ここまで紹介してきたように、景行天皇に関連した伝説は50話近くにおよびます。ゆかりの地だけを数えれば70ヶ所をゆうに超えます。伝説にはいくつかのこじつけも含まれていると考えられます。しかし、こじつけであったとしても、それらはやはり景行天皇の強い影響力を示しているように思います。
「三玉」という地名を巡っては前章で冒険譚風に紹介させて頂きました。不動岩近くの仙境のような地で、侍臣たちが持ち帰って献上した三つの玉を景行天皇が里人に下賜したことが、その始まりであるという伝えでした。そして、その伝えはすっかり風化して埋もれてしまっていたのですが、山鹿に縁があって郷土を愛していた一人の人物、つまり、吉田孝祐氏が記した『舊山鹿郡誌』の中に、その由来がしっかり書き留められていたのでした。
吉田氏はこの『舊山鹿郡誌』を太平洋戦争の前と敗戦後の2度に渡って書き記しています。氏は、当時でさえ、変わりゆく町並みの中に往時の面影が消えていくのを惜しむとともに、さらに由緒ある言い伝えが忘れらつつあることを憂いていたのです。そして、敗戦後、焦土と化した郷里に戻ったとき、その思いはさらに強いものになったであろうことは容易に察することができます。
山鹿市のこもれび図書館に所蔵されていたのは、戦後に吉田氏が書いたものを本澄寺の当時の住職が複写して冊子にしたものでした。原本を求めて本澄寺を訪ねましたが、残念ながら確認はできませんでした。一方、戦前に書かれた『舊山鹿郡誌』の原本は熊本県立図書館で確認することができました。ただ、戦前に書かれたそれには三玉の由来は記載されていません。
吉田氏は、戦後、更に調査を重ねて「三玉山久慶院縁起」をいずこかで見い出し、それを戦後の2度目に作成した『舊山鹿郡誌』の中に書き写したのでした。
私は、吉田氏が見い出したこの縁起書(古文書)を求めて1年以上、ネット検索は当然のこと、図書館、古書店、熊本大学、関連のありそうな寺を訪問するなどの探索活動を続けました。行った先々で対応して下さった方々には随分と手間をとらせてしまいました。しかし残念ながら現在もその縁起書の発見には至っていません。
一方、そうした活動の中で、熊本にはいくつもの景行天皇の伝説があることに気が付きました。そして、各地と山鹿地域の伝説を比較し、今回、新たに見い出された三玉の景行天皇の伝説の意味を考えてみようと思ったのでした。
ただ、熊本における景行天皇の伝説を網羅した資料を見つけることが出来なかったため、結局は図書館、古書店の力を借りて各種の資料を収集したのでした。また、仕事がら県内各地の現場に出向くことが多いのですが、機会を見計っては現地を訪れて文献に書かれた史蹟等の確認作業を行いました。