1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

鞠智城シンポジムに参加

2021-11-29 21:18:39 | 三玉山霊仙寺の記録
昨日は、熊本県と熊本県教育委員会が主催の《古代の「辺要」支配と肥後・鞠智城》と題したシンポジムに参加。

会場のパレアホールは、聴衆200名は超えるであろう盛況ぶりで満席。自分が着席した後、空いていた隣りの席にスタッフさんに案内されて座ったのは、ナント、私が勝手に師と仰いでいるN先生だった。N先生は『太湖の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』の著者。

先生は、菊池市在住の剣道六段の元小学校教諭で、昭和五十年代の約半年間、熊本大学教育学部地学教室に研究生として在籍して、教材開発の基礎資料を得るために、菊池盆地をとりまく第四紀地質を中心に野外調査を行った人物。

書籍ではその研究成果が記載されているとともに、その結果を元に菊池盆地にかつて「茂賀の浦」と呼ばれた湖が存在したことを地質学的に明らかにし、そして、その湖の範囲が、縄文時代から弥生時代にかけて縮小するという変遷の姿を、各時代の遺跡の分布と地形を照らし合わせて示したのだった。さらに、菊池盆地には5世紀以降、おびただしい数の神社が創建されているが、祭神の種類や創建年代と造立地点の標高及び地形的な関連から、中世以降の「茂賀の浦」の水位低下を示すとともに地名との関連も指摘。しかし、本書の真骨頂は、上記のことを踏まえた上で、「菊池」の語源は水が引いた自然地形(その状態をククチ)を表すものではないかと指摘するとともに、邪馬台国と対峙した狗奴国は、米作りに適した大地と多量の鉄器類を背景に力を付けた菊池盆地一帯の土豪勢力と考察した点だ。

実は、N先生とは、「三玉山霊仙寺を巡る冒険」の中で出逢い、私は絶大な影響を受けていた。シンポジムで再会できればいいなと淡い期待を寄せていたが、まさかまさかの隣席になるとは!

「奇遇ですな」

先生は洒落た帽子をとりながら私に挨拶してくれた。ジオ・ドラマの感想も頂戴できた。

さて、本題のシンポジム。期待していたのは、兵庫県立考古博物館館長の和田晴吾氏が報告した「ヤマト王権と九州の古墳文化」。

シンポジムが終わったあと、ロビーにいた和田館長に思いきって質問してみた。

“古墳”については、話が長くなるのでまたの機会に。

そんな事よりも、、、
帰りに寄った古本屋で購入した本を何処かに忘れてきてしまったことに、喝っ!

でも、今日、見つかったのは運が良かった!
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険〜2.彦岳、震岳(ゆるぎだけ)、不動岩、それぞれを形づくる岩石〜』

2021-11-27 18:01:16 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜2.彦岳、震岳(ゆるぎだけ)、不動岩、それぞれを形づくる岩石〜

前節は、山鹿市三玉地区の山や土の特徴を見事に捉えた不動岩の首引き伝説を紹介した。物語に出てくる彦岳、震岳、不動岩は互いに隣接しながら全く異なる山容であることが、古くから地域の人々の心を惹きつけ、その結果として、この伝説が色褪せることなく現代まで語り継がれてきたのだと思う。

言うまでもなく、我々が暮らすこの大地の殆んどは、地表を覆っている表土を取り除けば、その下には堅牢な岩石の世界が広がっている。そして、その岩石の世界は、そのでき方によって大きく三つに分けられている。ひとつはマグマが固まってできた「火成岩(かせいがん)」。ひとつは礫・砂・泥、火山灰や生物遺骸などが、海底・湖底などの水底または地表に堆積して固まった「堆積岩(たいせきがん)」。そして、最後のひとつが火成岩や堆積岩が地下の深いところで強い圧力や高温の熱の影響を受けてできた「変成岩(へんせいがん)」だ。

奇しくも、彦岳、震岳、不動岩の三者は、それぞれ異なる三つの岩石からできていて、それが特徴的な形となって我々の眼前にその姿を現しているのだ。

彦岳は広義では変成岩に分類されるが、元の岩は3〜5億年前のマグマ活動のうち地下の深いところでゆっくり冷えて固まった「はんれい岩」と呼ばれるもので、海洋プレートの一部であったと考えることができる。そして、それが数億年という気の遠くなるような年月経て大陸プレートに接近して潜り込み、地表から数10kmという地下深部の高温、高圧のもとで「変はんれい岩」になったものだ。このとき地下深部に潜り込んだのは海洋プレートだけではない。大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う海溝やトラフと呼ばれる凹地では、陸側から運ばれてきた砂や泥が堆積して堆積岩が作られ、これらの一部は海洋プレートもろともに地下深部にまで引きづりこまれる。そして、引きづりこまれた堆積岩は高温、高圧のもとで「結晶片岩(けっしょうへんがん)」という変成岩に変わる。震岳の山体は、まさに、この「結晶片岩」から形成されていて、その変成年代は約2億年前とされている。

さらに悠久の時の流れの中、次は隆起という地殻変動によって、地下深部にあったものが地表へ顔を出すのが1億年前頃と考えられるのだが、その隆起の過程で、にわかには信じられないような大事変が起こっているのだ。それは時代的に古く地層の順番としては下にあるはずの「変はんれい岩」が、「結晶片岩」を乗り越えて数10kmも移動してきているというのだから驚きだ。いや、「結晶片岩」が「変はんれい岩」に潜り込んだと言ったほうが理解しやすいかもしれない。いずれにしろ、このときの大規模な地層のズレは、ほぼ水平と言えるような極めてゆるく傾斜した断層(衝上断層)として現れていて、あたかも「結晶片岩」の上に「変はんれい岩」が乗っかっているようなのだ。震岳の山頂付近の凹んだ僅かな範囲は、実は、「変はんれい岩」なのだ。

そして、こうした地殻変動を伴って陸地化した8千万年前頃の地表では、活発な火山活動が起こっていた可能性が高く、大地の上では恐竜たちが闊歩していたに違いない。この頃、内陸には大河や湖沼も形成されていたと考えられ、陸域に近い浅海で堆積して固まったものの一部が不動岩を形成している「礫岩(れきがん)」なのだ。さらに時は流れ、隆起・沈降を繰り返し、また、気候変動による風雪や乾燥、豪雨を受けて現在のような地形が作られたのだ。

ややこしい話しになって申し訳ないのだが、上述したように、彦岳、震岳、不動岩を形作る岩石は、私達の想像を絶する時の流れの中で作られた産物なのだ。次回は、実際にこの山々に登った感想を交えながら、彦岳と震岳にまつわる物語を紹介したいと思う。

《参考文献》
熊本県地質図編纂委員会『熊本県地質図(10万分の1)』一般社団法人熊本県地質調査業協会 平成20年
島田一哉、宮川英樹、一瀬めぐみ「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌』120 p.9-18 1999年
西村祐二郎、柴田賢「”三郡変成帯”の変斑れい岩質岩石の産状とK-At年代」『地質学論集』第33号 p.343-357 1989年
石塚英男 鈴木里子 「オフィオライト変成作用と海洋底変成作用」『地学雑誌』104 p.350-360 1995年
早坂康隆、梅原徹也「熊本県山鹿変斑れい岩体のナップ構造」『日本地質学会第101年学術大会講演要旨集』p.173 1994年
矢野健二、豊原富士夫、武田昌尚、土肥直之「九州西部、三郡変成岩類に衝上している変斑れい岩」『日本地質学会第98年学術大会講演要旨』p.212 1991年

画像は、衝上断層のイメージ(熊日)、大陸・海洋プレートの衝突と熊本の地質の関係のイメージ(自作)、と山鹿市北部の鳥瞰図(自作)。


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『三玉山霊仙寺を巡る冒険〜1. 首引き伝説〜』

2021-11-19 20:51:29 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜1. 首引き伝説〜

「あの赤色は、山姥に食われた子供の血の色ばい、いたらんこつばしたら山においていくけんね!」楽しいドライブが一転、恐怖の家族旅行になった。そのとき、父親が指差したのは阿蘇山中腹(杵島岳)の道路沿いに露わになっていた赤褐色のゴツゴツとした岩肌の溶岩だった。
 しかし、幼い自分はそれを本物の血の色と素直に信じ、しばらくの間、阿蘇山には本物の山姥が住んでいると思い込んでいた。これは私の悲しい?思い出だが、山鹿地方には有名な流血の言い伝えが残っていることをご存知だろうか。

熊本市内から国道3号線を北上し、起伏を伴った北区の植木町を過ぎると景色が一変。そこは、現在、完全に陸地化した菊池盆地が広がっているが、かつては「茂賀の浦」と呼ばれていた湖だったのだ。その平坦な直線の道を山鹿市街地へ走らせると盆地の北縁に連なっている山々が私達に近づいてくる。菊池川を渡る頃には、中華ナベをひっくり返したような丸みを帯びた山が真正面にどっしりと構えている。彦岳だ。地元では彦岳権現として親しまれている。その右隣には彦岳とは対照的に爪でひっかいた様な谷筋が特徴的で山頂付近に二つの凹みがあるのが震岳(ゆるぎだけ)。さらにその右に視点を移すと、連なった山稜の真ん中あたりの山腹にそそり立った、まるで男性シンボルのような巨岩塔に目をむいて思わず声を漏らしてしまいそうになる。不動岩だ。この不動岩、奇岩名勝として熊本二十五景のひとつに数えられていて、その昔、山伏達がこの山中にこもり不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する。遠目にはそれほど大きく見えないが25階建てのタワーマンションに匹敵する。
本日紹介するのは、この県北に位置する山鹿市三玉(みたま)地区〜三岳(みたけ)地区に伝わる不動岩と彦岳権現の首引きの話だ。

その昔、不動岩とその西北にある彦岳権現は義兄弟だった。母は、かねてから継子の彦岳権現には、まずい大豆やそら豆ばかりを食べさせていた。一方、実子の不動岩にはおいしい小豆ばかり与えて大事に育てていた。いよいよ先祖の神々から引き継いできた「水、木、火」の三つの玉をどちらかに授けるため、力比べをさせることにした。不動岩と彦岳権現の中間にある震岳の頂上に大綱を渡してそれぞれの首に綱を掛けて引合いが始まった。すると、小豆ばかり食べて育った不動岩はふんばりがきかずに彦岳権現に力負けし、首が吹き飛んで「一ツ目神社」の上の丘に落ちたのだった。そこには「首石岩」が残り、吹き出した血によって三玉地区一帯の土が赤色に染まり、また、綱引きのとき、両者の力で土が盛り上がってできた山が現在の震岳であり、この山の頂上のふたつの凹地は綱引きの縄跡と言われている。

なんともはや俗世的かつ凄惨な物語だ。しかし、地域の山や土の特徴を見事にとらえている点において、この物語は秀逸と言うほかあるまい。この物語は、いにしえの三玉地区の人々が、大地がどのようにして作られたのか理解したいという強い思いによってつむぎ出されたものであるが、その卓抜した想像力には脱帽する。
だが、その思いは現代の「地質屋」も負けてはいない。次回からは、私にとっては偉大な先達にあたる近代の地質学者、技術者達が明らかにしてきた三玉地区の山々を含めた山鹿・菊池の大地の成り立ちについて紹介していきたいと思う。しばらくお付き合い願いたい。

1.首引き伝説 参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「彦岳権現と不動岩との首引きの話」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.792-793
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「不動様と権現様」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年

※画像は、彦岳、不動岩、それと自作の鳥瞰図
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜はじめに〜

2021-11-13 20:33:21 | 三玉山霊仙寺の記録
令和3年4月から同年9月にかけて熊本日日新聞の紙面で、『ジオ・ドラマー熊本の大地を歩くー』と題した企画記事が組まれました。記事の原案のほとんどは、地元の地質調査の会社に勤めている技術職員の方々によって作られました。そして、それらの原案をもとに、熊日新聞の川崎浩平記者が、編集・構成を行って、毎週金曜日の朝刊に10テーマ、全26回に分けて掲載されました。

この『物語』は、当初、県北に伝わる「首引き伝説」を題材に地域の地質について紹介することを目的として作り始めたものです。

しかし、原案作成のために山鹿・菊池について取材していく中、様々な方々や資料に接していくうちに、次第に菊池川流域の歴史と文化の奥深さにすっかり魅了されて、特に「三玉山霊仙寺」の虜になってしまいました。そして、その過程を気の向くままに書き綴ったのものが結果として本作になりました。
拙作ですが、ご笑覧頂ければ幸いです。

なお、この投稿は本年6月に取材にご協力頂いた方々に頒布した小冊子の全26節からなる原稿に補筆・修正を加えたものです。

※画像は「首引き伝説」の記事及び小冊子です。


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ジジ臭いタイトル

2021-11-11 18:42:05 | 三玉山霊仙寺の記録
前回の投稿は、1時間ごとに襲ってくる強烈な便意(ウンコ漏れそうな)の合間に、文字をタレ流した結果の長文でしたが、以外にも反応が多かったのでビックリでした。

やっぱり、人間は、どこかゆるんでいたほうがいいということなんでしょうか?

さて、前回の投稿で少し触れた「発見」について、これをこのブログで発表するか否か、検討につぐ検討を行いました。
さらに、熟慮に熟慮を重ねました。

その結果、ヤッパチョーメンドクサイという結論に至りましたがぁ〜、
この度、発表する決意をいたしました。

実は、すでに、4万字を超えるとテキストになっています。

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

“みたまやまりょうぜじをめぐるぼうけん”

はなはだジジ臭いタイトルとなっていますが、タイトルに負けない内容になってます。ですので、これ以上、老けこみたくないと思いの方にとっては読禁テキストです。

小出し感丸出し、出し惜しみ感たっぷりでの投稿を計画しています。

今週末から、週1回のペースで発表する予定の予定ですので悪しからず。
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読書週間の成果

2021-11-07 21:34:58 | 雑談の記録
ウイルス性胃腸炎を発症し4日目。ようやく、愛犬と散歩できるほどに回復。

本来であれば、今日は中学時代の友人達とゴルフを楽しんでいたはずなのだが仕方がない。

さて、選挙期間中は高校の同級生と会う機会が増え、思い出話しに花が咲くことも多くなるが、そんなとき、自分はその共有しているはずの記憶をうまく思い出すことができない。逆に、みんなの記憶力に驚き、そのことに感心している時間のほうが長いのではないだろうか。

同級生にクセが強い友人Hがいる。
Hは大学で数学の教鞭を執る傍ら、パワースポットとして名高い幣立神宮の宮司でらっしゃる。当然Hは古代史を含めた日本史にはめっぽう詳しく、その視座から発する現代への批評は聞いていて首肯する点が多く、これらに対して、浅はかな知識に頼った物言いを挟めば、彼から、手厳しい返り打ちをくらって大量出血もしばしば。

「オレ、今度の休み(年末年始)に古墳ば見て回ることにしたけん」
「コフン!?、なんでまた、」
「ここ最近、歴史の勉強に凝っとるとばってん、関西にある巨大古墳とか、本当は皆んなが喜んで作ったんじゃなかとかな〜とか思い始めたとよね〜、正直、古墳時代に強制労働で作ったとは思えんごとなったとよね〜」

なぜ、そう思うに至ったかを、Hに話した。
話しを終えると、目の前にいたHは大きく息を吸った。
いつものような反撃が始まると身構えたが、驚いたことに、Hは僕の考えに強く賛同してくれたのだった。大袈裟なゼスチャーとともに。

知っている方も多いと思うが、今夏、熊日の特集企画の中で、僕が原案を作成して寄稿したものが4回掲載された。そのうちの一つは、熊本県北で有名な伝説と地質の関係について簡単に紹介したものであるが、原稿作成に当たって、余暇を丸二ヶ月使って取材と調査を行なっていたのだ。そして、テーマとは異なるため紙面には載らなかったが、この特集企画の取材の中で、僕はある「発見」をしてしまったのだ。

「発見」の内容については、ここでは触れない。ただ、この発見は地元の人々を驚かせただけでなく、取材の中で相談に伺った歴史の専門家からも、その発見と調査方法について評価を頂いたのだった。そして、何より、その調査取材を余暇として興味本位に続けてソレを発見してしまった歴史門外漢の自分自身が最も驚いたのだった。
と同時に、この発見の「意味」と「位置付け」について、真剣に考えなければならないという思いにいたったのだ。しかし、残念なことに、僕は中学生レベルの、しかも戦後教育での歴史知識か持ち合わせてしかいない。
これでは、「意味」も「位置付け」もへったくれもクソもなく、少なくとも高校生レベルの歴史知識を得るべく、夏頃からは夕食後は机に向かい、休みの日は、史蹟巡りや図書館通いをし、自分なりに歴史についての立体的な知識構築を試み始めたのだった(最低限の週3回程度のランニングは続けている、ゴルフの練習も少ししている)。

そんな中、古代の人々が「災害」や「極端な自然事象」をどのように捉えていたのだろうかとの思いに至った。

「オレ、地震の理屈とかピシャっと理解しとるし、あんときの地震だって、布田川断層が動きよるって理性では解っとたばってん、、、、ばってん、、本当のところば言うと、オレの本心というか本能は、、、ナニカ得体の知れない生き物が地面の中をのた打ち這い回っている様子しか想像できんかったとたいね〜、そのときの恐怖の記憶がそうさせとるのかもしれんばってん、恥かしか話し、今だに余震が来ると、怖くてドキドキすっとたい、、、」

「古事記に出てくるヤマタノオロチは、洪水のことなんだよな、昔はあの文脈でも案外、誰でも洪水だって理解できたんよ、、、」

「オレ、子供のころ、カミナリが鳴ってる雲の中には龍がおるって本気で思っとったもん!、今でもそう思ってしまうことがあるし、、、それでオレ、深く考えたったい、古代人はナンデそんな“イキモノ”が現れるのか、その理由についても同時に考えたんじゃないのかなって。異常な自然事象が、たまたまソコに起こったとは考えきらんかったはずとよ。何か原因がソコにはあるって。」

「、、、って、どういう、、、」

「身の回りに不都合な事が起こったとき、それを誰かのせいや、環境や社会のせいにしたいという気持ちになるのって普通だろ、そして、その原因を取り除きたいという気持ちになるたい。ちょっと違うかもしれんけど、己の死やクニが滅びることに直結するような災害は厄介事の一番で、古代の人はそれをなんとかしたいとの思いは今以上だったはずと思うとたい。だから、古代の人は、それが起こらないように祈るしかない。でも、何を対象に祈る?、”イキモノ”を神と崇めて祈るのかな?。どうかな?。でも結局、人は、またその”イキモノ”がどうして現れるのか、その理由を考えなくちゃいけないという泥沼にハマるんだけど、最終的に”イキモノ”は「化身」というふうに考えたんじゃないかな、あるいは「怨霊」だとかさ。人間は、そんなふうに考えるクセがあるたい。」

「、、そういうクセ、あるな、、崇徳天皇とか菅原道真の御霊信仰、、、」

「さすがH、、そいうのって身近にもあるし、、嫌いな誰かを呪ってやりたいという気持ちが、、、。逆に災いが起こったときには、自分は呪われているんじゃないのかという不安な気持ち、、、。つまり、災いというのは、実は「人」が起源となっていて、死後に”イキモノ”に姿を変えて襲ってくるというシロモノではないのかなと。そう考えると、死人にはどうしてもジッとしていてもらいたい。とにもかくにも、安らかにお休み頂きたいという気持ちになる。特に、生前に影響力が強ければ強いほど、権力が大きければ大きいほど、死後の”イキモノ”の力もそれに比例して大きくなる。だから、そのためには古墳がどうしても必要だったんだよ、権力者の冥福を祈りながら、同時に現世に対しては安寧を求める祈りの場が。そしてさ、古墳作りって一大土木工事なわけだけど、作業に従事することは、どちらかというと崇高な事で、従事者は敬虔な気持ちで工事に携わっていたのではないのかなとさえ思うようになってさ。つまり、古墳作りってのは、古代の人が社会に安寧をもたらすための公共作業であると同時に、同族意識を醸成しつつ、外国人に対しては、巨大古墳を通じて一致団結した姿を示してクニを守る抑止力にしていたという側面もあったりという、当時としては極めて多機能かつ合理的な判断があっての取り組みだったんじゃないかなぁって思うようになってさぁ〜、じゃなきゃ、あんな前方後円墳とかいう似たりよったりのコフンをクニ中にウン千も作らんだろう、、ってなわけで、”古墳信仰”ってのが当時の大和政権の第一の礎であって、その背景が日本固有の災害が起きやすい風土、つまり自然災害じゃなかったのかなと、、どうでしょうか。」

「ハァ〜っ、オマエがそれを話すとめちゃくちゃ説得力がある。だけどその考えは、フツーの戦後歴史家には受け入れられんよね、未だに古墳は、権力者の搾取と示威行為の結果として作られたと説明されることが多いけんね。しかし、そのニシの考えは大事な視点と思う、だけん、その研究、進めろっ!」

「ま、オレは研究がしたいワケじゃなく、自分で確かめて納得したいだけたい。でも、今日はHにそんなふうに言われてちょっと嬉しかばい、自信がついた。」

そう言うわけで、冬休みは大和川を遡上しながら巨大古墳を見て回ろうと思っている。

話は変わるが、病に臥せっていたこの3日間、時間が取れる良い機会と捉えて書棚から引っ張り出して読んだ以下の3冊。

伊藤計劃の『虐殺器官』
谷川健一の『魔の系譜』
櫻井武の『「こころ」はいかにして生まれるのか』

科学、民俗学、SF小説を立体読みして、古代から現代そして未来に繋がる人間社会の変容が少し見えたような気がした。

教科書ではない別方向から歴史を見る視点を持つことの重要さを再確認することができた読書週間だった。
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