1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

表現の自由、ブチかまし!

2015-07-26 13:24:04 | 雑談の記録
台風12号の接近に備えて今日はおとなしくしているついでに、「言論の自由及び「表現の自由」とやらを実践してみたいと思う。
別に大げさなことではない。ここ最近の安保法案関連の情報に触れて、思ったこと、考えたこと、感じたことを市井の民として整理しておこうと思うだけだ。
けど、これは非常に厄介なことだ。なぜなら市井の民は、日常に忙殺されているため多方面から発せられる「言論」について、その理非を判断するために必要となる時間的、空間的な余裕を持ち合わせていないからだ。少なくとも私には十分ではない。一方で、我々は、いずれその判断を選挙というカタチで自ら行わなければならないし、世論調査のアンケートによりその答えを表出しなければならない。
しかし、判断に際しいつも疑問に思うのは、その判断の根拠とすべき「言説」や「資料」及び「情報」が信ずるに足るモノであるかという点である。だから、「その意見や考え及び方針に賛成か反対か」と問われれば多くは「わからない」が、その判断の帰結になってしまう。しかし、安保法案に関しては「わからない」では済まされないような気がする。

結論から述べる。

私は、安保法案に対し、特に集団的自衛権の行使には反対の立場をとる。
なぜなら、これ以上、アメリカのイヌになるのは嫌だからだ。

まことに、子供っぽい理由であるが、そういうふうに帰結してしまった。
「キサマは現実を何もわかっとらん」と政府寄りの人には言われることだろう。一方、反政府やメディア側からは喜んで受け入れられるかもしれない。ただ、私はこのどちらにも馴染むことができない。それは、今まで彼らに抱いていた違和感が、様々な情報に接しているうちに、以下に述べるような矛盾を孕んでいることに気が付いたからだ。
つまり、政権寄りの改憲派は、戦後アメリカの理念とも言うべき置き土産である現行憲法を「押し付けもの」として忌み嫌う一方でアメリカに対する従属意識を深化させている(アメリカから要請されれば自衛権を行使)。かたや、護憲派は、この押し付け憲法を金科玉条のものしながらアメリカの庇護のもとで経済発展を遂げたことには目もくれずに米国を忌み嫌う(基地反対)。

確かに、我々が得ることができた経済発展の裏にはアメリカの庇護があったことは事実だ。一方で、アメリカの思惑に背いたための政策転換や、大物政治家の失脚もあったと言える。言い方を替えればアメリカの意に沿う形で日本の政策は決定されてきたことになる。そういう意味において「日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国です。」と言っているのは思想家の内田樹氏だ。なるほどと思う。

ところで、安保法案反対派に、今回の法案成立によって戦争に巻き込まれるリスクが高まるといった見方がある。一方、賛成派は抑止力が高まるという。また、反対派は現行憲法の下でこれまで一度も武力を行使しなかったことが日本や世界の安全保障に寄与した側面があるという。確かに、日本は戦後70年の間他国から武力攻撃を受けたことはないが、世界の安全保障に寄与しているとは言い過ぎのように思う。むしろ、「戦争を放棄している日本」を上手いこと利用してアメリカが進める戦争の片棒を担いできただけではないかと思うのである。なぜなら、日本にはアメリカ海軍の第7艦隊の横須賀基地をはじめ、佐世保、沖縄に約4万人の兵士を擁する在日米軍基地が展開されていて、ここから戦場に武器、物資、兵力が送り込まれていて、しかもそこには、新国立競技場が作れるほどの年間約2000億円の思いやり予算まであるのだ。アメリカと一緒にやり散らかしてきたというのが本当の姿ではないのだろうか。戦争放棄を美化するのもいい加減にしろと言いたいし、積極的平和主義もクソ喰らえだ!
反米組織からすれば日本もアメリカも同じだ。戦いの常套手段は補給路を断つことで、後方支援部隊などは格好の標的となる。

戦争は力のバランスが崩れた時に起こるとなどと言われているが、発端は双方の理に沿った「正義」と「正義」の衝突だ。そして、一方が負けるとそれが途端に「不正義」となるから、戦争になったらゼッタイ負けてはいけないのだ。肝心なのは負けないうちに終わらせることなのだ。
我々が「終戦」という言葉を使うのは、本当は「敗戦」して「不正義」となっているにもかかわらず「負けを認めたくない」という足掻きのようなものだ。みっともない。

日本は70年前、戦争の終わらせ方を誤ったのだと思う。下世話な例えで申し訳ないが、戦争は不倫に似ている。特に、その終わらせ方という点において、。
最悪なのは、いつまでもズルズルという関係だ。よしんばその関係が終わったとしても、疲弊しきった精神状態の中で社会的制裁や圧力を受けなければならず、さらに配偶者や家族に対する贖罪も必要である。そして、それは一生続くのである。なので、その愛を貫きそれを勝ち取る覚悟が無ければ、不倫はダメなのである。一時の性欲に負ける程度の精神力では本当の「愛」は得られないのである。
戦争に負けておいて「終戦」などと言うのは、一発やっといて「憶えとらん」と言うのに等しいのだ。

さて、幾分脱線した感はあるが、世界の安全保障状況が近年大きく変化しているのは理解できる。これらについていちいち説明しないが、最近の中国人旅行者数の増加やあの爆買といった状況から解放軍の動きを考えると現在の動向はむしろ「大人しい」のではないかと思えてしまうのである。中華思想として、沖縄を含めた日本列島は海洋進出における目の上のたんこぶであることは間違いないく、さらに最近のアメリカの凋落(とは言っても強国)ぶりを背景にしながら、13億人の民の欲望を満たすため虎視眈々とコトを進めなければならないことも十分理解できる。しかし、目の前に迫りつつある経済崩壊と長年続く一党支配の軋みのせいで実のところ二の足を踏んでいるのが現状のような気がするのだ。解放軍に聞いた訳ではないが、領空領海侵犯も大国としてのメンツ確保が目的なだけで、本当はいっぱいいっぱいなのかもしれない。この予想を平和ボケと言われるかもしれないが、現時点においてアメリカの属国である日本と有事になることを中国は望んでいないように思うのである。
一方、北朝鮮については、彼らの立場では未だ戦中であるため、手をこまねいていればリスクは増大し続ける。

同盟は2国間の対等な関係が基本だ。しかし、日米安保条約におけるアメリカ側のそもそもの思惑は、ウィキペディアにも記載されているとおり「日本の軍事大国化防止」で、すなわち「日本の丸腰化」が当初の目的だったと思うのだ。一方、経済復興を果たしたい日本にとってローコストの安全保障は渡りに船だったワケで、この2国間における関係は対等などと言うのは嘘っぱちで、最初から不純異性交遊なみのの汚れた関係だったのだ。それを今更「友情」などと表現されても、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまうのである。
本当の筋論は、アメリカの庇護から独立した上で集団的自衛権を我々の意志で認めることではないだろうか。今騒がれている安保法案における集団的自衛権の行使は、凋落気味になりつつあるアメリカを忖度した、言うなれば「お節介」のようなものであって、アメリカの本音は有り難迷惑のような気がしてならない。恐らく、結局のところ、安保法案は日本の国益というよりアメリカのいいとこ取りで終わってしまうのではないだろうか。要請があれば出撃しなくちゃいけなくなってしまうのだ。

「安倍政治を許さない」というプラカードを掲げてシュプレヒコールを上げている一派が、所詮アメリカを利する法案に過ぎないと明け透けに言うのであれば、こちらとしても非常に理解しやすいのであるが、それを「戦争法案だ!」だの「反民主主義だ!」だのヘイワを前面に押し出した物言いで反対行動するものだから興醒めここに極まれりなのである。

言っておくが、自分は戦争を微塵も望んではいない。戦争は殺し合いなのだ。絶対に反対だ。しかし、リスクがある以上、それに対する備えが必要であることは論を俟たない。自国は自国の力で守る、それが国家の基本だ。
「アメリカさん、最近、中国と仲いいっすよね。だけど、中国って我々にとっては目障り極まりない存在ってのもわかってますよね。中国のチョッカイもいい加減にせぇと言いたいんやけど、コッチの台所事情もあって太刀打ちできるほどの準備もできんのですわ。いやいや~、アメリカさんの事情もよ~くワカッテますよ、我々は。そこで、どうでしょう、アメリカさんに何かがあった折りにはお手伝いしますんで、もう少しばかりにらみを効かせてもらえんかと、、、。そうしてもらうと、ホント、助かるんですわー、、。え~え~、もちろん今までのご恩も忘れちゃぁおりません。ですんで、さらなるご奉公というカタチでお手伝いをさせてもらえばそれで結構ですんで、、。それでよろしいでしょうか。」
自国の力だけで国を守れないのが実情でありながら、その力量不足を補うために集団的自衛権を容認するというのが自分にはうまく理解でいないのだ。つまり、家に居ながら売られたケンカに対して自力で太刀打ちできないくせに、外のケンカにはでしゃばるというのである。

今、我々に必要なのは個別的自衛権での切れ目のない対応ではないのだろうか。ともすれば、それは東アジアにおける軍拡競争に繋がる危険性を帯びるものであり、いずれチキンレース的結末を迎える可能性もある。
しかしだ。そのチキンレースのスタートと集団的自衛権の行使による第三国や公海上における戦闘に巻き込まれる時期を考えると、「正義」の線引きが難しい戦闘のほうがはるかに早い時期に訪れるに違いない。アメリカはずっと戦争をし続けている国なのだ。
一旦、参戦したが最後、そこから抜け出すことは極めて困難で、そのスキこそが日本の安全保障上の最大のリスクになると思うのだ。

自分が金正恩の立場だったら、そのときこそが千載一遇のチャンスと捉えてミサイルの発射ボタンを押す。何故なら一撃必殺こそが戦争の始め方で終わらせ方だからだ。

あえて不倫に喩えることはすまい。
世の中、甘くないのだ。
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ネオンとマエタテ

2015-07-01 23:34:06 | 雑談の記録
フェイスブックの「友達」がもうすぐ200人に達しようとしているけど、よっぽどでない限り自ら友達申請はしないということを基本姿勢としている。なんでかっていうと、そういうのは本当に面倒くさいと感じているからで、それはLINEについても言えることだ。スマホを買い換えたときなんか、こりゃ幸いと一度LINEをやめたのだけれど、多方面からの圧力に屈して現在はとりあえずアカウントを有しているといアンバイだ。

最近は「絆」とか「繫り」だとかを大事にしなければ一人前として認められないとかいう子供っぽい空気が漂っている窮屈な社会なので、こういったことは仕方のないことなのかもしれない。

知りたい情報はこちらから取りに行くし、時には知らぬ権利も行使したいと思っている。だから、諸々の情報に疎くなっている自分に対して、鬼の首を取った如くの勢いで最新情報をお節介して頂く必要など全くないのである。しかも、SNSを利用して。

他方、自分は「リア充」してる人々の情報に触れるのは結構好きなわけで、その「リア充」的要素が自分の信条及び思想に反していたとしても、時には「いいね」をしてしまうことがある。だって、その人なりの一生懸命には敬意を表したいし、自分と異なる考えがある時に新しいアイディアの発芽になったりするからだ。いい人ぶって大変申し訳ないがそう思ってしまうのである。

最近、国会やメディア及びFBのフィードは、「安保法案」でかまびすしい。特に、FBのフィードでは右翼的、左翼的な友人たちが双方にとって都合の良いニュースソースや情報をシェアする形で論陣を張っている。
自分は、どっちもどっちだなと思ってしまう。どっちも偏り過ぎていて共感することはできないし、双方の侮蔑の感情を露わにした或いは内包した言論に触れると、どうしようもないモヤモヤ感が湧き上がってくるとと同時に、双方に理解が生まれことはこの先ないのではないかと思ってしまうのである。なんでかって言うと、極端な人にとっての幸せは、対極成分の排除に他ならないからだ。
そして、自分が怖いなと思うのは、こうした極端な人たちの言説によっていつの間にか大多数の人達がそのどちらかの色に染まっていくかもしれないといことなのだ。加えて、本当に極端な人達は狡猾だったりするからなおさら注意が必要なのだ。

十人十色と言われるように、10人いれば10の考え方があっておかしくはないし、むしろ、それが普通と心得るべきだと思う。そして、我々人間の思考回路というものは、外的・内的環境に大きく依存して形成されるため、そこに地域性や帰属性あるいは時代性と言った違いが生じるのは仕方のないことだと思う。だからと言って、その地域性・帰属性・時代性によって異なる信条や価値観を宿した人々を侮蔑・排除して良いわけがないだろう。一方、我々は感情の動物であるが故に、いったん出来上がった思考回路に支配された「好き」「嫌い」を仕様変更することは極めて困難であることも忘れてはならない。

この相反する心的事象はその昔の時代からあったに違いないはずで、これに折り合いをつけるための手段として先達が編み出した良策が「Honne to Tatemae」だったのではないだろうか。

「本音と建前」である。

そして、この使い分けに苦渋するそんな姿こそが良識ある「大人」の証ではなかったのだろうか。昨今を翻って、果たして「本音と建前」をキチンと使い分けしている人々はどれだけいるだろうか。本音ガチ丸出しの芸人及び政治家、言論人に鑑みると、「子供っぽさ」あるいは「若さ」といったものが時代の要請なのではなかろうかといった錯覚に陥りそうになる。

ところでお前はどうなんだと問われれば言葉に窮する始末である。
しかし、よくよく考えてみると「大人」とは到底言えない15年程前の30歳前後まで、私は「本音と建前」なるものを然したる理由もなく嫌悪していたように思う。いや、嫌悪することが正義でそれが出来る人間がイケてるタイプと勘違いしていたような気がしないでもない。今思えば、周囲を傷つけながら反省もないという極めて尖った人間だったかもしれない。それでズイブン損をしたように思う。
最近、団塊世代以上の先輩諸氏に「変わったねぇ」「丸くなったねぇ」とよく言われるが、「てめぇ、オレの何を知っててそんなこと言ってんだコノヤロォ、てめぇが鈍くなったんじゃね」のような返答は一切しないよう心掛けている。酒の席でさえ異なる意見に対し「おっしゃることを理解するのにはまだまだ勉強不足のようです」と必死に切り返している。うん、ある意味ホントに丸くなったのかもしれない。

ただ、それよりさかのぼること15年程前の思春期時代はどうだったかと言えば、漠然と「大人」に憧れていたように思う。このことは、以前、このバカブログでも何度か触れたことのように思うのだけれど、その憧れの対象となっていたのが、「金妻シリーズ」に出ていた古谷一行だ。そして、「不倫」が市民権を得るに至ったそのドラマで、古谷は当時40歳前後だった。ドラマの内容はともかく、当時の私はそのドラマを見ながら思ったものだ。
「40男、かくあるべし!」
そして月日が過ぎた。いつの間にかその古谷の年代も既に過去のものとなっているではないか!。ここでハッと気がつくことがある。
今の自分と比べて、当時の古谷のほうがよっぽど「大人」びていると感じる。これに気がつくと「太陽にほえろ!」の七曲署の当時の主要メンバーと現在の自分の関係が気になりだすのだが、答えは、ほぼ同年代!若しくは年下!。殉職時のゴリさんにいたっては40歳の若さなのだ!
ゴリさんの持つ大人感!あの信頼感や強さが自分には備わっているだろうか。

自分には、全くもってこの大人感が欠如しているではないか!。微塵も無い。かと言って、昨今の40過ぎのジャニーズグループのような若さ感もない。そもそも、自分がゴリさんのような大人感を保有していたら、このようなバカブログはやっていないはずだ。今日の難事は今宵の酒とともに遺却するのが本当の大人の姿というものなのである。

ここで、現代の大人を探すとしよう。
やはり思い浮かぶのはキングカズとイチローだ。スポーツ選手ではあるが、その二人に共通するのは、いつまでも自身の技術を磨こうとする職人気質だ。いつの時点でかわからないが、彼らの顔は「大人」に変容した。
彼らが「本音と建前」を上手に使い分ける大人かどうかは別にして、「好き」「嫌い」に依拠した争いや「言った」「言わない」の揉め事を彼らが上手く治めてくれるような気がするのは自分だけであろうか。

子供の争いを止めるのは大人の役目である。

レッドデータブックには今のところ「大人」についての記載は無いようであるが、絶滅に瀕しているのは間違いない。

無用な争いを止めるためにも、この世から「大人」を消してはならない。













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