:51:25 | ゴーストライター
【本当の安静の理由とは!?】

GW突入の本日、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?
連休中にはいろいろと計画を立てておられる方も多いと思う。不肖西もゴルフ、キャンプ、プロ野球観戦、山の手入れなど、計画がめじろ押しだった。
しかし、全てキャンセル。当然だ。

今回の一件で多くの方から心温まるメッセージを頂いた。
そして、無理をするなという御意見には真摯に耳を傾けなければならないと思っているところだ。

ただ、実のところ、退院にあたり「運動の制限」は無くなっているのだ。
不整脈も無く、血圧も安定し、血液検査も問題なし。後遺症も無し。体力は十分。
つまり、検査結果が全て「白」だったからだ。
これらの結果を受けて、反知性的なもう一人の自分がシメシメと思ったのは事実である。


ナースステーションでお別れの挨拶をした。
ステーション隣の病室にいた看護師で柔道家のSさんがパソコンカートとともに廊下に出てきた。
「西さん、まだ走っちゃダメですからね!」
無理は禁物と念を押された。そして直ぐに切り返した。
「Sさん、こぎゃんもんば付けとったら走ろうにも走れんって!」

そう、こぎゃんもんとは画像に示す「着用型AED」、正式には「着用型自動除細動器LifeVest(ライフベスト)」だ。主要パーツは電気ショックを与える電極、センサー、バイブレーションボックス、コントローラからなり、重さはざっと1.5キロ。コントローラは重く、これをぶら下げて走るのは困難だ。せいぜい犬の散歩の早歩きレベルまでだ。

呼んで字の如く、このライフベストは心臓発作が起こったらそれをセンサーが感知し、自動で電気ショックを与えて救命を図るというシロモノだ。電気ショックの前には警告音が鳴り、意識がある場合にはキャンセルもOK。しかし、入浴以外の時間は装着の義務がある。約2ヶ月間の6月末までだ。
センサーによるデータは常時取得されいて、1日に1回、バッテリー兼メモリー媒体から充電器兼モデムを通してアメリカのデータセンターに送られる仕組みだ。

救急搬送時の検査で冠動脈の狭窄(プラーク付着と推定)が確認されたため血管を拡張するためのステント治療が施されたらしいが、その時点で完全な閉塞が生じていなかったことが心臓へのダメージが無かったことの理由ではないかと説明を受けた。しかし、何が原因で昏倒してしまうような心室細動(心臓発作)が起こるような虚血が生じたかについては疑問が残るとのことだった。何故なら予後の検査でも動脈硬化を示唆する脂質異常や高血圧がみられなかったからだ。

さて、ここで明らかにしておかなければならないことがある。
実は、昨年の夏に、胸に違和感や息苦しさを感じて2回かかりつけ医にかかっていたのだ。

1回目は令和3年7月19日、2回目は令和3年8月23日だ。
そして、8月24日または25日に市民病院で精密検査(トレッドミル負荷試験)を受け、その結果を26日にかかりつけ医に報告している。
この一連の診察や検査で胸に感じる違和感や息苦しさは、冠動脈が勝手に痙攣して収縮を起こす狭心症の一種である「冠攣縮性狭心症」が疑われたのだった。
この「冠攣縮性狭心症」の症状は、労作時よりも安静時、特に夜間から早朝にかけて生じることが多く、自分が感じていた胸の違和感は、確かに就寝時や午前の早い時間であった。一方、ランニング中には一度も感じたことがなかったため、特にランニングを続けることが健康を損なうこととは思っていなかった。ただ一抹の不安があったのは事実で、できるだけ安全なランニングを心がけていた。
そして、昏倒を起こす令和4年4月10日を迎えたのだった。

昨日(令和4年4月28日)、入院先の主治医であるM先生が記載した診断書や各種検査結果資料を携えて、かかりつけ医のG先生のクリニックを訪ねた。

クリニックを訪れたとき、その時間帯は新型コロナ感染症のワクチン接種時間に当てられていたが、事情を話してしばらく待っていると、G先生から直接診察室に呼ばれたのだった。

診察室のカーテンを一緒にくぐりながら、同情気味の表情で
「hiratakuwaさん、大変でしたね」と言われた。
G先生は先に提出していた資料に目を通していたようだが、椅子に腰掛けると、それを再確認するように私の話を聞きながら書類に目を落とし、場合によってはそれを指で追いながら音読してくれた。一方、私は、術後一週間後から昨日はまで記録していた自身のバイタルデータを示し、異常はなかったことを報告した。

G先生は、入院先で施されたステント治療は、症状からすればごく一般的な療法で問題は無いとしながらも、冠動脈に致死的な虚血が発生するような狭窄が発生したことが8月の検査で予見できなかったことを大変訝しんでいた。
その理由は
①もし、8月の時点でこのような狭窄があれば負荷試験の心電図に表出されていてもおかしくないこと。
②8月の時点の検査で見過ごしがあったとしても、こんな短期間で狭窄(プラークやアテロームによる)が形成されることは稀であること。
③血液検査やバイタルの結果は直近まで良好であったこと。
が挙げられた。

「先生、どうしてこうなったかについては、あまり考えないようにしますんで、気にしないで下さい、私は、これから先のことをを考えることにします。」

この言葉は、入院先で知り合った補助人工心臓装置を付けた重度の心臓疾患(通称:VAD患者)のUさんが私に送ってくれた応援の言葉でもあった。

しかし、技術者として、ここに附録しておかなけらばならないことがいくつかある。

新型コロナ感染症のワクチン接種日だ。
1回目は、令和3年7月14日ファイザー
2回目は、令和3年8月4日ファイザー

そして、医師以外の多くの医療関係者から聞かされた肌感覚として感想だ。
「最近になって、心疾患の患者さんが多くなっているように思います」

私の身に起こったことが、コロナワクチンと関連があるかどうかはわからない。
しかし、そのリスクについて考えることは自分にとって極めて重要だと考えている。

一般に、急性心筋梗塞で心臓に強いダメージを負った場合だと、最初の発作で命を取り留めたとしても3ヶ月以内に不整脈や合併症によって亡くなるケースが多いという。
私の場合は心臓にダメージは全く無く、ステント治療やそれに続く薬物療養によって心臓発作(心室細動)のリスクは格段に下がったと言える。治療を行ったM先生も自信を持ってそう言ってくれた。

しかし、本当にそうだろうか。冠動脈の治療したところとは別の箇所で、突然、プラークやアテロームによって狭窄が発生する可能性はないのだろうか。冠動脈の痙攣の恐れが完全に排除されたわけでもない。

だから、もしもに備えて着用型AEDを装着しているのである。
本当の理由はソコにあるのだ。
答えは2ヶ月後だ。安静を心がけなければならない。

「とにかく、今できることは、健康管理を徹底することですね」
「そう思います」

そして、本当の答えが出るのは10年くらい先になるのかもしれない。


画像は着用型AED、冠動脈狭窄のステント治療のイメージ図、それと入院時のバイタルデータ。
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【「恐怖」「幻覚」との闘い、そして「感謝」】

2022-04-29 11:22:40 | ゴーストライター
個室に引っ越しできた15日はそれなりに忙しかった。
心臓エコー検査、認知機能の検査。血液検査。荷物の受け渡し。部屋の模様替え。M﨑事務副部長の来室・挨拶。洗濯。入院以来、初めての洗髪などなど。このように用事があれば気が紛れるのだが、やはり少し時間ができてベッドに横になると昨晩のことを思い出さずにはいられなかった。

この時点で、自分が昨晩見たものは「せん妄」の一種と思っていたし、実のところ「せん妄」については若干の知識があった。
それは、既に亡くなって10年以上経過するのだが、当時、高熱を発して入院していた祖母(認知症ではない)の訴えを聞いた経験があるからだ。祖母は、夜に病室で起こった出来事を誰も信じてくれないと、見舞いに来た私と妻に訴え、その内容を自分たちに言い聞かせてくれたことがあった。
その内容は、確かに信じがたい話しではあったが、その克明かつ詳細な説明に対して、「それは、せん妄だから気にする必要はないよ」と一言では片づけられないようなリアルさを感じたことがあったのだった。
そんな祖母のことや自分の身におこった昨晩のことを思い出しながら「せん妄」とは一体何を意味するのかを考えてみた。

結論から言うと、人間に限らず動物に備わった重要な生命維持装置の発動の一種ではないのだろうか、ということである。
つまり、簡単に言うと「せん妄」とは現実の最悪の現場から、ドコでもいいからココではないドコかへ逃避を促すための脳が発動する最終信号ではないのかな、ということである。
この「逃避」によって命を落としてしまうという最悪な場合もあるだろうが、「逃避」によって助かる確率が高まるのであれば「せん妄」によって狂っていたほうが良いのではという考え方である。

まぁ、どうでもいい話しだ。

前置きが長くなった。
個室に引っ越してきた最初の夜。消灯時間となり病室が暗くなった。
明るい時間に感じることがなかった恐怖が昨晩と同じように襲ってきた。

部屋の入口にはカーテンがあるのだが、そのカーテンの裏に人が今にも現れて自分を襲ってくるのではないかという猛烈な恐怖感だ。体中の毛という毛が総毛立ち、しかもそれが首元から足先に向けて波打つような感覚なのだ。全身から脂汗も出ていたのではないだろうか。
意識の中のもう一人の自分は、この病室に誰かが入って襲いかかるのはあり得ないと分かっているのだが、思考の大部分は恐怖に満たされていたのだ。

その昔、薬物依存者が離脱症状によって生じた妄想から逃れるために、他人の家に逃げ込んだという内容の新聞記事か何かを読んだ記憶があったが、それに近い症状だったのかもしれない。

ナースコールのボタンを押した。

直ぐに若い女性の看護師さんが入ってきた。

「どうしましたか?」
「とにかく、、、怖いです、、、どうすれば、、、」
「ちょっと、待っててください」

そう言うと看護師さんは部屋を出ていった。
恐怖に怯える50過ぎのおっさんに対応するのは若い女性看護師には難しいことと思う。
私だって、正直、「キミには期待していない、他の誰かを、」と思ったくらいだった。

次に部屋に入ってきたのは若い男性看護師だった。
伸長175cm以上で体躯がよく存在感のある若者だった。
助かったと思った。

私は目下の苦しみを彼に正直に話した。

「hiratakuwaさんが寝付くまで、自分がここにいますよ」
本当に心強く感じた。

それから、彼は治療情報等(電子カルテ)を入力するパソコンカートを持ち込むと、部屋の入口に腰をかけて業務をするかたわら私との会話を進めるのだった。

そして、私たちはお互いの自己紹介から始まり世間話、今となっては笑い話になる昔の失敗談など、とにかく少しでも「恐怖」から遠のいた話題を必要として、言語と過去の記憶で「恐怖」を追い払おうとしたのだった。

どのくらい会話を続けたのかはよく覚えていないが、心に平穏が訪れつつあることが感じられたとき、彼に大丈夫そうだと告げた。彼はパソコンカートとともに部屋を出ていった。

そして目を閉じると、瞼には昨日見たものと似たような美術の世界が広がりはじめ、自分は眠りに落ちていった。

そして、それは突然の出来事だった。
目が覚めると、ベッドの足元側の床で、誰かが寝ているではないか!嘘だろっ!
すると、今度は床から人が生えてきたのだ。しかも3人!。私のベッドを囲むように現れ、それは全員が4等身で黒いチューリップハットをかぶったノッポさんだった。
その3人のノッポさんが自分のベッドの周りをカニ歩きよう右にいったり左にいったりに全く同じ行動を無言で繰り返すのだ。
ショックで我に返ると暗い病室のままだったが、現実よりも鮮明なノッポさんがいる病室の情景が脳裏に焼き付くと同時に、次は戦場に送り込まれ歩兵部隊として銃撃戦に巻き込まれ私は瓦礫や林の中を必死で走っているのだ。

こうして文章にすると単なるユメの説明にしか感じられないと思う。
しかし、そのときは、ユメとは全く異なった質感を感じていて、意識が戻ってもその別の世界のほうが現実の世界なのではないかと思うくらいなのだ。そして「恐怖」が心に強く張り付けられた状態になるのだ。

ナースコールのボタンを押した。

女性の看護師さんが部屋に来て部屋に電気を点けていった。
コールスピーカーから彼の声が聞こえてきた。
「今、別の患者さんの処置をやっているのであとから来ます!」

自分一人でこの恐怖を克服しなければならなかった。
眠りに落ちる前に学んだ言語とイメージで「恐怖」を焼き払うことを試みた。
必要なのは「笑える」話しだ。それもとびっきりのビッグな笑える話を思い出す必要があった。そして、それを必死で言語化した。内容については書かない。

起床時間となる6時過ぎには落ち着きを取り戻すことができた
7時頃に彼が来てくれた。
彼に状況を話し、もう大丈夫と伝えた。しかし、こういった感情の起伏は16日の夕方まで続いたのだった。その後、精神的ダメージは、身体の快方とともに回復していった。

18日以降は、部屋からの出入りも自由になり、心臓リハビリも順調に進み27日(水)には退院の見込みだ。

さて、皆さんには本当にご心配をかけました。それから現代医療のスゴさ、それに携わる人たちの献身的な看護の姿には感銘を受けました。本当にありがとうございました。

参考までに、意識回復後の精神状態を自分なりに考えて見える化したグラフを披露します。
赤線の振幅の振れ幅が大きいほど不安定であることを示しています。次第になだらかになって落ち着きを取り戻していったことがわかると思います。このことからも、自分が感じた恐怖や幻覚は強い鎮静剤からの離脱症状であったことがわかります。ただ、14日の夜に聞いた「死ねっ!」については看護師さんの証言もあり、幻聴ではなかったことが後にわかりました。

なお、18日(月)からはちょっとしたリモートワーク、自身のバイタルデータの分析、厚生省が発表している人口動態統計のデータ分析をしたり、SNSをしたりして時間を潰していました。分析結果については、また今度、披露したいと思います。

それから、皆さまには心温まる「いいね」やメッセージ本当にありがとうございました。
コロナ禍にあって家族とも会えない中、皆さまからのメッセージが心の支えになったことは言うまでもありません。本当にありがとうございました(涙、涙、涙)。
これからも、不肖西英典をどうかよろしくお願いします。
本当にありがとうございました。


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「せん妄」or「幻覚」、「死ねッ!」からの「逃避」

2022-04-24 13:45:51 | ゴーストライター
私がベッドごと一般病室に運び込まれたとき、4人部屋は満室となったようだった。
窓側の隅の一角には見覚えのあるARPHAの黒のリュックと紙袋があった。中には着替えや入院道具が入っていた。着替えや衛生用品の全てに苗字が記入されていて、妻が準備してくれたことがしのばれた。

朦朧とした意識の中でそれらをなんとか整理する。コロナ禍なので本当の重篤患者でないかぎり自分でやらなければならないので。しかし、時おり、むせ返るような大きな咳が出てしまい、作業の手を止めてマスクの上から口元を押さえなければならなかった。
気管挿管の影響と思われ、喉には炎症があったのだろう。咳とともに痰もでてくる。しかも痛みもある。苦しい。

先に入院していた3名の方はかなりの年配者だった。つまり大先輩だ。
バイタルの測定に来た女性の看護師さんに、こういう場合はアイサツをした方がいいのか相談したが、それは看護師さんに仲介役になって私を紹介してもらいたかったからだ。しかし、意に介されなかったため、カーテン越しから精いっぱいの声で(挿管の影響で殆ど声が出せず、出せたとしても細いカスレ声)一応アイサツをしたつもりだった。果たして、その声は届いていたのだろうか。

午後10時、管内の放送とともに消灯となった。
暗くなった病室のベッドで昼間の出来事を思い出していた。ときどき、ゴボっ、ゴボっと咳き込んでしまう。その咳き込む寸前にタオルで口元を押さえるが、静かになった病室では全く無意味だった。病室を出たい衝動にかられるが、行動制限がありそれもできない。

ところが、そういった常識的な意識とは裏腹に、脳内には奇妙なことが起こり始めていた。

目を開けているとそこは確かに病室なのだが、目を閉じると瞼には鮮明な世界が広がるのだった。美術の世界だった。

耽美な風景画や人物画、グラフィック、風景写真、ポートレート、浮世絵、水墨画、和洋を問わない建築物、仏像、彫刻、ありとあらゆる美術が自分の視界を縦横無尽に流れていくような感じなのだ。もっと分かりやすくいうと、映画「インターステラ―」で主人公のクーパーを演じるマシュー・マコノヒーが物語の終盤で、娘のマフィーに重力の謎を伝えるため空間と時間を自由に行き出来る「テサラクト」という世界が描かれるのだが、その世界と激似なのだ。物語の中で行き来できる世界は娘のマーフィーの部屋に限定されているのだが、私の場合は、美術の世界を縦横無尽に飛んで移動しながら様々な作品に触れることができたのだ。
しかし、瞼をあけると元の暗い病室なのだ。目を閉じるとすぐさま美術のテサラクト世界が広がる。
自分はその二つの世界を行き来しながら、美術のテサラクト世界は、「せん妄」の一種ではないのかと思い始めていた。(後にわかることになるのだが、これは「せん妄」ではなく、治療のために必要だった強い鎮静剤からの離脱に伴う一種の幻覚であった可能性が高い。)

そして、リアルな暗い病室に意識が戻ったとき、左胸に痛みを感じ始めたのだった。
この痛みはなんだ?、発作なのか、いやわからない、しかし、苦しさはそれ程でもないが、間違いなく痛みである。

ナースコールのボタンを押すかどうか逡巡した。看護師さんや主治医の先生には、とにかく、なにか異変があれば直ぐにナースコールして欲しいと言われていた。だが、この痛みでいいのか、そもそも痛みとはなんなのか?さっきまで自分は別世界を行き来していてこの痛みも「せん妄」の一部ではないのか、、、、

枕元にあったナースコールのボタンを押した。

女性の担当の看護師さんが駆け付けた。
「どうしました」
「胸のここらへんが、痛むような、、、」
「どんな痛みですか」
「どんな、、、?」
「締め付けらえるようかんじですか?」
「そうではないような気がします、、」

この自身のクソSNSやブログでも以前記載していることかもしれないが、その昔、私はマイコプラズマ肺炎を患い、長期間の咳き込みによって肋骨にひびが入った経験がある(軽い骨折)。

意識が戻って以来、今までに経験したことが無いような胸の奥深くから発する大咳を何度も繰り返していた。

「ひょっとすると、咳のせいで痛みを感じているのかもしれません、、ゲボっ、ゴボっ、、、」
声になるかならないぐらいのカスレ声で答えたような気がする。

しばらくして、主治医の先生も駆けつけてくれた。

病室は自分の一件で物々しい状態になっていた。
周囲の患者さんにとっては迷惑千万なことは承知していたが、助かった命を自分の判断でみすみす台無しにするワケにはいかなかった。

鎮静剤若しくは痛み止めを処方されたのではないかと思う。

丸いメガネをかけた若い女性看護師さんが処置をしているときだった。

「死ねっ!」

通路を挟んだ向こう側のベッドから聞こえてきた声だった。

看護師さんと目があった。お互いに、その声が聞こえたことを目や表情で確認しあったように思う。

全ての処置が終わり病室に静けさが戻ったが、私の心は搔き乱されていた。
考えてみれば、この病院自体が県の重要基幹病院であり、この病棟や病室には重篤な患者が入院しているのだ。しかも、対象は循環器、つまり心臓だ。入院している個々人は、いやが上にも自身の命を考えざるを得ない。そんな状況において、睡眠の邪魔をして健康を阻害する者は、彼らにとっては「敵」でしかない。ある意味、この病室は個々人が命を懸けた戦場だったのだ。私はこの大部屋においては若輩者であり、大先輩から見れば未来もある。疎まれる資格は十分だった。それはわかっていた。だから、大部屋に入室した当初からちゃんとした人間関係を作ることが、予後を考える上での最重要課題と考えていたのだ。しかし、この考えは水泡に帰した。

通路を挟んだ向こう側のカーテンがシャーッと引かれた。その音に怒気が混じっていたのは明らかだった。続いてスリッパを引きずる独特の足音が聞こえ、その音は廊下入口近くのトイレに消えた。
水洗のフラッシュ音が終わるとドアが開き、独特の足音がこちらへ近づいてくる。
私の心臓が高鳴り始めた。私は薄目を開けて様子を窺った。スリッパの音が最も近づいたと思われたとき、カーテン越しに黒い影が映りその隙間から頭部のシルエットがくっきりと見えたのだった。全身、総毛だった。そのシルエットは5秒ほど止まっていたように感じる。
もし、その影がこちら側に侵入でもしていたら、おそらく大きな事件に発展していたと思う。殺気を感じていた私は、ボロボロの身体ではあったが向かい側の男性がベッドから起き上がったときから既に防御・戦闘モードだったのだ。黒い影はどうにか向こう側へと消えていった。しかし、胸の鼓動は静けさを割らんばかりの音をあげて己の身体を揺さぶっているようだった。

そして、つまらないことを思い出していた。子供のころ、酒乱の父に寝ているところを叩き起こされて暴力を受けたことが何度かあった。何故かわかないが、そのとき、思い出したくもないクソ記憶がよみがえり、体が突然震えはじめた。

カーテンの向こうから今度は奇妙な音が聞こえてきた。ジョリッ、ジョリッ、ジョリッ、、、
刃物で何かを削っているような音だ、、、これは幻聴なのか、、?、、

私は、ついに恐怖の嵐に放り込まれたのだった。
隣人のから危害を加えられるかもしれない恐怖。
大きな鼓動音、このまま心臓が止まってしまうのでは無いかという恐怖。
クソ記憶による恐怖。

この恐怖からなんとしてでも逃れなければならない。
逃れるにはこの部屋から別の部屋、できれば個室に移るしかない。
しかも一刻も早く。でも、どうやって?。

朝を待って事情を説明して種々の手続きを済ませていたら翌日になる可能性もある。
私の切実な思いも、鎮静剤からの離脱症状による幻聴、幻覚であると一笑に付されてしまう最悪の可能性もある。
どうする、どうする、どうする、、、この病院に知人、友人はいたであろうか、、、ある人物の顔が思い出されたが、確かな名前は思い出せない、、、。一睡もできず空が白み始めたころ、悪友である高校時代に応援団長だったK久にLINEを入れた(画像のとおり)。



そして、午前の早い時間にはこちらから正式に申し込みを行う前に、個室への移動の話しがが通っていた。1階の外来で心臓のエコー検査を受けたあと、病室まで車椅子を押してくれたのは病棟の看護師長さんだった。

悪友K久、それから後輩で事務副部長のM﨑君、本当に助かった、ありがとう。

しかし、その夜経験した恐怖は自身のトラウマ?となり、個室に移っても悩まされることになった。

つづく
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再会

2022-04-22 19:44:33 | ゴーストライター
意識が回復してICUから移動した病室は西病棟6階の南向き四人部屋だった。ベッドは頭を西向きした窓側だった。

外を眺めた。
やや右手正面の駐車場を兼ねた建物屋上はドクターヘリの基地になっている。
そしてその向こう側には病院の駐車場を挟んで東西に走る通称国体道路、さらに奥には熊本県立大学のキャンパスが緑の中にあり、視野の最も奥には集合住宅が見える。そこには長女家族が住んでいる。

その日、LINEで連絡がとれた長女が、夕刻前に見舞いに来てくれた。といってもコロナ禍で直接会えたわけではない。ツツジが咲いている歩道を渡って散歩がてら孫二人を引き連れて歩く長女の姿が眼下に見えた。長女たちが足を止めて上を見上げた。私は窓辺に立って無言で大きく手を振った。しばらくして長女がそれに気が付くと、2歳の孫(女の子)に指を差しながら「ジィジがあそこにいるよ」と教えている。気づいた孫がピョコピョコと飛び跳ねながら手を振ってくれた。ベビーカーには0歳児の男の子だ。さすがに彼が私に気づくことはなかっただろうが、ここまで来てくれたことに胸がいっぱいになった。
しばらくして、彼女たちは戻っていった。大通りの横断歩道を渡っていく。どうか気を付けて帰ってくれ!ありがとう!

そうだ、お昼には妻にも会っていたのだ。後から知ることになるのだが、コロナ禍にあって例外的に面会できたのだ。ただ、そこは関係者用のエレベータ室の窓越しで、妻の声はよく聞き取れなかった。
妻は顔をくしゃくしゃにして泣き笑いながら手を振ってくれている。意識を取り戻したという連絡を受けるまでの4日間の妻の心痛を思うと、心配をかけて本当に申し訳なく思った。うれしさと情けなさで涙が頬をつたった。車いすに乗せられた自分は手を合わせて、ごめん、ごめん、と頭を下げたのだった。それしか私にはできなかった。

消灯をむかえて暗くなったベッドの上で、「再会」を果たしたお昼の出来事を思い出していた。

そして、事件はその晩に起きた。

つづく

画像は長女が撮って送ってきたLINE画像


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人口動態統計

2022-04-21 17:44:33 | ゴーストライター
人口動態調査は、国が行っているその名のとおり人口動態調査だ。
メインは人口の増減であるが、死亡者がどのような疾病等で亡くなったかを統計しているのだ。
そのデータを利用して、以下の表を作ってみた。

自分の病名はまだはっきりしていないが、急性心筋梗塞、不整脈及び伝導障害に分類される突然死型の疾病に入る。
毎年、ここ最近は6万人が亡くなっていて、対10万人あたり50人といったことろだ。簡単に計算すると日本では毎日160~170名弱のひとたちがこの疾病で命を落としていることになる。
明日は、下着型AED(着用型AED:ライフベスト)の説明を受けて、いよいよ装着の儀だ。
その上で、来週、また、いろいろなテストを受けることになっている。
明日も検査で忙しい一日になりそうだ。

#心室細動
#心筋梗塞
#心臓発作
#突然死
#生還
#心肺蘇生措置
#着用型AED
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感謝の念

2022-04-19 20:57:06 | ゴーストライター
本来であれば、このようなクソブログを書いている場合ではない。先ずは命を救ってくれた第一発見者に感謝の手紙を送付して、救命措置が無駄ではなかったことをお知らせすべきと思う。

本日(4月19日)、ランニングルートから類推される救急搬送を行った所轄の消防署に当日の詳しい状況を知りたい旨の連絡をとった。
にべもなくはなかった。
電話の主(私)が当事者であることは十分理解できているが、事案は極めて個人的な取り扱いに留意すべき出来事であるため、本人確認が電話でできない以上、その件については申し訳ないが伝達できないという返答だった。

最初から期待していたわけではなかった。

本来であれば、搬送を引き継いだ担当医師から直接聞くのがスジなのはわかっていた。しかし、主治医は医療従事者として、自分(私)の存命や今後の処置についての責任を果たすことを最重要課題としていて(患者は他にもたくさんいる)、そのため、病院に搬送される以前の状況を把握するためにイチイチ時間を割くということは、合理的なことでは無いと私自身理解していた。ただ当方としてはスジというものは通しておく必要があり、本日まで病院からの返答を待ったものの、この時刻(4月19日午後6:00)に至って私が欲する情報を入手できずにいる。

所轄の救急隊員は私にやさしく提案してくれた。

「ご退院されてからでも十分ですよ。」

きちっと加療して、それから改めてご挨拶に伺おうと思う。

画像は感謝の手紙を書こうと思って準備した封筒と便箋

#心筋梗塞
#心室細動
#感謝
#心臓発作
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意識戻る

2022-04-19 13:38:39 | ゴーストライター
不肖hiratakuwaこと53歳は、令和4年4月10日(日)夕刻のランニング中に心臓発作により昏倒。

当時の記憶は全くなく、気が付いたときは熊本市東部に位置する病院のICU施設のベッド。
様々な機械音と、目の前を忙しなく行きかう医療従事者。
「オレはいったい何をやっているんだ、これはユメか、、、」
実は、意識を取り戻した14日(木)についても、ずいぶんと記憶は遠のいたままだ。
紺?エンジ?色の医療シャツを身に着けた30代半ば若しくは40代前半と思われる医師が語り掛ける。

どうやら自分はランニング中に倒れていまい、救急搬送車両の中において2度目の電気ショックで心拍を取り戻したらしい。その後、様々な処置を受け、5日目にしてようやく意識を取り戻した旨の説明を受けたように思う。後に理解することになるのだが、昏倒したときの第一発見者が、救急車両の到着までの間、心肺蘇生の処置を続けたことが存命に大きく寄与したとのこと。第一発見者に感謝しても感謝しきれない。本当に激感謝だ。

その後、看護師が集まり気管挿管及び尿道カテーテルを抜くという。
「そんなモノがオレの体につながれているのか?」
朦朧とした意識の中で抜管に伴った激しい不快感と痛みが喉や下腹部を襲う。
「本当にオレはそんなものにつながれていたんだ」
そして湧いてきたような血の匂いと口元の痛みに吐き気を感じて咽こんだ。

つづく
なお、現在、不詳hiratakuwaはその病院6階西病棟において加療中である。
画像は電気ショック跡だ

#心室細動
#心筋梗塞
#心臓発作
#突然死
#生還
#心肺蘇生措置
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