1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』23. 奇花奇草喬木を求めて

2022-10-27 21:13:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【奇花奇草喬木を求めて】
懲りずに、また、週末を利用して山鹿に行った。
先ずは区長さんを探さなければならない。不動岩近くで車を流し、広い庭先にいた年配の女性を見つけて声をかけた。すると、その女性は、区長さんであれば、今、姿を見たばかりだよと言いながらこちらに向かって歩いてきた。そして、女性が道にでてくると、道の左手の方から年配の男性が歩いてきた。福原集落の区長さんだった。聞けば、その看板については詳しく知らないとのことで、かわりに、蒲生集落の区長さんの自宅を教えてくれた。

次は、蒲生集落の区長さんのご自宅に伺うと、娘さんに裏の離れの方に案内された。そこでは、一家総出で、倉庫か何かの補修作業をやっている様子で、区長さんは梯子の上にいて、まさに手が離せない状況であった。
区長さんの眼光は鋭く、まずい時にきてしまったと思った。しかし、このまま帰ってしまえば、本当に不審者扱いされるかもしれいと思った私は、大きな声で用件を伝えた。
すると、区長さんも負けず劣らずの大きな声で、

「そのことだったら、市役所の社会教育課!社会教育課!」
「わかりました!社会教育課ですね!ありがとうございました!」

マスク越しでの大声なので、一発でメガネが曇ってしまった。
今度は、こもれび図書館に向かった。また、Kさんを頼るしかなかった。しかし、図書館のある交流センターに着くと、市外在住者は入館お断りとなっていた。私はそれを図書館の入口までと拡大解釈して、自動ドアを抜けて階段を登った。図書館の入口に、Kさんが検温と入館受付の係としてテーブルの向こう側に腰掛けていた。

Kさんはいつものように、優しく対応してくれた。わざわざ席を外して、階段側に出てきてくれて、私の用件を聞いてくれたのだった。その間も、幾人もの図書館利用者が出入りをしており、そちらの対応をもしながら私の相手をしてくれた。私は手元に持っていた看板の写真をKさんに渡して、図書館を辞したのだった。

数日後、Kさんから連絡が入った。教育委員会の社会教育課に問い合わせたところ、確かにそれは本課が作成したものであるが、説明文については、ある文献資料を引用したのだそうだ。

その資料とは、山鹿市が主催した第十三回山鹿市文化歴史講演会の講演録で、タイトルは『菊池川流域の自然「驚き」「感動」そして「ふしぎ」「なぜ」』であった。発行は平成三十一年三月であった。
その資料は、後に(株)九州文化財研究所のHさんから提供をうけることになるのだが、その冊子の第三節に「不動岩下の金毘羅さんの周りの木々は暖かい海辺の植物、なぜここに?」との表題があり、その「なぞ」解きに挑んだ話しが講演録としてあったのだ。

そのなぞ解きに挑んだのは、山鹿市鹿本町出身で京都大学大学院理学部助教授、近畿大学教授を歴任したT先生で、専門は地質学及び鉱物学だった。T先生とは面識はなかったが、これまで山鹿や菊池地域についての様々な資料を当たるなかで、よく名前を目にしていた。また、T先生は、NPO法人菊池川自然塾を主宰しており、地域の自然資源を活用しながら、菊池川流域の自然の素晴らしさを、子どもたちに伝える活動に尽力されていた。そして、前出の(株)九州文化財研究所の顧問も務められていた。

そのT先生がそのなぞ解きに挑んだ発端は、在野の植物研究家の別のT さんからの質問だったのだ。実は、金毘羅神社付近に生息している、あたたかい海岸などでみられる七種類の植物の発見者は、植物研究家のTさんだったのだ。

元近畿大学のT先生の講演は、言わば、その植物研究家のTさんの質問に答えるためのものだった。T先生の考察を簡単に紹介すれば以下のようになる。

古阿蘇火山は、今から27万年前から9万年の間に4回の大爆発を伴った火山活動がある。3回目と4回目のおよそ12万年から9万年までの間は、最終間氷期と呼ばれる非常に温暖な時期があり、海水表面が100mほど上昇した時代がある。不動岩周辺には、その時に堆積したことを示す地層はないが、この時期に暖かい海岸近くに繁茂する植物が根づき、その後の4回目の火砕流からは日の岡山が壁になって守られ、また、不動岩付近では冬季の気温の逆転層があり、これによって生き延びたと考えられる。

そうかもしれない。しかし、まだ考える余地は残っているように思えた。そもそも、先ず、私が知りたかったのは、この七種類が生き残ったことではなく、この七種類であることの意味だったのだ。なぜ、それにこだわるのかというと、「組合せ」でものを考えると、別の違った姿が見えてくることが往々にしてあるからだ。この七種類は、何かの組合せを表しているかもしれないと考えていたのだ。

残念ながら、この植物を発見した植物研究家のTさんは、高齢でご闘病中とのことだった。
自分で調べるしかなかった。
結論から言うと、その七種類は全て「薬草」だった。「薬用植物」とも言う。

例えば、バクチノキの葉には青酸を含む杏仁水(バクチ水)が含まれ、咳止めや鎮痛剤として使われるそうだ。そして、この7種類のうち4種類は、熊本大学薬学部の薬草園データベースに載っており、ということは、薬草として、ある程度メジャーな部類に入るのではないだろうか。

アイラトビカズラのことを思い出した。山鹿市菊鹿町には、国指定の天然記念物になっているアイラトビカズラが自生していて、千年以上前に中国の揚子江流域から渡来したとされている。しかも、薬草だ。

景行天皇の侍臣達が目にした「奇花奇草喬木」は、「薬用植物」で、この地で何万年も生き延びたのではなく、人によってもたらされた、外来の植物ではないだろうか。
人々は健康を一番に願う生き物である。弥生時代若しくは縄文時代後期、渡来人が持ち込んだものは稲や銅、鉄だけではなく、有用な植物、つまり薬草も、当然、持ち込んだことが考えられる。そして、時代とともに人々の往来が増えゆき、その種類も次第に増していったのではないだろうか。こんなことは、既に明らかにされていることなのかもしれない。

金毘羅神社が不動岩の麓にあるのは、そのことを言い伝えとして知っていた古の人々が、海を渡ってきた人々にあやかり、畏敬の念を抱いて、この神社を創建したのではないだろうか。
ともすれば、現代に生きる私たちは、自分達が持っている知識が最も進んだものと考えがちになるが、いにしえの人々の気持ちや知恵に思いを馳せることは、物事を理解する上で、とても大事なことだということを学んだ気がした。

金毘羅神社のバクチノキ


金毘羅神社のフウトウカズラ

《参考文献》
薬用植物総合情報データベース『http://mpdb.nibiohn.go.jp/』
熊本大学薬学部薬草園データベース『https://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/』
山鹿市教育委員会社会教育課『菊池川流域の自然「驚き」「感動」そして「不思議」「なぜ」』新山鹿双書13 第十三回 山鹿市文化歴史講演会 講演録 平成31年

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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』22.「三玉山霊仙寺」の解釈

2022-10-26 20:39:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【「三玉山霊仙寺」の解釈】
前節で『三玉山久慶院縁起』を抜粋・要約した通り、「三玉山」は第十二代景行天皇の熊襲征伐(九州巡行)の伝えが、その由来となっていることがわかった。驚愕した。まさか、由来が景行天皇に遡るとは思っていなかったからだ。しかし、考えてもみれば、九州には、地名の説話として、景行天皇の発した言葉に因む所が各所に残っているのだ。それほど不思議なことではないのかもしれない。

ただ、飛鳥時代の8世紀の初めに、それまで貴族にしか認められていなかった仏教を庶民に広めた祖とされる行基が、この地を訪れていたことには心底驚いた(行基が当地を訪れていたかどうかについては今後の検証課題)。しかも景行天皇に因んだ名を冠した寺院を建立しているのだ。だから、その約二百年後に、菊池家初代の則隆がこの寺を再興させたことも、十分納得ができる。また、平家が威信をかけて造営に取り組んだのも当然とも言える。何しろ、景行天皇の頃からすれば、平安時代末期の時でさえ、既に千年近くが経過していることになるのだ。ハンパネェ由緒と伝統という訳だ。
しかし、二十一代の菊池重朝が、景行天皇に因んでいるとは言え、寺の名前を「本覚寺霊仙寺」に変更してしまったのは、現代の我々からすると少し残念な気分だ。

だが、「三玉山」は根強く、戦乱の時代、江戸時代を生き抜き、そして明治を経て、大正、昭和、平成、令和と現在に引き継がれた。そして現在も「三玉」という燦然と輝く地域の名として残り、市民に親しまれている。

明治二十二年の町村合併のとき、上吉田村、久原村、蒲生村の三村長らが、頭を寄せて話し合ったのだと思う。いろんな案が出たことであろう。しかし、おそらく、全会一致で「三玉村」に決まったのではないだろうか。
それにしても、「三玉」には、この数ヶ月間、本当に悩まされ続けた。前の「三玉山霊仙寺」の節では、理屈をこねくり回して「三玉」の場所を探ったが、その徒労感たるや。

吉田孝祐氏が残した資料の発見に至るまでの間、霊仙地区や生目神社には何度も足を運び、藪に入り、大汗をかき、虫に刺され、図書館では資料を漁った。しかし、歴史探究というのはこういう地道な作業の積み重ねなのだろう。地質調査とよく似ていると思った。

さて、「三玉山霊仙寺」の由来については、およそ判ったが、まだ、調べなければならないことが残っていた。
それは、吉田孝祐氏が遺した『舊山鹿郡誌』の原本の所在だ。何しろ、この資料は、山鹿市にとっては、一級品の資料となる可能性が秘められていると考えたからだ。それと、これが発見できれば、これまでいろいろとお世話になった図書館のKさんへの恩返しになると思ったからだ。

私は、また、週末の休みを利用して山鹿に向かい、今度は本澄寺を訪問した。『舊山鹿郡誌』を複製編纂した元住職は、九十歳を超える大変なご高齢でご存命であった。真新しい広い玄関に、車椅子の姿で御出になり、娘さんが介添えされての聴き取りとなった。元住職は相当に耳が遠くなっており、当初は、萎えしぼんだ様子で、娘さんも申し訳無さそうにしていた。しかし、元住職が書いた巻頭の文面のコピーを渡すと、元住職はそれをジッと眺めた。しばらくすると、次第に元住職に生気が戻って来るのがわかった。残念ながら原本は無いとのことだった。ただ、吉田氏のことはよく憶えており、吉田氏は、元住職のご尊父と親交が大変に厚く、山鹿の歴史等にとても詳しい方であったとのことだった。吉田氏の親族としては、自分(元住職)と同い年くらいの娘さんのことは憶えているが、上京されてその後のことは分からないとのことだった。
原本は見つからなかったが、吉田孝祐氏が実在していた人物であることを肌で感じることができ、元住職や娘さんとの素晴らしい時間を共有することができた。

一方、原本が県立図書館に所蔵されている可能性も探った。現在はコロナ禍で、熊本県内は、新型コロナウィルス蔓延防止等重点措置にあるため、図書館は閉館中で直接出向いてのサービスは受けられない。私は先ず図書館のウェブサイトの検索サービスを利用した。すると、著者名とタイトルの検索で吉田孝祐の山鹿郡誌はあっけないほど簡単に見つかった。発刊は1932年となっていた。次はメールによるレファレンスサービスを利用して、その著書の中に「霊仙寺の謂」があり、そこに「三玉」についての記載があるかを尋ねた。数日後、メールで返信があった。
『「霊仙寺ノ謂」の6行の中に「三玉」を確認することができませんでした。』とあった。
県立図書館に所蔵されていたのは、出版の1932年が示すとおり、昭和六年に吉田氏が最初に作成したものだった。そして、その中には「三玉」の由来は記載されていなかったのだ。つまり、吉田氏は、太平洋戦争が終了して日本に引き揚げてきた後に、序文にも記している通り、さらに調査を行っていたのだ。そして、霊仙寺については、『三玉山久慶院縁起』をいづこかで見つけ出すとともに、それを補筆するかたちで新たに山鹿郡誌を三部作成したのだ。
そして、それが本澄寺に渡り、吉田氏の三回忌を執り行った元住職が、大事な遺品であることに気づき、コピー複写して再編纂したのだ。さらに、その後、これが貴重な資料であると気づいた誰かが、山鹿市立図書館に寄贈したものと考えられる。

吉田氏は、戦争が終結して焦土と化した熊本に戻ったとき、大事な歴史資料がまたも無惨に焼失したことに大変なショックを受けたのではないだろうか。それ故に、吉田氏は、山鹿で最も由緒あると思われた、”焼失”した霊仙寺について調べ直し、それを後世に伝えるべく、この山鹿郡誌を作ったに違いない。私は、そのことに気が付いたとき、突然、熱いものが込み上げてきた。

会社の自分のパソコンのモニターに映し出された県立図書館からの返信メールを前にして、次から次に涙が溢れてきた。そして私は気づいた。吉田氏や元住職から受け継いだこのバトンを、しっかりと次の世代に渡すのと同時に、江戸時代の佐治兵衛翁や明治の三村長、そして昭和の吉田氏や元住職の皆さんの思いを、山鹿市民並びに県民の人々に広く知ってもらうのが自分の責務だと。

新聞の企画記事向けの取材がきっかけだったとは言え、興味本位から始まった「三玉」についての調査の行方が、このような重責を担うことになるとは全く予想していなかった。

しかし、私には、まだ、調べなければならないことが残っていた。

それは、景行天皇の侍臣達が見たものは何だったのか、そして、景行天皇の九州巡行は伝説ではなく史実である事を検証し、さらに、生目神社を勧請した佐治兵衛翁の本当の真意を探りだすことだった。


本澄寺の元住職と筆者

《参考文献》
速水侑 編著『民衆の導者 行基』吉川弘文館 2004年

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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』21.三玉山久慶院縁起

2022-10-25 21:02:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【三玉山久慶院縁起】
本澄寺の住職がコピー編纂した吉田孝祐氏が記した『舊山鹿郡誌』には、時期が異なる二つの序があった。一つは昭和七年(1932年)、もう一つは昭和二十六年(1951年)に記されている。全文を紹介したいところだが、かいつまんで現代文調で記せば以下の通りである。先ずは昭和七年の序文だ。

歳月の推移によって、故郷の由緒深き往古の社寺史跡は荒廃し、僻地には伝説や史跡が残っているものの、町中においては開発が進み、昔の面影を偲ぶことが困難になりつつある。これを深く惜しみ憂いており、遠き昔の史跡のことを、永久に伝え偲ばれることを願って、長老に聴き、古刹を訪ね、遺跡を探索し、古書を漁って、粗雑ながらこの一冊を書き上げた。由緒深き我が郷土史を代々子孫に伝えられ、この一冊が参考になれば幸甚である。また、追って書きとして、本書は二冊作り、一つは手元に、一つは叔父の吉田重次氏(山鹿市在住)に送るとあった。

一方、昭和二十六年の序文は次の通りだ。

右の書を記した後、志を抱き上京して八年が過ぎ、次は希望を大陸に見出して昭和十五年に満州に渡った。その際、書類の一切を在熊の父に託したが、昭和二十年七月一日の米空襲によってことごとく灰に帰した。昭和二十二年三月六日に大連より引き揚げて、その話を聞き、山鹿市の叔父より前著『山鹿郡誌』を借りて、これにさらに補筆を加えて作ったのが本書である。追って書きには、作成においては山鹿旧語伝記(父の筆写本があったが焼失)を主体として、熊本県史、鹿本郡史、及び神社寺院その他の実地調査によるとあった。また、本書は三部作成したとあった。

今、私の手元にあるのは、この昭和二十六年に作成された三冊うちの一冊をコピー複写したものである。
「霊仙寺の謂」は次の一文で始まる。

此寺は往時大寺にして今霊仙村は殆ど其寺内也と言う。門前馬場の跡、陀羅尼坂、仁王門台石等今尚残存せり。『三玉山久慶院縁起』次に記す。

手元には本文のコピーがあるが、以下二ページに渡る記述は、この『三玉山久慶院縁起』の写しなのだ。古文書の写しで、しかも、行書と草書の中間的な文字で全文解読は困難なため、要所を抜粋して紹介する。

この『縁起』の出だしは、第十二代景行天皇の熊襲征伐の話しから始まり、これまで紹介してきたものと同様の震岳の由来が記してある。そして、天皇は震岳での勝利の後、震岳の麓の布都に暫く滞在していたところ、東の空に五色の瑞雲(虹色に輝く彩雲と思われる)が現れるのをご覧になる。不思議に思った天皇はそこに侍臣を差し向けた。侍臣たちは、そこで珍しい草花や高木(奇花奇草喬木)を見つけ、その土地が崇高で、景気佳絶仙郷とも言う群幽な所であったので、さらに調査を行い三つの玉を得たので、それを天皇に献上したところ、「霊地なるかな」と仰せになった。天皇はその玉を土着の者に下賜したのち、その者達が徳に思い、天皇の遥拝所となる登壇を設けて春秋に祭りを行った。しかし、玉はいつの間にか失われて今は無くなってしまった。その後、数世代を経て慶雲の時代に入って、この地に高僧の行基が来た。行基はこの地に暫く留まり、霊地なればということで一つの寺院を建立した。そして、この寺を、三つの玉が出て瑞雲が登った所にちなみ、また年号が慶雲ということで「三玉山久慶院」と名付けた。行基の一刀三礼によって彫られた釈迦牟尼佛が本尊となり、一時は大変な隆盛を見せたが次第に衰え、その後、菊池初代則孝によって再興されたのち、さらに寿永の頃は、小松内府重盛の造営に伴った繁昌の寺院として当国七大伽藍と言われた。文明の頃に入って、第二十一代菊池重朝祖先の建立した寺と田地の寄付を持って十二院の末寺を置いた際、霊地と仙郷に因み、「本覚山霊仙寺」と変更した。
この後については、天正年間における島津家と隈部一族との壮絶な争いのことが具体的に記されている。そして、当地がその主戦場となって島津軍が撤退の際に霊仙寺を焼払い、この時に、宝物や旧記がことごとく烏有に帰したと記載されている。また、天正十五年の佐々成政と隈部家の交戦のときも焼失があったとされている。その後は、長らく荒廃が及んだ所に、釈迦院の別峯和尚が訪れてこれを嘆き、細川藩に願い出て一庵を建立して僅かにその跡が残っている、と締め括られている。


《参考文献》
吉田孝祐『舊山鹿郡誌』昭和26年 園田匡身(本澄寺住職)昭和60年複写製本
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』20.大発見!

2022-10-24 21:07:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【大発見!】
GWに入る一週間前の週末、その日も山鹿方面に向かっていた。目的の一つは、鹿北町椎持地区の野外施設で、健康に関するイベントで行われる予定の、東田トモヒロ君のライブを観に行くことだった。そのイベントについては、彦岳と震岳を登ったときにお世話になったNさんの奥さん(Mさん)から教えてもらっていた。Mさんは、妻と友人であり、私が東田君と知り合いであることを覚えていてくれて、その日のイベントにはMさんも行くつもりと言うことで、夫婦揃って誘われていたのだ。

しかし、野外ライブは夕方からで、それまでは十分な時間があったので、妻には悪かったが、その日は朝から夕方まで、博物館へ『山鹿市史』の購入や山鹿市内の神社訪問などの現地調査に付き合ってもらった。そして、もう何度目になるかわからないが、この日もこもれび図書館に足を運んだのだった。

今回の訪問は、これまでKさんが調べてくれたメモを頂くことだった。KさんはA4用紙にきちっとまとめたものを封書に入れて渡してくれた。そして、それとともにA4サイズの手作りされたような一冊の資料を見せてくれた。緑がかっかた表紙に書かれた文字は、『舊山鹿郡誌』となっていた。県立図書館で見た『山鹿郡誌』とは明らかに異なっていて、その冊子は、コピー用紙に無造作に複写した50ページ程度のもので、その雰囲気からして、あまり価値のある資料には見えなかった。

しかし、表紙をめくると、資料の巻頭には、山鹿市山鹿の本澄寺住職が、昭和六十年(1985年)八月一日付けで、本書を取りまとめた経緯が筆書きで記されていた。それによれば住職の父と親交の深かった吉田孝祐氏が山鹿の史跡について記した資料を、氏の三回忌に合わせて編纂したものと記載されていた。

私は閲覧の机に突っ伏してページをめくった。すると、久原村の欄に、「霊仙寺の謂」を見つけた。その部分は三ページに渡って記載されていて、様々な史跡の説明文の中では最も文量が多かった。文章は、吉田氏本人による崩れた行書風の文字の古文調であるため、にわかには理解できなかった。しかし、読める部分から類推すると、そこには明らかに霊仙寺と三玉についての由来が記述されているようだった。拳に力が入った。資料から目を離すと、目の前にはKさんが立っていた。女神に見えた。

ハリウッド映画の主人公ばりにKさんを抱きしめたい衝動にかられたが、今日は妻が一緒で、ここはしかも図書館だ。声を殺したつもりでも小声にならない自分の声が、感謝と喜びの気持ちをKさんに伝えていた。そして必要部分の複写をお願いしたのだった。

今のような興奮状態では、どのみち読めたとしても正しい理解には至らないと判断した。帰宅後の落ち着いた時間に、腰をしっかり据えて読もうと思った。

ライブ会場に着いた時は雨模様となっていた。しかし、ライブが始まる時間には雨が上がっていた。東田君の歌声は、やっぱり野外が似合う。一番好きな「ヒーロー」も歌ってくれた。ライブ後、東田君とこのイベントの主催者である奥さんと久しぶりに言葉を交わすことができた。それから、東田君のバックバンドの中に、高校時代の数学の先生のご子息であるT君を見つけた。

もう15年以上前のことだと思うのだが、あるライブ会場の後ろの隅に、その会場には全く不釣り合いな年配の男性を見つけ、それが高校1年生のときの数学の担当教師だと気づいたのだ。先生は、私のことなど忘れているだろうと思ったが、こちらには忘れられない記憶があった。それは、授業中に黒板の前で問題が解けなくて固まっている私に、クラス全員の前で「オマエは理系に行くなっ!」と言って大恥をかかせてくれたのだ。15年以上前のそのライブハウスで、少々アルコールが入っていた私は、その過去について問いただすべく先生に近づいた。挨拶を済ませると、間髪入れずに先生が返事をしてきた。
「倅なんだよ、あれ」
貴様は黙ってろとの拒否感たっぷりの雰囲気で、私には目もくれず、先生の視線の先には、長身だがまだあどけなさの残る少年がスポットライトを浴びてギターをかき鳴らしていた。先生に似ていた。ステージデビューしたばかりの我が子を見に来ていて、会場の隅から応援していたのだ。

私は、そのことを初めてT君に話した。先生は元気とのことだった。何よりだった。
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』19.三玉山霊仙寺(みたまやまりょうぜじ)

2022-10-23 20:12:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【三玉山霊仙寺(みたまやまりょうぜじ)】
山鹿市三玉校区は、旧三玉村を指していて、明治半ばに、周辺の上吉田村、久原村、蒲生村の三村が村名を新たに「三玉村」として合併誕生したことに由来する。それは、『山鹿市史(下巻)』の明治二十二年(1889年)の合併時の町村名選定理由の中に「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」の記載でわかる。
旧三玉村の合併三村のうち、上吉田村が震岳の東斜面とその麓の西側地域、蒲生村が蒲生池や不動岩がある東側地域、久原村がその中間の首石岩や一ツ目神社がある地域だ。そして、久原村の中には今でも霊仙(りょうぜ)と呼ばれている地区があり、そこには尋常小学校時代も含めると100年以上の歴史を誇る三玉小学校があり、霊仙地区はその昔からある程度開けていたことがわかる。また、「霊仙」という名の響きには、誰もが崇高で由緒正しい雰囲気を感じることだろう。

霊仙地区の中ほどには、昭和に立てられた古びた公民館があるが、その傍に霊仙寺跡と金色で刻銘された立派な記念碑が立っている。その記念碑には霊仙寺縁起が記されている。それによると、この霊仙寺は、菊池氏初代の菊池則隆によって創建され、平重盛が再興して国内七大伽藍の一つに数えられたが、戦国時代の佐々成政の時に焼失したと伝えられている。また、本尊は釈迦如来坐像をはじめ六体の尊像があり、門前馬場の跡、陀羅尼坂、仁王門の礎石、石体六地蔵などが出土し、豪壮な伽藍、広大な寺域を持った大寺院であったと伝えられ、現在の霊仙地区は霊仙寺の門前町だと言われている。

同様のことは、『山鹿市史』にも記載されている。しかし、三玉村の合併時に村民が村名選定理由に挙げた「三玉山霊仙寺アルユエ」の文言に含まれる三玉山あるいは三玉については、記載されていない。それは、『山鹿市史』が引用している明治に編纂された『山鹿郡誌』にも記載がないからである。

霊仙寺を創建したとされる菊池則隆は菊池氏初代の惣領で、延久二年(1070年)の平安時代の後期に太宰府の荘官として赴任した人物である。近年の研究では、太宰府長官職であった藤原氏と関係を深めて、その任を得た地元の土豪で、菊池の姓も以前から名乗っていたと考えられている。そのような則隆は、支配強化の一環とした外城の配置以外にも菊池川流域への影響力を強めるために寺社勧請も数多く行っている。深川の佐保川八幡宮、神来(おとど)の貴船神社、旭志弁利の円通寺などがそれである。

佐保川八幡宮は祭神を応神天皇とし、菊池川右岸の菊池市深川に創建されているが、神社の名になっていのは佐保川だ。これと同じ名の川が奈良盆地にあり、この川は、奈良盆地の北部に8世紀に遷都された平城京を南北に貫流し、大和川となって大阪湾に注いでいる。貴船神社は水の神を祀る全国二千社を数える神社の一つで、本社も同様の名の貴船神社で、この神社は京都市左京区の加茂川支流の貴船川沿いにある。
円通寺は天長四年(824年)山城の国(京都府)に建てられたが、時を経て衰微したこの寺を、則隆が永久ニ年(1070年)に勅許を得て合志川の上流の旭志弁利に造営したとされている。
いずれの寺社も奈良・京都に関連していて、菊池氏初代則隆は寺社の造営においては、自身の権威高揚のためか、当時の朝廷と縁を深める若しくは模倣するような目的があったのではないかと思われる。
であるならば、則隆が創建したとされる霊仙寺も、奈良・京都に関連のある仏閣と類推するのは、方向性として大きく逸れてはいないだろう。


しかし、私が調べた範囲では、朝廷と結びつくような霊仙寺は見つからなかった。ただ、大分県の国東半島には、養老二年(718年)に仁聞が開基したとされる霊仙寺(れいせんじ)があるほか、鈴鹿山脈北方の滋賀県と岐阜県との県境には霊仙山(標高1083.5m)があり、かつて山頂に霊仙寺(りょうぜんじ)が建立されていたという。また、この山は、息長氏(おきながうじ)を祖とした近江国出身とされる平安時代前期の高僧「霊仙」に由来するらしいが、延暦二十三年(804年)に第十八次遣唐使として入唐してからは一度も本国には戻ることができず、没したと伝えられている。
残念ながら菊池則隆のゆかりに頼った「三玉山霊仙寺」の探索は暗礁に乗り上げてしまった。

では、霊仙寺を再興したとされる平重盛の線ではどうだろうか。

平重盛は保延四年(1138年)生まれの平清盛の嫡男で、平安時代末期とは言え、官位として正二位内大臣にまで出世した大武将だ。往時の国のほぼトップが造営に関わったとすれば、国の威信がかかっていたはずで、国内七大伽藍の一つに数えられたと言うのは当然のことだろう。しかし、なぜ、この地に大造営を行ったかについてはよくわからない。確かに、菊池一族は第4代の経宗の時代(天仁二年(1109年)頃)は、鳥羽院の武者所として出仕していた。しかし、第6代の隆直の時代には、平家の入宋貿易拡大による九州支配に反発して、重盛の死去した翌年(治承四年1180年)に阿蘇惟安、木原盛実とともに太宰府を襲撃しているのだ。重盛の死去前までは極めて良好な関係だったのかもしれない。いや、そうではなく、やはり全く逆であったと考えるべきかもしれない。

重盛の父である平清盛は、種々の伝えや資料から類推すると、傲慢で激昂しやすい性格であったことが伺える。また、清盛は保延三年(1137年)に肥後守に任ぜられ、仁安二年(1167年)に武将としては初めての行政官トップの太政大臣となっており、九州支配を目論んでいたようなのだ。そして、武者所の菊池氏などは、地方の木っ端豪族と見下しており、九州一円に対する権勢誇示のため、菊池氏初代則隆が創建したとされる神聖かつ由緒ある寺を、ある意味乗っ取るようなかたちで嫡男の重盛に命じて霊仙寺を再興させたと考えたほうが自然かもしれない。

平家に背いた第6代隆直らは、平家の家人の平貞能(さだよし)の討伐に対し、約三年の抵抗を見せて降伏したのち、壇ノ浦の戦いでは平家方につき、源義経により殺されたという。そして、菊池一族は平安時代末期に平家寄りであったがために、これが鎌倉時代の反幕活動に繋がっている。

平家のラインからも探索したが、残念ながら、上記のような軍記物語の域は超えられず、三玉山霊仙寺につながるものは見つからなかった。ただ、この資料探索によって、当時の菊池川流域の人々が平家贔屓になったことは間違いないとう感触を得ることができた。そして、源氏に討たれた第6代隆直や、鎌倉時代の菊池一族の不遇の時期を思えば、流域の人々の心に、自ずと平家一門に対する親しみや哀悼の意が湧いてくるのは当然であろう。

戦国時代の末期、豊富秀吉の九州征伐ののち、肥後領主に任ぜられた佐々政成の強引な地検に反発した肥後国衆は戦いを起こした。(国衆一揆、天正十五1587年)。この戦闘のなか、霊仙寺は成政により焼き払われた。歴史にタラレバを持ち込むのは禁じ手だが、もし成政や、後の小西行長による県南地域での寺社に対する焼き討ちが無ければ、県内の文化遺産はもっと豊富だったはずで、私如きが、三玉山霊仙寺について頭を抱える必要はなかったであろう。
また、三玉の霊仙地区は、時の平家、国内三大忠臣として人気を誇る小松内府平重盛が建てた仏閣の所在地として、いつの時代も高い注目を浴びていたことだろう。

しかし、焼き払われた事実があったからこそ、私は菊池川流域の歴史について学ぶ機会を得たことに感謝すべきと思うと同時に、そのような由緒ある仏閣が焼き払われたあとの民心はどうであっただろうかという疑問が湧いてきた。
国衆一揆で、周辺の国衆はほぼ殲滅し、地域に平和が訪れたとはいえ荒廃しきった菊池川流域に、寺社復興の力はもはや無かったであろう。しかし、民衆にはいつも復興への強い願いとともに信仰の心が現在にも引き継がれているように、当時は今以上の篤い信仰心が残っていたと考えられる。

してみると、江戸時代になっても、この地において平家を敬い信仰の対象としていた人物がいてもおかしくはない。むしろ、自然であると考えるべきではなかろうか。

霊仙地区から東へ500mの福原集落に「生目神社」がある。本社は、宮崎市の生目地区の「生目神社」で、祭神は藤原(平)景清公が祀られている。一説では、平家の勇猛な武将であった景清公が、敵の源氏に捕われたとき、源氏の総大将・源頼朝公にその武勇を惜しまれ宮崎へと封じられたが、仇である源氏の繁栄を見たくないと両眼をえぐって空に投げ捨てこの場所に落ちたという。
そして、この神社に月詣として通っていた佐治兵衛が、江戸時代の終わり頃に当地に「生目神社」を勧請している。しかも、御神体としては申し分ない三頭状の不動岩と同じ「礫岩」に祀ったのだ。

ひょっとすると、この高まりにある三頭状の「礫岩」は、その昔は霊仙寺の飛地境内で、霊仙寺の焼失とともに放置されていた所を、佐治兵衛が聖地として復活させたのではないだろうかという思いに至る。勧請に当たって、周辺村民の反対はなく、むしろ歓迎の声さえ上がったかもしれない。「生目神社」が元は「三玉山」だったのかもしれない。
そうであれば、明治期においても当地が、依然として三玉山と呼ばれていた可能性があり、明治二十二年(1889年)の合併時の町村名選定理由の「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」となったのは自然な成り行きと言えはしないだろうか。しかし、「霊仙寺」の名の由来については依然としてわからない。

なお、昭和六十二年(1988年)発行の『ふるさと山鹿』によれば、霊仙寺は焼き払われた跡地に草庵が建てられ、大正の末期までは僧侶も住み、細川家の泰勝寺の支配下であったらしいが、昭和四十七年(1972年)に霊仙公民館建設時に取りこわされたとのことである。




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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』18.砂鉄からの出会い

2022-10-22 21:01:30 | 三玉山霊仙寺の記録

【砂鉄からの出会い】
「一ツ目神社」の祭神が、鍛治の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と知った時から気になっていたことがあった。前にも少し触れたことだが、菊池川流域で鍛治と言えば、菊池一族や加藤清正のお抱え刀工であった「同田貫」が思い出され、そのような技術集団が生まれる素地としての豊富な原料供給、ー砂鉄の供給ーが古代からこの流域にあったのではないかと考えたのだった。

早速、ネットで検索してみたところ、昭和37年の国の調査で菊池川流域の花房台地で九州最大の砂鉄鉱床の存在が明らかにされていることがわかった。そして、それを見つけると同時に、このような砂鉄鉱床と古代製鉄の関連について書かれた書籍若しくは論文はかならずあるはずで、機会があれば見つけて読みたいと思っていた。

実は、不動岩の翌日に行った県立図書館では、上記のことも念頭において書籍類を渉猟していたのだ。そして、期待通り、菊池のたたら製鉄について記された書籍を見つけることができた。それによれば、菊池川流域で最も「たたら」の痕跡が多いのは菊池川下流域の玉名・小岱山麓であると紹介しながらも、中流域の菊池でも五〜六ヶ所あることを地名と位置図で示し、このうちの代表的な所から「山砂鉄」や「川砂鉄」を採取して、実際にたたら製鉄を試みたことがその書籍には書かれていた。私は、その内容に驚くとともに、その数ページを図書館で複写して持ち帰ったのだが、やはりその書籍を全て読み通したいという思いが強くなり、帰宅後、直ぐにアマゾンで検索してみた。すると、どうにか一冊が検索にヒットしたが、その書籍は定価の1.5倍の価格で売り出されていた。

数日後、手元に届いたその書籍を一気に読んだ。筆者は菊池市在住の剣道六段の元小学校教諭で、昭和五十年代の約半年間、熊本大学教育学部地学教室に研究生として在籍して、教材開発の基礎資料を得るために、菊池盆地をとりまく第四紀地質を中心に野外調査を行った人物であった。書籍ではその研究成果が記載されているとともに、その結果を元に菊池盆地にかつて「茂賀の浦」と呼ばれた湖が存在したことを明らかにしていた。そして、その湖の範囲が、縄文時代から弥生時代にかけて縮小するという変遷の姿を、各時代の遺跡の分布と地形を照らし合わせて示しているのであった。
さらに、菊池盆地には5世紀以降、おびただしい数の神社が創建されているが、祭神の種類や造立地点の標高及び地形的な関連からも、「茂賀の浦」の水位低下を示すとともに地名との関連も指摘しているのである。


縄文遺跡と「茂賀の浦(縄文湖)」の範囲
中原英 著 『太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』より


弥生遺跡と「茂賀の浦(弥生湖)」の範囲
中原英 著 『太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』より

しかし、本書の真骨頂は、上記のことを踏まえた上で、「菊池」の語源は水が引いた自然地形(状態)を表すものではないかと指摘するとともに、邪馬台国と対峙した狗奴国は、稲作に適した大地と多量の鉄器類を背景に力を付けた、菊池盆地一帯の土豪勢力と考察した点である。
以下、本文より抜粋する。

『「魏志倭人伝」に「・・・・その(邪馬台国の)南に狗奴国あり、男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり、女王に属さず・・・・」とあるが、菊池は鞠智城などから、旧地名を「ククチ」と呼ばれており、「狗古智卑狗(ククチヒク)」は、菊池川流域を統率する長官ではなかったろうか。(中略)古代地名辞典によれば、ククチは「包まれたような地形、山陰にこもったあたり」という意味である。ククチを鞠智と表記していたが、それを後に「菊池」と表記し、ククチと言っていた。しかし、平安時代になると「キクチ」と読むようになったのである。私は、この「ククチ」が茂賀の浦と言われる古代の湖の水が引いて菊池盆地に広大な湿地帯ができていた頃、名付けられたと考えている。』

北海道の地質調査に携わるなかでアイヌ語の地名の多くが土地の状態や特性を表していることを知っていた私にとって、著者の考えは素直に受け入れることができた。また、そのことが当たり前のように思える一方で、アイヌ語と同様、土地の状態を表した地名が太古から引き継がれて現在に至っていることに、歴史のロマンを感じたのだった。


著者の紹介欄には『菊池川流域地名研究会事務局』と書かれてあった。数日後、著者のN先生と連絡が取れ、GW中にお会いすることができた。N先生は丸一日を費やして私に付き合ってくれ、午前の室内での話しの後、午後からは泗水町の久米八幡宮を一緒に訪問し、宮司のYさんを紹介してくれた。久米八幡宮の境内には、そこを取り巻くようにして、人頭大の丸い石で作られた龍のような石鎚がある。また、境内の一部には縄文時代の遺物を彷彿とさせる石棒や磨石を奉った所もあり、「三玉」のヒントになりはしないかと案内してくれたのだった。
その後は、菊鹿町の吾平(あいら)地区を訪れ、日本で唯一の自生地で千年以上前に中国の揚子江流域から渡来したとされる相良トビカズラという植物を観察した。次に、安産祈願で知られる相良観音とその東隣の吾平神社を参詣した後は、その西の吾平山山麓にある初代天皇の神武天皇の父である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の御陵、通称「陵さん(みささぎさん)」を訪れて、菊池川流域のみならず日本の古代について思いを馳せたのだった。


現在の地形図で見る菊池盆地(平野)と「茂賀の浦」


《参考文献》
中原英『太湖の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』熊本出版文化会館 2016年
原田種成「黒い砂」『地質ニュース』146号 p.12-27 1966年
長谷義隆、岩内明子「内陸堆積層の分布高度から求めた中部九州地溝内沈降域の変位」『地質学論集 第41号 中部九州後期新生代の地溝 別刷』1993年
熊本県教育委員会編『ワクド遺跡 熊本県菊池台地における縄文時代後期集落の調査 県営畑地帯総合土地改良事業に伴う文化財調査』熊本県文化財調査報告第144集 1994年
岩崎志保「縄文時代の植物利用と地形変化」『岡山大学 埋蔵文化調査研究センター報』No.48 2012年
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』17.先達との出会い

2022-10-21 20:20:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【先達との出会い】
私が何故これほどまでに地名にこだわるのか、その理由を少し記しておこうと思う。
大学院を卒業して間もなく、仕事で携わった資源探査のフィールドは北海道だった。一年のうち約2ヶ月は当地を訪れていて、道南地域を中心に地質調査に従事していた。そこで先ず私が驚いたのは、アイヌ語由来の地名だった。そして、その地名のほとんどが、そこの土地の状態や特性を表していることを知り、それが資源探査を進める上で大変重要な手がかりとなったことだ。以来、地名には重要な意味が隠されているかもしれないという姿勢を持って、現在の地質調査の仕事も取り組んでいる。

借りてきた『山鹿市史』を読み込んだが、やはり「三玉」につながる新たな手がかりを得ることはできなかった。次の一手は基本に戻ることとした。不動岩の礫岩について地質学的研究を行い、その成果を論文にした著者を訪ねることにした。訪問に先立って、突然の無礼を詫び、目下の悩みについて相談にのって頂けないかとの趣旨の手紙を出した。
論文の著者は山鹿市内で中学校の校長を務めていらっしゃるS先生だ。全く面識も無く、S先生はその中学校には赴任したばかりで、しかもコロナ禍で忙しいはず。返事はあまり期待していなかったが、訪問すれば、何かヒントをもらえるかもしれないという期待があった。

会えなくて元々、会えればラッキーという程度の気持ちで、次の週末にその中学校を訪問した。その中学校は、菊池盆地西端に位置する台地の上にある学校で、敷地に入るとグランドでは野球部と思しき数人の生徒が自主練をやっているようだった。駐車場に車を停めようとハンドルを切っていると、ラフな格好をした初老のやや小柄な男性が昇降口に向かって歩いている姿が目に留まった。校長先生だと直感した私は急いで車を停めるとドアから飛び出して、声をかけながら駆け寄った。

その男性はかなり警戒した様子で私が近づくのを待ってくれた。人違いの可能性もあり、順を追って要件を話すと、男性の表情はみるみる和らいでゆき、最後は満面の笑みとなって自分がその本人だと応えてくれた。
S先生と私では教師と民間技術者という全く異なる職種だが、同じ「地質」を専門にしているという同族的な親近感があるのかもしれない。すぐに打ち解けて、不動岩の成因や「三玉」について様々な意見交換を行うことができた。
残念ながら、目下の悩みの解決には至らなかったが、悩みを聞いて貰えただけでも本当に有り難かった。
S先生の教職らしい最後の言葉が印象的だった。

「三玉については、オープンクスチョンで終わらせるのもいいんじゃないですか?」

なるほど、その手もあるかと思ったが、諦めるにはまだ早かった。
車に乗り込むと、この日の目的地としている山鹿市立博物館へ向けて出発した。博物館では、山鹿市を中心とした菊池川流域の考古・歴史資料の展示を見て回った。その後は、こもれび図書館を再度訪問し、加えて現地調査も行ったが、三玉につながる新しい収穫はなかった。くたびれた。

オープンクエスチョンも悪くないかもしれないと思い始めていた。

《参考文献》
島田一哉、宮川英樹、一瀬めぐみ「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌』120 p.9-18 1999年
山鹿市立博物館webサイト『https://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1264127825069/』
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』16.熊本県立図書館

2022-10-19 21:28:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【熊本県立図書館】
不動岩に登った翌日は、前日と打って変わって雨模様だった。私は朝から県立図書館へ足を運んだ。コロナ対策の一環で、入口のエントランスで連絡先を記入すると2階の閲覧室へ向かった。入口横のトイレに目がいった。どうでもいいことだが、高校生のとき、このトイレで文字酔いして吐いたことを思い出していた。

図書館に行った理由は、もう一度『山鹿市史』を閲覧して貸出を試みることだった。それから、「生目神社」のことが気がかりだったので、山鹿の神社についてもっと踏み込んで調べること、そしてナニヨリも、こういう行動が時と場合によって予想外の成果を得ることがあるかもしれないという期待があったからだ。

郷土に関連する書籍類は、カウンター沿いの奥の書棚にその一画が設けられていた。県内の史跡や文化、自然に関わる様々な書籍があり、その中に『山鹿市史』は直ぐに見つかった。しかし、全体として見た場合、郷土の関連の書籍数としては期待したほどの冊数が揃っていないように思えた。カウンターに行きそのことを尋ねると、3階の第2閲覧室を勧められた。ただし、3階の資料は貸出できないことと、バッグ類の持込みもできないことを告げられたのだった。初めての利用者であることがバレバレで少し恥ずかしくなったが、早速、3階へ上がった。

2階に戻ったときは既に4時を回っていた。3階の閲覧室には膨大な郷土資料が所蔵されていて、熊本の地名辞典や在野の郷土歴史家が記した手書きものの複写資料や、また、真新しい一般書籍風ではあるものの発刊部数が少ないために貸出できない山鹿・菊池地方の歴史について書かれた良書があった。それらを片っ端から抜き出してきて机に平積みし、ページをめくり必要箇所に付箋をつけコピーをお願いしたり孫引きしたりメモを取っていたら、あっという間に夕刻になったのだ。

「生目神社」につていては、創建以前がどうであったかわかるような資料を見つけることはできなかった。しかし、他のさまざまな郷土資料に目を通して明確にわかったことがあった。
それは、これらを記した人々の、地域への深い愛着と地域の歴史やルーツについて知りたいという強い思いだ。それに加えて、知り得たことを人々に伝えなければならないという彼らの使命感だ。

明治の初め頃に書かれた「山鹿郡誌」の原本である古文書を見たときだった。それは、明治八年の県の命によって各村から提出された資料を徳丸氏が取りまとめたものであるが、私が見た資料は完成前の草稿資料と思われるもので、細かい文字による訂正や朱書、さらには付箋を用いた補筆もあった。その中には、正確な記録を残すための努力を伺わせるものだけでなく、その地名の由来についての独自考察や解釈が記載されたものがあった。今から約150年前の賢者でさえも地名の由来を明らかにすることは容易なことではなかったのだ。
2階に戻り貸出カードの手続きを行い、『山鹿市史』の三冊を借りた。それらをトートバッグに入れて担いだ。三冊の重みがズシリと肩に食い込んだ。

《参考文献》
徳丸秋⬜︎『山鹿郡誌』徳丸家文書 1878年(明治11年)
山鹿市史編纂室 『山鹿市史 上巻、下巻、別巻』 山鹿市 昭和60年3月
熊本県立図書館webサイト『https://www2.library.pref.kumamoto.jp/』
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』15.生目神社(いきめじんじゃ)

2022-10-18 21:08:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【生目神社(いきめじんじゃ)】
日の岡山を下り、県道日田鹿本線に出た。この県道は、古代の歴史に造詣が深かった故古閑三博県議が心血を注いで建設を促したとされる、地元では通称「三博道路」の愛称で親しまれている道路だ。敬意を込めてこの県道をしばらく走り、次に目指したのは蒲生池(かもうのいけ)だ。

蒲生池は、水の乏しさで窮乏を極めた地域を救うために、中村手永庄屋の遠山弥ニ兵衛が若干三十二歳のとき、自ら周辺を調査して蒲生村の湯ノ口を溜池の候補地と選定し、嘉永六年(1853年)に藩庁に工事の着手を願い出て、安政二年(1855)に着工し約3年の月日を費やした末に完成をみた溜池だ。着工に至るまでの周辺村民との協議、着工後の度重なる難所•災害との遭遇、工事費用の工面など、筆舌に尽くしがたい苦心と努力があった。伝えによれば、最初の満水から初めての放水の際、弥ニ兵衛夫婦は白装束で現れ、堤防にもしもの事が有れば、そこで自害して村民に詫びる誓いを立てたという。また、古書によれば、付近ではその昔に温泉の湧出があり、築造当時は「湯ノ口溜池」が正式名称であった。

溜池の堤で脚を止めた。水面には春の空と山の芽吹き、そして桜が映っていた。水面にカメラを向けている人たちが幾人もいた。桜の下には、年配の夫婦や長い付き合いと思しき人々のグループがそれぞれの桜の下で花見を楽しんでいた。

幸福を切り抜いたような風景から、過去の苦労を想像することほど無粋な行為は無いと思ったが、過去の苦労と今の幸福は地続きなのだと思うと感謝の気持ちが自然と湧いてきた。堤の横に建立されている遠山神社に向かって静かに手を合わせた。

堤を下って次は生目神社を目指した。生目神社は県道津留鹿本線沿いの福原集落のこんもりとした高まりにあって、「左二つ巴」の家紋が描かれた大きな看板が目印だ。県道から数mのところに鳥居があり、そこを潜って手摺りが設けてあるコンクリート製の階段を登りやや右側に振れると比較的に新しい拝殿がある。そこで私の目に留まったのは拝殿ではなく、その横に露出していた「礫岩」の岩塊だ。直径数mの丸い岩塊が、ちょうど三つ並んでいたのだ。まるで三の頭ようだった。ひょっとして、これが「三玉」なのか!?。鼓動が高鳴りはじめた。岩塊の真上には生目八幡と刻まれた古い石祠もあった。

生目神社は「首引き」伝説の終盤にでてくる神社だ。首引きの綱が当たって片目になった神様の一方の目は福原の畑の中に飛んできたという。そして、それを「神様の生き目」と言って祀ったのがこの生目神社だという。

『山鹿市史(別巻)』に抄録されている「山鹿郡誌」によれば、この神社は生目八幡社として文化六年(1809年)に勧請されている。一方、『同(別巻)』の「鹿本郡神社明細帳」によれば祭神は平景清で、佐治兵衛という者が文久六年(文化六年の誤り(1809年))に勧請したとされている。

私は、参拝を済ませると階段を少し降りて社務所兼自宅となっている建物に近づいた。様子を伺うと玄関の網戸の向こうに人の気配があったので声をかけた。すると、かなり年配の男性のかすれがかった声が返ってきた。

その年配の男性は、古い言い伝えで詳しいことはわからないと前置きしながらも、遠い先代が月詣として宮崎に通っていた神社から勧請を受けた旨の話しをしてくれた。その先代は、毎月、宮崎詣でをしていたと言うからには、ただの百姓ではなく細川家に仕えていた比較的に身分の高い者ではなかったろうかと話した。

宮崎市の生目地区には本社の「生目神社」がある。古くから「日向の目の神様」として眼病にご利益があると信仰され11世紀中頃には建立されていたと伝えられている。主祭神には応神天皇と藤原(平)景清公が祀られており、一説には景清公の伝説が神社の名前の由来とされている。その伝説とは、平家の勇猛な武将であった景清公が、敵の源氏に捕われたとき、源氏の総大将・源頼朝公にその武勇を惜しまれ宮崎へと封じられたが、仇である源氏の繁栄を見たくないと両眼をえぐって空に投げ捨てこの場所に落ちたというものである。また、別の伝えとして、景行天皇の熊襲征伐の途中、父の活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこさちのみこと、第十一代垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀を当地で営んだことに由来し、後に住民が「活目八幡宮」として称えたというものである。

いずれにせよ、三玉地区の「生目神社」は、その名前の通り目を祀った神社であることは間違いない。造立されたのは江戸時代とは言え、周辺の由緒ある寺社等に比べると比較的に新しい神社だ。拝殿や古い石祠の配置から推察すると、三頭状の岩塊を含めたこの高まり一帯を御神体もしくは神聖な場所として、この地に「生目神社」を創建したと考えて良いのではないだろうか。では、「生目神社」が造立される以前は一体何だったのか。「三玉山」だったのだろうか。
発見とともに新たな疑問が湧きあがってきた。


生目神社の入り口


拝殿横の三頭状の「礫岩」

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「鹿本郡神社明細帳」『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.282-422
山鹿市史編纂室 「山鹿郡誌抄」『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.423-595
「生目神社」ウィキペディア 『https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%9B%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE』
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』14.日の岡山

2022-10-17 21:09:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【日の岡山】
不動岩が、奇岩と呼ばれるような独特の形になった理由については、現在のところ残念ながら仮説すら提示できない。しかし、「謎の微細突起物」を採取した直後は、後輩のN先生に連絡が取れて分析してもらえさえすれば、きっと何かが分かるだろうと期待に胸が膨らんだのだった。そんな興奮を抱えて歩いているうちに、気がつくと蒲生山の頂上にあっけなく達していた。その場所は頂上であることを記した標識板がなければ素通りしてしまいそうな所だったが、そこから樹木の生い茂った尾根沿いをしばらく進むと唐突に目の前が開けて絶景を存分に味わうことができた。しばらく眺望を楽しんだのち、私は踵を返すと、今度は尾根沿いの南東方向のルートを選択して日の岡山(312.8m)を目指して走り出した。

日の岡山については、「首引き」伝説に勝るとも劣らない、県北地域では誰もが知っている「米原(よなばる)長者」伝説の中にその名の由来が説明されている。

その昔、菊鹿町の米原に大変な勢力を持った米原長者がいて、その長者は、田底三千町をはじめ山鹿の茂賀の浦までを含めた五千町の田植えを毎年一日で終わらせることを何よりの自慢としていた。しかし、ある年のこと、田植えが終わらないうちに日は西に傾き暗くなってきた。そこで、米原長者は持っていた金の扇で太陽を招き返して田植えを続行させたが、それでも日没になってしまい田植えは終わらなかった。ついに、長者は、倉の中から油樽三千個を持ち出して日の岡山の頂上から降り注ぐと火を放った。炎はたちまち火柱となって周囲を照らし、その明かりでどうにか田植えを終わらせた。しかし、その晩のこと、田植えが無事に終わったあとの宴の最中に、日の岡山から長者の屋敷に火の玉が飛んできて、屋敷や倉は全て焼け落ちてしまった。これから、日の岡山は焦土となって木は育たず火の岡山と云うようになった。また、屋敷跡からは焼けた米が出てくると云う。太陽を招き返したことで天罰がくだり長者は没落したと言われている。

また、この伝説には、「石」が深く関わっている前段としての物語があり、長者が富豪になれた最初のできごとが伝えられている。

その昔、肥後国菊池郡の山の中に、村人からも馬鹿にされるような貧しい男が一人で暮らしていた。ところが、あるときのこと、京の都の身分の高いお姫様が嫁いできた。聞けば、清水寺の観音様が夢枕にあらわれ、その男に嫁ぐようにお告げがあったとのこと。しかし、あまりの貧しさに驚いたお姫様は、男に小判三枚を渡して買い物に行かせた。ところが、その道中、鴨を見つけた男は小判三枚を投げつけて小判を失くしてしまった。それを聞いたお姫様は大そう呆れ悔やんだが、男は金色に光るものだったら裏山の炭焼き窯にたくさん落ちていると言った。そして二人でそこに行くと、確かに金色の石が落ちていて、それを山のように拾い集めて大金持ちになったという話しだ。

この大金持ちになるきっかけを作った金色の石、誰でも気になるところだ。

日の岡山のふもとには、戦後に廃坑となった銅鉱山があったことが『山鹿市史(下巻)』に記載されている。この鉱山についての詳しい資料は、まだ入手できていないが、1945年3月の戦争末期に軍需省地下資源調査所山鹿分室が設立されていたところからみても、ある程度の銅鉱石の産出があったことが推察される。そして、その銅鉱石には、当然、銅を含んだ鉱物が含まれているのだが、銅を含む鉱物として最もポピュラーに産出する鉱物は「黄銅鉱」という鉱物で、これが、まさに「金色」に光って見えるのだ。
九州北部地域では、弥生時代の中期から末期の遺跡からおびただしい数の青銅器が発見され、特に、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では青銅器の鋳型が多数発見されたことは記憶に新しい。当時の2〜3世紀の青銅器の原料は主に中国からの輸入に頼っていたとされるが、7〜8世紀頃には仏教の伝来によって始まった仏閣造営に伴って銅の需要増大があったのではないだろうか。この頃には銅を含んだ岩石を探索する技術も進んでいたに違いない。

観音様のお告げでやってきたというお姫様は、実は、現代でいうところのハニートラップ的産業スパイで、これによって富を得た男が実在したと考えるのも一興ではないだろうか。

一方で、この「米原(よなばる)長者」伝説の背景については、学術研究の成果から導かれた秀逸な考察があるので紹介しておこうと思う。

菊鹿町の米原地区に古代山城としての鞠智城跡があり、城跡の発掘調査は、7世紀から10世紀にかけての古城の変遷を明らかにしている。その中で、多数の建物が築造されていることが確認され、この建物で火災が起こり炭化した米が多量に出土していることが報告されている。また、文献史学の成果として12世紀には、在地領主の土地所有が成立していた可能性が指摘されていて、地名としての「米原」の成立は14世紀後半以前としている。

さらに、天文学の成果として「太陽が後戻りした」との表現は、「日食」と直感した天文学者が計算した結果、1061年6月20日の田植え時期に符号する日食が見つかり、しかも太陽の欠け始めは午後2時57分で、その2時間10分後に元通りになった。そして、午後4時7分が太陽の79%が欠けたピークであった。

このように、「米原長者」伝説は、その物語が成立する背景を持ちながら歴史的事実も確認できる点において、極めて価値の高い民間伝承だ。

日本には、全国各地に様々な伝説や言い伝えがあると思う。まして、足元の郷土にもまだ知らない言い伝えがあるのかもしれない。ひょっとすると、それは何気ない地名となって化石のようにヒッソリと発掘を待っているのかもしれない。
そんなことを考えながら、日の岡山の頂上に立った。いよいよ、「三玉」のことが私の中で大きくなりつつあった。


日の岡山



《参考文献》
金属資源開発調査グループ「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷 歴史シリーズ-銅(2)-」『金属資源レポート』石油天然ガス・金属鉱物資源機構調査部 編 2005年 350号 p.434-454
西住欣一郎「菊池城跡の最新の調査成果について」『菊池川がはぐくんだ歴史と文化』熊本歴史学研究会 2018年 p.122-147
吉井守正「九州地域地質センターの未公表資料が語る戦中戦後史」『地質ニュース』426号 p.42-48 1990年
堀秀道『楽しい鉱物図鑑』草思社 1990年
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「米原長者どんの話」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』13.謎の突起物

2022-10-16 21:17:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【謎の微細突起物】
「へげ岩」の下に回り、休憩用のベンチを見つけると、ここまで全く水分を補給していなかったことに気がついてザックを下ろした。水分を喉に流し込むついでに岩盤に目を向けると、そこにも割れ目があった。そして、割れ目に沿って、幅数十cmの岩盤が剥がれ落ちてそこはオーバーハングになっていた。下の地面には小礫が散乱していて、岩盤にも緩みがあるように見えた。落石の恐れを感じ近づくべきではないと思ったのだが、割れ目の表面の色が今まで見てきたものと雰囲気が違って見えたので近寄ることにした。

白色〜灰色の表面には僅かだが微小な凹凸があり、それらがまるで岩盤表面を薄く覆っているように見える。
工事現場で土や岩盤を一時的に掘削したときなど、表面が崩れやすい場合には、セメントと水、砂を練り混ぜたモルタルを表面に仮吹きして、その表面を抑えたりする仮設工法がある。
オーバーハングした岩盤に近づきながら、その白っぽく見えるザラついた表面は、危険防除のためのモルタルの仮吹き跡ではないかと一瞬思った。しかし、名勝と呼ばれる奇岩にそんな無粋なことはしないだろうと思いなおして、メガネを外して岩盤の表面をまじまじと観察してみた。
目を近づけると、ザラついた部分は礫と礫との間にあって、そのザラついた部分には数ミリの突起物が、まるで雨後の筍のように次々に芽を出して生えてきたもののように見えた。

記憶を必死にたぐり寄せた。この微細な構造には見覚えがあったが、その生成については突き詰めて考えたことはなかった。しかし、岩峰の成因の一つとして「温泉」を考えていた私は、この微細な突起物が温泉からの沈殿物であることが証明できれば、これはこれで面白いと思った。そのザラツキの具合が、古い温泉宿の湯舟の縁などにときどき見られる「温泉華」に似てなくもない。

私は、岩盤の表面から直接サンプルを採取したいという強い衝動に駆られた。しかし、不動岩は山鹿市の指定名勝であるので、そこはグッと我慢。かわりに、目を皿のようにして地面に落ちていた突起物を探しだし、小指の爪先程の量を拾い集めると、持参していたトレイルランニングのレース中に使っている補給タブレット入れのチャック袋(サンプル袋)に入れたのだった。また、偶然にもその突起物がついた小礫も見つけることができた。

この登山から一ヵ月後の4月末。私は新入社員のK君と九州大学博物館に勤務しているN准教授と3人でこの岩盤の前に再び立った。
N先生は、親交が比較的に深かった大学時代の同じ研究室の1学年下の後輩で、今年の3月末にあった恩師の最終講義をwebで聴講した際には、彼の元気そうな姿をモニター越で見ていた。なので、そのサンプルを必死で拾い集めたのは、N先生にダメもとで分析をお願いするためだった。そして、N先生はその分析を快諾してくれて、実体顕微鏡での観察のほか、X線回折と蛍光X線分析装置を使って、その突起物の構成鉱物や化学組成を調べてくれたのだった。
結論から言うとそれは温泉からの沈殿物ではなかった。構成鉱物の組み合わせや化学組成から判断すると、その微細な突起物は「礫岩」の主な元となっている「変はんれい岩」に近いということだった。また、実態顕微鏡の観察では、突起物の先端には小さい粒子が付着しているようだと説明してくれた。ただ、N先生は、分析結果はあくまで結果であって、この突起物がどのようにしてできたかについては、実際の状態を確認して総合的に考えないと確かなことは言えないと、慎重な姿勢を崩さなかった。そしてゴールデンウィークの最中、ご本人も興味が沸きコロナ禍で時間が取れるということで、現地まで足を伸ばしてくれたのだった。

N先生は岩盤に取りつくと、手持ちのLEDライトで表面を照らしながら、舐め回すように観察を続けた。そして、観察の合間に様々な意見を出しあって我々が導いた結論は、「浸食」だった。
割れ目に沿った一部の表面には湿り気があり、その水分は岩盤の内部から滲み出してきていた。降雨時などはその湧き出す水分量が増えるだろうし、雨水が表面を直接つたって流れ落ちることも考えられる。そのごく僅かな流水が長い年月をかけて極めて小さいマイクロサイズの粒子を削り、ある程度の大きさのミリサイズの粒子は取り残されて、結果として微細な突起物が形成されたと考えたのだった。
「ということは、これは、一種の超ミニミニ不動岩ってことか?」
「そういうことかもしれませんね。」
どこまでもクールなN先生だった。


謎の突起物 接写


九大のN先生と新人のK君



《参考文献》
九州大学総合研究博物館webサイト『http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/』
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』12.不動岩

2022-10-15 23:16:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【不動岩】
不動岩は、山鹿市の三玉校区(旧三玉村)にあり、山鹿市役所から東北東約4.5kmに位置する標高388.4mの蒲生山の中腹から頂上にかけて聳える、前不動・中不動・後不動の三つの岩峰から構成された岩山だ。このうち、前不動の高さは約80メートル、根回りは約100メートルと言われている。
不動岩では平安時代に山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する。当時は多くの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられている。現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿がある。

不動岩のふもとまでは、車道もあって乗用車が5台駐車できる展望所やトイレも整備されており、気軽に立ち寄れる観光スポットとして県内はもとより県外からの観光客も訪れているようである。不動岩の麓には、これまで下見を含めて何度も訪れていたが、他の観光客やハイカーと出会わない日はなかった。
ただ、今回は絶好の登山日和にもかかわらず不動岩の周辺で人影を見ることはなかった。年度末の最後の土曜日というせいかもしれない。

金毘羅神社から登山道を10分程歩くと前不動のふもとにたどり着く。その岩峰の真下に立ってその表面をよくみると、多くは丸みを帯びた大小の礫がたくさん集まってできた岩石であることに気づく。「礫岩」だ。
不動岩の殆どはこの「礫岩」からできていて、この礫岩の地層は、今から約8千500万年前の山地に近い浅い海か若しくは陸域の扇状地のようなところで堆積しできたと考えられている。この不動岩を含む礫岩の地層は、実際にはもっと広く堆積し、その後に強い圧力と長い時間をかけて岩盤になって広範囲にあったはずなのだが、浸食等によって削られてしまい、現在は、金毘羅神社の谷部を中心に東西1.5km×南北1.5kmの範囲と、北西の「首石岩」と南東の蒲生池の一部に分布するのみとなっている。そして不動岩は、その礫岩の地層の中で浸食によって周囲が削られて岩峰として取り残された部分なのだ。

前不動の真下には不動神社があって、拝殿の上には落石に備えた防護柵が設置されているものの、それ以外の所には安全を確保する施設は全くなく、立ち入り禁止区域も設定されていない。つまり、この岩峰は、近代以降は安定的な状態が最近まで続いていて、浸食には途方もない時間を必要とするということなのだ。

岩盤に触れてみる。指先で引っ掻いても表面の黒っぽい苔類にキズがつく程度でびくともしない。ツルハシを使ったとしても、表面が僅かに削りとれるぐらいだろう。それほど硬い岩盤になっているのだ。
駐車場の横から、遊歩道となっている急階段をしばらく登ると、中不動の頂上にでる。足元はもちろん礫岩だが、これまで無数の踏圧を受けているにもかかわらず、えぐれができているどころか、逆に磨きがかかって滑らになっている。眺望は絶景。しかし、滑りやすい足元が、高い所を苦手とする私の恐怖心を増大させてくれる。中不動からは鎖場を経て後不動、そして蒲生山の山頂に達することができるようだが、高所恐怖症の私は後不動の下を回りこんでいる遊歩道を選択して頂上を目指した。

その途中に「へげ岩」がある。これは後不動の岩峰の東端の岩盤が、今まさに剥がれようとしているように見える大岩だ。後不動と「へげ岩」の間にできた幅数十cmの垂直の割れ目が地中深くまで続いている。割れ目の表面をつぶさに観察したが、これといったものは見つからず、深い割れ目が連続しているだけで、どちらかというと向こう側から差し込んでくる光に気を取られてしまう。ただ、こういった深い割れ目が岩峰の成因の一つになるのだろうと思ったのだが、この割れ目ができた理由については皆目見当がつかず、割れ目の向こうから届く光が少し憎らしく思えたのだった。気を取り直すと、その割れ目を離れて「へげ岩」の下に回った。そして、そこで、ついに私は見つけたのだった!

つづく



不動岩


へげ岩の割れ目



《参考文献》
島田一哉、宮川英樹、一瀬めぐみ「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌』120 p.9-18 1999年
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』11.金毘羅神社

2022-10-14 21:53:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【金毘羅神社】
 その日の天候は、前回の彦岳、震岳の時と比べると朝から爽やかな青空広がり絶好の登山日和だった。下見のとき、金毘羅神社の近くのため池の横の空きスペースがあり登山者が駐車していたのを見ていたので、今回はそこを出発地と定めていた。そこに車を停めると、ザックを背負った。古い鳥居をくぐり左手の大願寺奥の院を左手に見ながら、苔むした石段と未舗装路を進む。最後に急坂を登ると一段開けた所に金毘羅神社がある。そして、その手前には不動岩と同じ「礫岩」の大転石が合掌造をなして、「穴観音」と地元では呼ばれている観音様が私たちを迎えてくれる。

金毘羅神社は、この「穴観音」裏の「礫岩」の急崖に本殿が造立されており、付近には宮地嶽神社のほか、作ノ神、足手荒神が祀られている。そして、それら祠の傍には地元の誰かが作ったと思われるお手製の説明書きが立ててある。
その説明書きの中で最も興味深く感じたのが金毘羅神社だ。全文を記載すれば以下のとおりだ。

「金毘羅神社は、海・海運の神様である。どうして金毘羅神社があるのか。実は、金毘羅神社の周辺には、バクチノキ、フウトウカズラ、オニヤズソテツ、ツルコウジ、イシカグマ、カカツガユ、ハスノハカズラという七種類の植物が見つかっている。これらは普段、あたたかい海岸近くで見られる植物だが、金毘羅神社周辺に集中して生息しているのである。」

植物について門外漢の私は、この文面を見て先ず思い出したのが、子供の頃見た「地底探検」という1959年代のハリウッド映画だ。ジュール・ベルヌの小説『地底旅行』を映画化したもので休火山の火口から地底に降りていき、巨大植物や恐竜に遭遇しながら地底世界を探検するというSFファンタジーだ。

金毘羅神社は不動岩の西麓の深い谷間にあって、鬱蒼とした樹木や奇岩がそれを思い出させたのかもしれない。説明文にある7種類の植物がこの谷間に取り残されたのは、何らかの理由で、この場所が周囲よりあたたかい環境が保持されやすかったからではないのかと考えた。じゃぁ、何らかの理由ってなんだろうということになる。県北の山鹿、菊池は温泉地でもある。ひょっとして、この近くでは、その昔から温泉が湧出していて周辺より温かかったのでは?と考えるのはどうだろうと思った。菊池川の天然記念物となっている藻類の「チスジノリ」の生息理由の一つが、「温泉」からもたらされたカルシウム成分と考えられている事を思い出した。続いて閃いたのが、この温泉の作用が、これらの植物の存在だけでなく、不動岩の岩峰を形成させた有力な仮説の一つになるのではないかということだった。

温泉には様々な種類があるが、一部の温泉には溶存成分としてケイ酸などが含まれていて、これが岩石を構成する鉱物や粒間に染み込んで石英となって周囲よりも硬い岩石になることがある。これと似たような現象が不動岩の「礫岩」にも起こり、温泉が通って硬くなった部分が浸食から取り残され、結果としてあのようなカタチになったのではないかと思ったのだ。であるならば、「温泉が通った痕やその名残り」のようなものを見つけることが出来れば、「温泉説」はイケてる仮説になるではないか!
そう思うと少し足取りが軽くなり、不動岩を登る楽しみが増えたのだった。


金毘羅神社


《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第四節 菊池川とチスジノリ」『山鹿市史 上巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.38-53
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』10.古代鍛冶族と私

2022-10-13 20:48:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【古代鍛冶族と私】
決戦日の数日前。デスクの隅に立てかけたスマホの着信音が響いた。画面に映し出された文字は、「山鹿市立図書館」。
「着信」をスライドさせると聞き覚えのある声が耳に届いた。この前、お世話になったKさんだった。Kさんは、過日の訪問時には見つからなかった「三玉」の由来や採石場の開発経緯について答えるために連絡をしてくれたのだった。 

「三玉」の由来については『山鹿市史(下巻)』に、明治22年の合併時(蒲生村、久原村、上吉田村)の町村名選定理由の中に「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」の記載が見つかったことを教えてくれた。一方、三玉地区で採石所の開発が始まった経緯がわかるような資料は見つからなかったとのことだった。しかし、Kさんは、『新山鹿市史』には、現在の採石所から南東に約2km離れた「日の岡山」のふもとで太平洋戦争中まで銅鉱山があった記載を見つけたことを付け加えてくれた。また、『山鹿市史(下巻)』にも同様の記載があることを教えてくれた。そして、銅鉱山の記載は、どちらの資料にも「天目一箇神信仰(あめのまひとつのかみ)」の項で触れられていることを教えてくれた。採石所のHさんが、おっしゃっていた事は本当だったのだ。

『山鹿市史(下巻)』では、日本書紀第二神下(天孫降臨)の個所を引用して天目一箇神は鍛冶に関する神であることを説明している。そして、一ツ目神は、なが年銅精錬の火色を片目で見続けたために片眼となり、ふいごを踏み続けて一本足となり、一ツ目神社のある所には必ず銅鉱山があると伝えられていることを紹介している。つまり、一ツ目神を祀る薄野神社の創建時の1500年前には、既に、銅に精通した古代鍛冶族が存在していた可能性が極めて高いことを示唆しているのだ。おそらく、古代鍛冶族は、銅を含んだ岩石の探索と精錬をセットにした当時としては最高難度の高等技術を身につけた特殊集団であったに違いない。大陸伝来ではあるものの、彼らの留まることを知らない強い探究心がその技術を生み出し、そして古代とはいえ、それらが現在の科学技術に繋がる多くの礎を作ったのだと思うと深淵な気持ちになる。そして私は自分に言い聞かせる。果たして、私は、古代人に胸が張れるような強い探究心を持って仕事に励んでいるのかと。

決戦は年度末の土曜日に設定した。作戦のあらましはこうだ。
不動岩のふもとにある金毘羅神社を出発地として、登山道を登り不動岩を経て蒲生山の頂上に出る。そして尾根沿いを東進して「日の岡山」を通って下山し、蒲生ノ池を見学した後に「生目神社」を訪問するという計画だ。そして、最大の目的は、不動岩が何故あのような形になったのか、仮説でもいいので、それを裏付けるような地質学的な事象を見つけ出すことだった。それと、「三玉」は何を指しているのか、その手がかり探し出すことも大きな目的だった。もちろん、強い探究心を持って。

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第八章 民俗」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.619-621、p675
山鹿市『新補山鹿市史』平成16年 p.374
平尾良光「古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて」『計測と制御』vol 28,No.8 p29-36
谷川健一『青銅の神の足跡』小学館ライブラリー 1995年
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』9.シンドラ作戦

2022-10-12 20:05:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【シンドラ作戦】
山鹿市に通い始めて1ヶ月。決戦の日が迫りつつあった。初めの頃は、ジオドラマの原稿作成のため軽い気持ちで始めた現地調査だった。山鹿を含めた県北地域は、仕事でこれまで数えきれないほど訪れていて、地質についてはある程度のことを知っていた。しかし、「首引き」伝説については、おぼろげな記憶しかなく、人からの話しを聞いて思い出す程度のものだった。なので、物語に出てくる山々や地域について書くためには、自分の地肉となる本当の知識を得るためにはどうしても身体を使う必要があった。そして、前知識としての予習も重要だった。

不動岩を登る前に明らかになったことは、彦岳、震岳も、古来より、厚い信仰を集めていた極めて由緒正しい霊山であることだった。だから「首引き」伝説は、今風に言えばこの三つの山をディスった物語ということになりはしないか。何故なら、彦岳と震岳を実際に登って崇高な気分に浸った私は「首引き」伝説を甚だ不謹慎な物語に感じてしまったからだ。と同時に、この物語は何かの風刺ではないのかと直感したのだった。もし、そうだとすれば、この物語が生まれた当時、この俗世的かつ凄惨な「首引き」は、庶民の間でバズりまくったに違いない。

後の調べで明らかになることだが、『山鹿市史』では約1ページを割いて、彦岳権現と震岳について『肥後国誌(昭和41年)』からの記載を引いて伝説の背景を考察している。それによると明応年間(1492年〜1501年)は高天山神主の吉田親政氏が震岳と彦岳の神主を兼帯する期間がある。また、震岳には三十六坊があって山伏が居た天正7年(1579年)に、この山伏を保護していた芋生氏が赤星氏の一族に破れて山伏が断絶するという波乱が起こっている。このような霊山を巡る対抗関係が伝説の背景にあると考察しているのだ。つまり、現代風に言えば、彦岳、震岳、不動岩の霊場としての利権争い、綱引きが、伝説の背景ではないかといことだ。伝説や昔話は、史実がもとになっていることが多いと言われている。だとすれば、「首引き」伝説は、史実と自然事象を掛け合わせた想像性豊かなユーモア溢れる傑出した作品として評価すべきなのかもしれない。

これ以外に、この1ヶ月間、ふつふつと湧き出してきた疑問があった。
それは旧村名ともなっている「三玉」だ。これは「首引き」伝説の出発点にもなっている。簡単におさらいすると、「首引き」伝説はこの「三玉」を巡る争いの物語だ。当初、伝説中の「三玉」とは、先に示した三つの山を暗示しているのではないのかと思ったが、それは余りにも乱暴な考え方だと思い撤回した。

三玉地区周辺には、この「首引き」伝説だけでなく様々な昔話や言い伝えがある。これまでお伝えしてきたように、これらの物語には全て現存している物象をモチーフとしている特徴がある。であるならば、「三玉」があってもおかしくはない。むしろ、あると考えるほうが自然なように思えるのだ。
「首引き」伝説の中で母神のモチーフとなっているのは、その昔、彦岳の山頂に祀られていたという姫竜神。そして、古来より竜神に描かれている口と両手に持った合計三つの玉がその「三玉」だと伝えている。つまり、「三玉」のモチーフを探すということは、竜神が所有する玉を探すということでもある。

下らないとは思いつつ、私は、自身の疑問解消に向けて自分自身を奮い立たせるため、そして、今後の調査をさらに楽しむために作戦名を必要としていた。
作戦名は「シン・ドラゴンボール」。略して「シンドラ」。この間抜け感、脱力感がたまらない。

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第三章 古代・中世」『山鹿市史 上巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.489-490
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