【シンドラ作戦を終えて、、新たな冒険のはじまり】
新聞企画の取材を目的に、初めて山鹿を訪れたのは令和3年の2月の末だった。年末に帰省することができなかった次女と、長女と孫、妻の5人で家族ドライブに行ったついでだった。
最初に訪れたのは、これまで一度も訪れたことのなかった彦嶽宮だった。清掃の行き届いた境内と神社全体の雰囲気に、取材にあたり、襟を正さなければならない気持ちになった。
その後は、このシリーズにも記したとおり、取材を重ねながら山鹿、菊池についての理解を深めていった。毎回、発見があり、毎回、疑問が湧き、毎回、資料をあさるという期間が丸二ヶ月続いた。そして、このシリーズでは触れていない、その他の菊池川流域の歴史や文化についても多く学んだ。これは、ひとえに昭和六十年に発行された大著である『山鹿市史』に寄るところが大きかった。しかし、『市史』は発行から既に30年を経過しているため、一部は新しい知識を補完する必要もあり、その結果、多くの名著と巡りあえることができた。それらの書物は、地域への深い愛着の帰結として誕生したものだった。
そして、何と言っても、取材を通して感じたことは、今回出会った菊池川流域の人々は、本当に地域を愛し、地域に強い関心を寄せていることだった。
はじめて、こもれび図書館を訪れ「三玉」のことを尋ねたとき、正直言って、相手にされるとは思っていなかった。しかし、職員の皆さんの温かい協力と支援を得ることができた。それがなければ、ここまでの短期間で、このような成果(大した成果ではないが)をあげることはできなかった。県立図書館にも大変お世話になった。
それから数か月が経過した。
「三玉」という地名の由来がわかったおかげで気持に落ち着きが戻ったものの、日常という何かと忙しい時間の中に身を置いているうちに、今度はナゼか三玉の「祖」というべき景行天皇のことが気になりだした。
熊本県内には第12代景行天皇の伝承やゆかりの地がたくさんあることが次第にわかってきたからだ。
その伝承やゆかりの地のなかで、山鹿における伝承がどのような位置付けになるのか調べてみたいと思った。加えて、日本の歴史を学ぶ上で景行天皇とはどのような意味を持つのか、自分なりに考えてみたくなったのだ。
ひょっとすると、また、何か見つかるかもしれないと思った。
次の冒険が始まった。
次の冒険が始まった。
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』は終わります。
ここまで、お付き合いありがとうございました。