さて、お正月はクソ時間があって、筆ならぬ指が勝手に進みがちであるので、「おせちが無い問題」をもう少し掘り下げてみることにする。
そもそも、群馬県の料理店におせちを注文したことを知ったときから、激しい違和感を感じていたのだった。
晩秋に、次女と妻は関西を一緒に旅をしていて、話しの様子からして、その時のノリで注文の方向性を決定したようなのだった。つまり、これは旅行アルアルで、修学旅行生の男子が旅先で木刀や日本刀のレプリカを購入する行為のソレとさして変わらない行為なのではないかと考えられるのである。事実、我が家には日本刀のレプリカがあったりするのである。
我々は旅先でのそのコーフンした状態において、しばしば思慮を欠く行動をとってしまいがちである教訓を、売店に置かれているレプリカの日本刀に見い出さなければならないのである。レプリカの日本刀や木刀は、ソレを教える為に土産店に置かれていると言っても過言ではない。
さりとて、旅先での思慮を欠く行動や醜態は、周囲に迷惑を掛けなければ、それはそれで後に楽しい思い出となり得るものであるから、それらを全面的に否定すべきでないことも心得ておかなければならない。
それらを踏まえたうえで、今般の問題について一家言申し上げるとするならば、おせちを熊本から900キロも離れた「群馬県」の料理店に注文するのは如何なる了見であるのかと問い糺すべき事項ではないかと、そう考えるのである。
決して、おせちが届かなかったことを問題にしているのではない。
我々は利便性というものを勘違いしてはいないか。
900キロといえば、およそ熊本から上海や平壌に匹敵する距離である。パリ(フランス)-ベルリン(ドイツ)の距離である。
そういった遠方で調理頂いたものを暮れの差し迫った大晦日に届けさせる行為とは、いかなる行為なのかと問いかけたいのである。
Amazonの物流センターに在庫としてあるものが機械的に届けられるのとはワケが違うのである。ゴルフ場にゴルフ道具を送るのとも違うのである。返礼品でもないのである。
届けられるものは、人の手で丹精込められて作られたはずの食品なのである。
恐らく、「群馬県」の料理店は、まさか熊本から依頼があるとは想定していなかったのではないだろうか。
たとえ、冷蔵発送だとしても、空輸だとしても、群馬県から熊本県への直行はあり得ない。大都市を経由しなければ届かない。物流の働き方改革で、以前のような短時間配送を望んではいけないご時世でもある。
タイパだ、コスパだと、それを望む声を上げることが、あたかも正しい消費者のように評価さる雰囲気が昨今の社会を覆っているように思えてならない。
お正月のお祝いに頂くありがたい食事が「おせち」なのである。
たとえ、それが注文品であったとしても、できれば地域の産物で、地域の顔が見える方々に作って頂いた「おせち」を頂きたいものである。
昨年までそうであったように。
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