その女性は大正2年(1913)4月12日、静岡県沼津の裕福な染物屋の3番目の末っ子として生まれた。
幼い頃は何不自由の無い生活を送っていたが、大正12年(1923)9月1日に関東地方を襲った関東大震災により暮らしは一変。
両親、兄弟を亡くした彼女は親戚の家に身を寄せるも本人の努力で女学校を卒業。
卒業後は、住み込みで東京のある本屋に就職した。
その本屋の隣の家には、青年警視が下宿していた。
その青年警視の出身地は熊本県の泗水村。
彼の祖父は初代村長で儒学者。
父は鉱山技師で村の土地を担保に石炭鉱山開発を始めるが出鉱直前に襲われた水害により事業は失敗。大借金とともに一家は離散。ただ、彼は中学時代に甲子園出場を果たし、その後、郷里を離れ警察学校へ入学。警官時代は凄腕の剣士でもあった。
その青年と彼女は恋に落ち、結婚。
昭和12年(1937)10月に長男、つづいて次男、三男を授かる。
しかし、幸せは長続きしなかった。
昭和16年(1941)年に始まった太平洋戦争。三男の病死。
戦渦を逃れるため主人を残して縁の熊本に行くが、不慣れな土地の上に、あてがわれた家屋は鼠も寄りつきそうにない酷いあばら家だった。
昭和20年(1945)7月、154機のB-29爆撃機により1000tの焼夷弾が投下された熊本は火の海に。8月、広島、長崎に原爆が投下。
憲兵隊で要職を務めていた主人は、戦争犯罪人として失職。そして病死。
二人の息子と姑を食べさせるために、彼女は質屋の見習いになり、その後、独立。
細々とした商いではあったが、二人の息子を大学までやった。
長男は地元の医学部、次男は東京の国立大学の経済だった。
長男は、インターン時代に薬学部出身の研究生と結婚。彼女は長男夫婦と同居した。
長男夫婦は3人の子供を授かった。彼女にとっては3人の孫だ。
長男夫婦二人は忙しかった。嫁は仕事をしていた。
孫の世話が彼女の生き甲斐になった。
よく躾けをし、よく勉強をさせ、よく料理を作った。
孫の男の子は小学生になるとき剣道を習い始めた。それを一番喜んだのは彼女だった。
彼女は足繁く体育館に通い孫の練習を見守っていた。
しかし、孫は、それを疎ましく思い、冷たい言葉を使い、そして剣道をやめた。
一番悲しんだのは彼女だった。
孫たちが思春期を迎える頃、長男夫婦は不仲になり別居した。それに伴って、彼女は東京の次男に身を寄せ、近所のアパートで一人暮らしを始めた。
アパートは港区赤坂の一等地。しかし、元来、都会暮らしが肌にあっていた彼女にとって、その引越しは大きな問題とはならなかった。彼女は健康であった。そして理知的であった。
学生の頃から得意としていた書道に打ち込み、上級の師範となった。
熊本から就職で東京に出てきていた孫もよく泊まりにきていた。月に一度は曾孫の顔も見ることができた。
2000年を迎えようとした頃、長男夫婦はよりを戻し始めていた。
東京に出ていた孫も家族とともに熊本に戻っていた。
2001年の春、彼女は熊本に戻ってきた。
しかし、その年の秋、彼女は熊本にいる曾孫全員の運動会を見学したあと、体を壊し入院した。
彼女が入院している間、長男と孫は家を建て替えた。一室を彼女のために使い勝手のよい部屋とした。
それから昨年の暮れまで入退院を繰り返した。そして今年、彼女は3年ぶりに正月を我が家で迎えることができた。
しかし、1月4日未明、容態が悪化し、長男が院長を務める病院に緊急入院。
延命処置は長男が自ら行った。東京から次男夫婦も来た。
彼女は徐々に回復していった。意識も回復しつつあった。
しかし、回復と同時に延命処置で施した器管挿管がストレスとなり、下血が見られるようになった。自発呼吸も力強くなっていた。入院から25日が過ぎようとしていた。
東京から次男夫婦が見舞いにやってきた。
長男は挿管による呼吸器からからマスクによる呼吸器に切り替えることを決断した。
容態は一時快方へ向かった。
しかし・・・、
今日、未明、彼女は息を引き取った。
登美枝お祖母さん、ありがとう、さようなら。
幼い頃は何不自由の無い生活を送っていたが、大正12年(1923)9月1日に関東地方を襲った関東大震災により暮らしは一変。
両親、兄弟を亡くした彼女は親戚の家に身を寄せるも本人の努力で女学校を卒業。
卒業後は、住み込みで東京のある本屋に就職した。
その本屋の隣の家には、青年警視が下宿していた。
その青年警視の出身地は熊本県の泗水村。
彼の祖父は初代村長で儒学者。
父は鉱山技師で村の土地を担保に石炭鉱山開発を始めるが出鉱直前に襲われた水害により事業は失敗。大借金とともに一家は離散。ただ、彼は中学時代に甲子園出場を果たし、その後、郷里を離れ警察学校へ入学。警官時代は凄腕の剣士でもあった。
その青年と彼女は恋に落ち、結婚。
昭和12年(1937)10月に長男、つづいて次男、三男を授かる。
しかし、幸せは長続きしなかった。
昭和16年(1941)年に始まった太平洋戦争。三男の病死。
戦渦を逃れるため主人を残して縁の熊本に行くが、不慣れな土地の上に、あてがわれた家屋は鼠も寄りつきそうにない酷いあばら家だった。
昭和20年(1945)7月、154機のB-29爆撃機により1000tの焼夷弾が投下された熊本は火の海に。8月、広島、長崎に原爆が投下。
憲兵隊で要職を務めていた主人は、戦争犯罪人として失職。そして病死。
二人の息子と姑を食べさせるために、彼女は質屋の見習いになり、その後、独立。
細々とした商いではあったが、二人の息子を大学までやった。
長男は地元の医学部、次男は東京の国立大学の経済だった。
長男は、インターン時代に薬学部出身の研究生と結婚。彼女は長男夫婦と同居した。
長男夫婦は3人の子供を授かった。彼女にとっては3人の孫だ。
長男夫婦二人は忙しかった。嫁は仕事をしていた。
孫の世話が彼女の生き甲斐になった。
よく躾けをし、よく勉強をさせ、よく料理を作った。
孫の男の子は小学生になるとき剣道を習い始めた。それを一番喜んだのは彼女だった。
彼女は足繁く体育館に通い孫の練習を見守っていた。
しかし、孫は、それを疎ましく思い、冷たい言葉を使い、そして剣道をやめた。
一番悲しんだのは彼女だった。
孫たちが思春期を迎える頃、長男夫婦は不仲になり別居した。それに伴って、彼女は東京の次男に身を寄せ、近所のアパートで一人暮らしを始めた。
アパートは港区赤坂の一等地。しかし、元来、都会暮らしが肌にあっていた彼女にとって、その引越しは大きな問題とはならなかった。彼女は健康であった。そして理知的であった。
学生の頃から得意としていた書道に打ち込み、上級の師範となった。
熊本から就職で東京に出てきていた孫もよく泊まりにきていた。月に一度は曾孫の顔も見ることができた。
2000年を迎えようとした頃、長男夫婦はよりを戻し始めていた。
東京に出ていた孫も家族とともに熊本に戻っていた。
2001年の春、彼女は熊本に戻ってきた。
しかし、その年の秋、彼女は熊本にいる曾孫全員の運動会を見学したあと、体を壊し入院した。
彼女が入院している間、長男と孫は家を建て替えた。一室を彼女のために使い勝手のよい部屋とした。
それから昨年の暮れまで入退院を繰り返した。そして今年、彼女は3年ぶりに正月を我が家で迎えることができた。
しかし、1月4日未明、容態が悪化し、長男が院長を務める病院に緊急入院。
延命処置は長男が自ら行った。東京から次男夫婦も来た。
彼女は徐々に回復していった。意識も回復しつつあった。
しかし、回復と同時に延命処置で施した器管挿管がストレスとなり、下血が見られるようになった。自発呼吸も力強くなっていた。入院から25日が過ぎようとしていた。
東京から次男夫婦が見舞いにやってきた。
長男は挿管による呼吸器からからマスクによる呼吸器に切り替えることを決断した。
容態は一時快方へ向かった。
しかし・・・、
今日、未明、彼女は息を引き取った。
登美枝お祖母さん、ありがとう、さようなら。