1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×31『重き一票』

2013-06-30 21:46:15 | 雑談の記録
 永田夫妻の自宅は昭和に乱開発された住宅地の一角にあり、大通りから奥まった所にあった。道は大変狭く車を止めてドアを開けると、それがブロックの壁に当たるような狭さだった。

 家には軽乗用車を駐める程度の駐車スペースがあったが、最近そこに車を駐めた気配はなかった。そして、家やブロック塀に据え付けられた真新しい手摺が、住人の体の不自由を主張しているようだった。

 僕は磨りガラスに格子が入った引き戸の前に立つと呼び鈴を押した。返事は聞こえなかったのだが、引戸の向こうには明らかに人の気配を感じた。もう一度呼鈴を押して三原事務所から来た者だと告げると、すぐに返事が帰ってきてガチャガチャと忙しそうな鍵を外す音が鳴って引戸が開けられたのだった。

 目の前にオモチャのように小さいおバァちゃんとおジィさんが現れた。二人は迎えが今か今かとと玄関前で息を潜めて待っていたのであった。おジィさんは玄関に腰を下ろしていたが、既に靴を履いていた。おバァちゃんはファーの付いた白いダウンのコートに黒の帽子を被り精一杯のおめかし姿だった。

 おジィさんは一人で立ち上がることが困難だった。待っていた時間が長かったせいかもしれない。僕は介護の経験はなかったが、とにかく、このおジィさんを立たせなければならなかった。玄関から道路まではすぐなのだが、段差は数カ所あり、このおジィさんを抱えながらの数mが途方もない距離に思えたのだった。

 おジィさんは片方の手でしっかり僕の腕を掴み、もう一方は杖で自身の体を支えた。その全くおぼつかない足取りで体をゆっくり前に進めながら、そのおジィさんはしゃがれ声で念仏のように言うのだった。

 「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、、、」

 おジィさんを車に乗せるクライマックスの瞬間も「ありがとうございます」だった。車に乗ったあともそれはしばらく続いていた。
 しばらくすると、そのおジィさんに代わって、おめかしおバァちゃんがおジィさんの体の具合を説明するのだった。車を進めると、おバァちゃんは路地の抜け方を教えながらご近所さんの話や、ここは散歩道だの、ここがリハビリの病院だの、ここがグランドゴルフの広場だの、ここが郵便局だのを一生懸命説明してくれるのだった。

 僕はこの路地に入ってきた当初、無造作に開発されたその入り組んだ住宅地について毒づいたのだが、おバァちゃんの話を聞いているうちに、この何の変哲もない町がこの老夫妻にとっては大事な「ふるさと」であることに思い至ったのだった。

 そして、主人がどうしても三原候補に投票したいというのだが、このような状態で途方に暮れていたところに、わざわざ来て頂いてありがとうございますと感謝するのであった。
 
 突然、おジィさんが思い出したように言った。
 「誰だったかね?、誰だったかね?」
 おバァちゃんが言った。
 「ミハラさん!、ミ、ハ、ラさん!」
 「そうだった、三原さんだった、、三原さん、三原さんはイイ人だもんなぁ〜、そうそう、三原さん、三原さん、、、」
 そして、しばらく念仏のように「三原さん」を続けるのだった。
 また、突然、おジィさんが言った。
 「何だったかね?何だったかね?」
 おバァちゃんが言った。
 「民自党!ミン、ジィ、トーでしょ!」
 「そうだった。民自党、民自党、民自党、、、」
吉本新喜劇も顔負けの真剣なボケとツッコミに、僕は安全第一の運転を心がけたのだった。

続く、、、
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選挙バカの詩×30『重き一票』

2013-06-28 20:52:03 | 雑談の記録
 選挙戦は終盤に突入していった。そして、我々にとっての最終兵器がいよいよ投入されたのだった。東京から持ち込まれた「サヨピン」だ。と言っても「サヨピン」は自らの意志で熊本にやって来たのだが、その小型犬のような可愛らしさと気さくな語り口、そしてなんと言っても笑ったときの口元のチャーミングさが、前回選挙で年配先輩達から絶大な支持を得た大きな理由であった。

 夕刻、事務所に出向いたときのことだった。サヨピンファンクラブ会員番号No.1の野間口先輩がテーブルを挟んでサヨピンと話し込んでいた。サヨピンは困惑気味の表情だった。ファン会員の無理なお願いに困っているのかと思い心配になって二人に近づいた。ところが、話を聞いてみると無理なお願いというか相談をしていたのは彼女のほうだった。

 電話作戦による支援依頼をしていたところ、投票に行きたくても主人の足が悪いためにどうしたらいいだろうかという相談を受けたとのことだった。詳しく聞くとその夫妻はかなりの高齢の様子で、老老介護で投票所に向かうのは困難な様子だった。

 サヨピンも相談を受けたもののどうして良いか判らず、電話の向こう側の高齢女性の長い話に耳を傾けるだけだったそうだ。だが、彼女のなんとかしてあげたいという気持ちが十分伝わってきたのだった。

 僕はその老夫妻の住所をサヨピンに聞きいた。なんと、会社から車で僅か10分足らずの距離だった。
 「、、明日なら、連れてってやれるかも、、特別な予定はないし、、でも、、できれば午前中の早い時間、、9時くらいがいいかな〜、、サヨピン、、悪いけどそのばぁちゃんにもう一度電話してみてくれない、、」
 彼女はすぐに電話を掛けたが、また、その話の長いこと長いこと。何から何まで話さないと気持ちが収まらないやかましいタイプの老婆だなと思うと億劫になったがサヨピンの丁寧な対応に負けてはいられないと思ったのだった。

 結局、その老主人のリハビリの時間の都合で翌日の午後1時過ぎに伺うことになった。
 そして、高齢先輩夫妻を投票所に案内したあと、自分のウォールに任務完了の知らせを老夫婦と一緒に撮った画像と併せて投稿したのだった。
サヨピン!任務完了しました!  S23年卒の永田先輩と奥様を期日前投票にご案内してきました!  仕事の合間をぬって車を出しただけだけど、こんなに人に感謝されたことは生まれて始めてだよ!たかだか数10分の出会いだったけど、貴重な時間だったよ!  いろんなお話しができました!  奥様が、昨日、電話を取り次いでくれた女性にくれぐれもヨロシクとのことでした!  この票は重い!泣!。コメントが返ってきた。

吉末 武志
ご苦労様です〜そんな積み重ねですよね〜 
12月14日 15:08 〓 いいね!を取り消す 〓 4

藤谷 千晶 あ~♪ 
昨日の先輩へのフォローをしてくれたんだね!!さゆぴんが、すっごく優しく対応してたのと、東くんの行動力♪素敵な仲間達に、改めて感動!!
12月14日 15:17 〓 編集済み 〓 いいね!を取り消す 〓 8

林 優雅
東センパイ、良い表情!!充実感みなぎっておられますね☆
12月14日 15:19 〓 いいね!を取り消す 〓 8

山口 浩司  
(*^ー゜)b グッジョブ!!
12月14日 15:35 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 7

谷垣 征一郎
いろんなドラマを作ってるね。頑張って!
12月14日 16:23 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 7

田中 聡子
さゆぴんも東くんも、さすがだなぁ… 感動して、ちょっと泣きそう(T_T)今日は電話口で先輩方から沢山激励されて泣きそうだったのに、さらに涙腺がゆるむ…
12月14日 18:38 〓 いいね!を取り消す 〓 7

東 英介
このご夫妻はね、子供がおらっさんでね、ミハラのことをね、息子か孫のように思ってるんだよ。「もう私どもは死ぬばっかりですが、キハラさんに託したいのです」・・・泣き!・・・「今度、三原さんと一緒に遊びに来てください」って・・・超泣き!
12月14日 18:43 〓 いいね! 〓 11

田中 聡子
ちょっ、夕飯の支度中に泣くよ…(T_T)
12月14日 18:46 〓 いいね!を取り消す 〓 6

谷垣 征一郎 そら、イイ報告をしにいかなくちゃね
12月14日 18:46 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 5

松 さゆり
電話をした張本人のサヨピンです!私のお願いを聞いてくれた東君、本当にありがとう♪夜に事務所でミッション完了の話を聞いて、感謝、感激!とあまりの面白さで涙がチョチョギ出ました(^^)/今日の欽ドン賞、決定!東君、サイコー♪
12月14日 21:39 〓 いいね! 〓 6

谷垣 征一郎
欽ドンと来たか……オリの分も頑張って来てちょ。
12月14日 22:21 (携帯より) 〓 いいね! 〓 3

松 さゆり
は〜い(^^)dびっ微力ですが、ガンバリます♪
12月15日 9:40 〓 いいね! 〓 2

野間口 剛
あぁ昨日のあの話ですね。そばにいて東君の素早い行動力には驚きました。それとサユピンさんは人使いが巧みですな〜。
12月15日 14:49 〓 編集済み 〓 いいね! 〓

続く、、、
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中九州支部予選準決勝戦

2013-06-22 22:28:16 | 雑談の記録
残念ながら先週行われた中九州支部予選大会は準決勝敗退でした。

HP管理者として、今回の大会では動画撮影を試み、以下のような2分半のムービーを作ってみました。

中九州支部予選準決勝戦
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選挙バカの詩×29『過去の戦い』

2013-06-14 22:12:08 | 雑談の記録
 前回の第45回衆議院議員選挙は二〇〇九年の夏に行われた。当初、この衆議院選挙は、当時の阿曽首相の人気を背景として二〇〇八年の秋に行われることが支配的な雰囲気であったために、現職だった三原代議士はその年の夏に選挙事務所を開いたのだった。そして、それと同時に黄壁城高の有志の会による後援会活動も始まったのだった。

 しかし、その後の阿曽首相の資質問題等に関連した民自党に支持率低下に加え、アメリカ合衆国のサブプライムローン問題に端を発した経済低迷に対処するための補正予算成立を先決として、選挙は先送りされたのだった。
 これによって、有志の会による後援会活動は出鼻を挫かれるかたちになったのだが、準備期間を必要とする我々にとっては先送りはむしろ歓迎される出来事であった。しかし、三原陣営にとっての先送りは、他の民自党候補と同様に、事務所費の増大やその後引き続いたの民自党の支持率低下を招き、約一年後の不利な選挙戦を強いられる結果となったのだ。

 勝山をはじめとする有志の会の同窓生は、毎週木曜日に事務所に集まり、政治情勢や後援会体制作りについて話し合い来るべき決戦の日に備えたのだった。しかし、解散と言われなが時間だけがいたずらに経過していく中で活動のモチベーションを維持するのは困難なであった。中だるみ的な時期もあった。だた、時間の経過とともに世間では政権交代の風が次第に強くなり、それと比例して我々には危機感がつのっていった。しかし、有志の会の危機感とは裏腹に、世間の「風」を受けた支援者の声には諦めの霧が掛かり始めたのだった。

 そして、いよいよ選挙戦に入ってもその霧が晴れることはなく、むしろ濃くなっていくかのようだった。我々の力ではどうにもならない濃い霧と風に包まれた中での戦いは、ある意味、自分との戦いであったように思う。自らが激しく活動していなければ、濡れしぼんで吹き飛ばされるような感覚だった。

 当時、三原は現職であり各業界団体からの支援は今回の選挙よりも多かったが、黄壁高の有志の会の協力者及びその活動力は今回のそれと比べると明らかに少なかった。

 そして、三原は落選した。確かに、善戦は出来た。それなりの票数を得ることもできた。だが、復活当選を果たすには至らなかった。
 落選が確定したのは、即日開票の一日が終わろうとしている頃だった。一縷の望みを抱いて事務所に残っていた支援者も、三原の敗戦の弁を待って蜘蛛の子を散らすように去って行った。

 三原は今回の選挙期間中に限らず、いろんな場面でよく口にしていたことがある。それは、前回の選挙で落選が確定し、事務所の雛壇から敗戦の弁を話したときの心境だ。
 「、、オマエ、よく、その話をするよな、、」
 「、、あぁ、よく話してるな、、」
 「、、なんか、理由とかあるんか?、、」
 「、、ある、、」
 「、、なに?、、」
 「、、忘れないようにさ、、」
 「、、なるほど、、」
 「、、オマエ、ワカッテル?、、」
 「、、ナントナク、、」
 「、、ほら、人間ってウマく出来ててさ、、イヤな事ってすぐ忘れるようにできてるだろ、、でも、、忘れちゃダメなんだよな、、ダメなんだよ忘れちゃ、、」
 「、、確かに、オレ、前回の選挙のこと、もう殆ど思い出せんし、、」
 「、、だろ、、」
 「、、ナルホドな、、」
 「、、ほら、プロスポーツ選手がさ、負けたときの写真とか、相手チームが勝った写真を自分のロッカーに貼ってあるって話があるだろ、、それと一緒だよ、、悔しさを忘れないようにさ、、もっとカッコつけると、負けたことに負けたらダメってことさ、、」
 「、ほーっ、なるほどなぁ〜っ、カッケー!、」
 
しかし、選挙バカは当時の心境を詩に残しているのであった。

『走れ火の玉』

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
火の粉をふりまき走り抜ける

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
自身の炎が種火となる

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
種火はやがて大火をまねく

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
燃え上がれ 激しく燃えろ

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
走れ 走り抜けろ
灰になるまで 命尽きるまで

続く、、、
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全国大会へ駆け上がれ!

2013-06-11 22:20:45 | 雑談の記録
このバカブログサイトは、最近、ご存知の選挙バカシリーズで持っていると思われても仕方がないと思う今日この頃、みなさん如何お過ごしですか。

hiratakuwaは、先日、生まれ初めて整骨院に行きました。 ゴールデンウィーク頃、トレーニング中に左脚ふくらはぎを肉離れしてしまってなかなか癒えないまま、ゴルフしたり、審判したりで週明けは痛みを抱えて出勤していたのでした。

ま、そんなことはさておき、愚息が所属するチームが熊本地区予選で優勝し次週の中九州大会に駒を進めました。あと2勝で全国への切符をものにできます。 愚息もようやく調子を取り戻し、なんとか代打要員としてゲームにも出場できるようになりました。

下にhiratakuwaが作成した入団式の歓迎ビデオを紹介したいと思います。 ご鑑笑下されば幸いです。なお、ここをクリックしますと、hiratakuwaが管理するチームのサイトもご覧頂けます。

入団式2013 ムービー

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選挙バカの詩×28『活動の実態』

2013-06-11 21:45:57 | 雑談の記録
 全くそのとおりだと思う。それを最も深く理解して選挙を戦っていたのが、対抗馬で帝国維新の会から立候補した三世議員の末野氏であることは言うまでもない。氏は新党へ鞍替えするまでは、母から多額の小遣いを貰いながら首相の座についた波戸山氏の重要腰巾着として、シッカリその後ろに張り付いてはカメラへの露出を図り知名度アップに血道を上げていたのだった。

 一方、三原は民自党の第一選挙区支部長になるまでは、ごく普通の家庭に育った一般人に過ぎず、いわゆる、地盤看板カバンとは無縁の人間であった。また、黄城高時代はハンドボール部の主将であったが、勝山や門田のような「知名度」は殆ど無く、従って、彼等の支援を得ることができなければ無援の可能性もあった。

 ただ、事情は民自党県連では異なっていた。当時の「公募」は民自党にとって日本初ということもあり、特に第一選挙区での連敗脱出は県連の最重要課題であった。このため、二〇〇五年の衆議院選挙では民自党の議員団はフル回転で三原を支援し、当時の古泉旋風を追い風に三原は復活当選を果たしたのだった。しかし、当時、同級生が行っていた活動が、当選にどのように寄与できていたかと問われると返答に窮せざるを得ない。当時の我々は、選挙戦についてあまりに無知であり、「ローラー作戦」の内容すら知らず、その作戦も重倉議員の名簿と地図を拝借してのかりそめの活動であった。そして、有力とされる先輩の声や指示にひたすら従い、今日は西へ、明日は東へという具合であったのだ。

 第一選挙区の有権者数は約三七万人である。過去二回の投票率は六五%以上で当選得票数は十万票を超えている。

 第一選挙区に住所を置く黄城高の同窓生は約八〇〇〇人だ。これは有権者数に対して2%程度であり、いかにも貧弱に思える数字なのだが、その八〇〇〇人が五人の知人・友人に支援をお願いし、それが投票行動に繋がると仮定すると、その人数は八〇〇〇×五=四4〇〇〇〇(四万人)となり当選得票数の四割を占める。投票率が低下するような環境下でこの組織票を固めれば、さらにその比率は上がっていくのである。従って、黄城高の「組織」固めは選挙結果に大きな影響を与えると考えられるのだ。

 しかし、八〇〇〇人なのである。八千件でもいい、八千軒でもいいだろう。名簿から住所を調べ地図に落とし込み、実際に訪問して支援をお願いするのである。これをローラー作戦と呼ばずして何と形容すれば良いのだろうか。

 二人一組の一班が一日に訪問できる数は平均七〇件だ。一班体制だと一一五日、十班体制でも十日以上という計算になる。小学生の算数レベルだが、延べ人数は軽く二○○人を超える。地図作りの人員を含めると三○○人に達する。これが、我々に与えられた課題なのであった。知名度の無い一般人が、知名度を誇る有名人に勝つための努力が、如何に大変で困難を極める作業であるか理解頂けると思う。

 この不可能とも言える作業をなんとしてもやり遂げるのだと言って一歩も譲らなかったのが勝山なのであった。そして、「名誉」なことにローラー隊長に任命されたのが僕なのであった。隊長は大将の命令に従わなければならないが、作戦の計画策定は隊長の任務であった。

 効果的な作戦遂行のため、計画の基本は小学校の校区によって分類・整理した。三原の地域後援会も小学校区で区割りされた単位で組織されていた。しかし、校区数は四七校区と多く、限られた人員でしかも短期間に「勝つ」ための効果的な活動を行うためには、優先順位を定めて集中攻撃を図らなければならなかった。従って、隊長の僕に求めらたのはその優先順位の決定だった。僕は過去二回の選挙におけるローラー実績と同窓生の校区人口及び地理的条件を考慮して四七の校区を四つのレベルに分類し、その分類に基づいて作戦図(校区分類割付図)を作成したのだった。そして、作戦は勝山の号令のもと実行されたのであった。

続く、、、
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選挙バカの詩×27『活動の実態』

2013-06-07 20:56:30 | 雑談の記録
 総決起大会翌日の月曜日は仕事だった。その日はどうにか持ちこたえることができたが翌日は最悪だった。十一月下旬から始まった連日連夜の作業による疲れがピークに達していた。
 僕の本業は地質調査だが、現場の工程管理から調査計画立案、協議資料作成やデータ解析、報告書作成など多岐にわたる。急な相談や時には見積書の作成も急がなければならない。
 仕事とは大抵そのようなものと思うが、我々のような技術者に求められる仕事の要諦は論理性にあると思っている。常に、その結論に至る過程が一貫した論理や思考に基づいたものかどうかが問われているからだ。公共事業の削減やデフレに伴った価格下落で、いかに無駄を省きつつ安全かつ経済的に構造物を作るか、時にギリギリの選択を技術者は求められる。また、管理職ともなれば、業績向上という圧力の下で技術以外の業務にも励まなければならない。神経を消耗することも多い。
 だから、仕事では小さいながらも「判断」の連続で、この判断に誤りが生じると後に取り返しのつかないことが起こり得えるのだ。
 
 火曜日は最悪だった。
 最近酷くなりつつある老眼のせいもあると思うが、数字の読み違いや勘違いが頻発した。午後から出向いた橋梁建設の工事現場では持参した大事な資料を忘れて帰り、その途中では交通事故を起こしそうになった。
 夕刻、勝山に電話を入れ「休暇」を申請したのだった。
 そして、その日の残りの力を振り絞って近所の温泉に行き焼肉定食を喰らい、帰りに近所のスーパーで刺身と八宝菜を購入した。そして、我が家で準備してあったハンバーグとサラダも完食し、最後はアルコール度数が9%の缶酎ハイを一気飲みして布団に直行した。考えてみると忙しすぎて一日一食という日もあったように思う。
 とにかく、その日やるべきことは、休息の基本事項である「食べて寝る」ことだった。 翌日の目覚めは、新たな人生を迎えたような爽快さだった。前日とは打って変わって仕事もはかどった。
 
休んだ僕が元気になったとを悟ったのかもしれない。珍しく「バラバラ死体」からメールが届いた。メールの送信者は勝山で、去年の校内肝試し大会での設定を元に戻していないだけなのだが、真面目なメール文章の送信者が実はバラバラ死体である事を想像すると、なんだかいつもおかしい気分になるのだった。
 バラバラ死体からの指令は、「メール作戦」の原案作りでだった。早速、一案を作成して送信したのだった。バラバラ死体から返事が戻ってきた。 「面白いけど、、、」
バラバラ死体は僕の文面を不採用にしたようだった。バラバラ死体が偉そうに(笑)!
 さて、選挙活動では様々な「作戦」を実行していたのだが、有志の会の基本はローラー作戦(OB訪問)と電話作戦の二本立で行われていた。しかし、このような活動にどのような意味があるのだろうか。

 ある著名なコラムニストが言っている。
 「選挙は人気を争うコンテストではない。知名度を争う戦争だ。好きであれ、嫌いであれ、名前と顔を知られている候補者が勝つ。そういうことになっている。一万人に嫌われて五〇万人に好かれている候補と、一〇〇万人に嫌われていて八〇万人に好かれている候補者が、同じ選挙区で選挙を戦った場合、必ず後者が勝つ。選挙というのは、そいうレギュレーションなのだ。」

続く、、、
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選挙バカの詩×26『支援の輪』

2013-06-03 21:36:12 | 雑談の記録
 嬉しいコメントやメールが続々返ってきた。特に、東京から応援に駆けつけて来てくれるという松永の君のコメントには大変驚き、そして感動したのだった。また、その日の夕方から事務所に来る友人も増えたのだった。
 
どこの世界にもいろんなタイプ、いろんな性格の人間がいるが、それは同級生においても同様だ。だが、勝山を中心とした仲間達は、どちらかというと積極性や責任感のある個性の強い集団だった。三原がハンドボール部の主将であったこともその理由の一つかもしれないが、応援に来た殆どの男子同級生は体育会系ではなかったかと思う。文化系の美術部に所属していたのは僕ぐらいだが、各言う自分も油絵などを描く一方で空手部に所属していた。

 こういふうに書くと体育会系の礼賛を意図しているように思われるかもしれないが、選挙事務所に足を運んで作業をするとなると、先ず「体力」が求められるのはまぎれもない事実なのである。

 その代表が松田君だったのではないだろうか。松田君は、ボクシング部で身長一八〇cm、現在もトレーニングを欠かすことはなく、サーフィンやマラソンといったハードスポーツを難なくこなすスーパー四三歳の通称「マッチョ」だ。もちろん見た目も申し分ない。ただ、いったん喋りだすと、お下品用語を炸裂させるために時と場合によっては周囲に大変な誤解を与えることが彼の最大の「長所」であるために、選挙事務所などには縁遠いタイプの友人と思っていた。ところが、OB訪問活動の最初の出撃要員に松田君が名乗りを上げてくれたときには本当に嬉しく思ったのだった。

 また、学生時代に起こした「事故」が伝説となっている寡黙な色黒ヒーローの森山君が事務所に来てくれたときも嬉しかった。さらに、カネと感情(勘定)でしか動かないことで有名なオトボケ宅建業の森尾君が事務所に来たときは寝耳に水だった。そのとき僕は居合わせなかったのだが、彼はおそらく作業は一切やっておらず、いつものオトボケトークに終始していたのでないかと思う。しかし、彼はみんなのために缶コーヒー二箱分を差し入れており、またそのコーヒーが松田君が勤務する飲料メーカーであったりするから憎めないのも当然なのだ。

 圧巻は、なんと言っても中本君の登場だった。彼は十二月八日土曜日、朝一番の飛行機で東京からやってきてかと思うと最終便で帰るという、まさに神技電撃的弾丸OB訪問活動をやってのけたのだった。彼は現在ペットオーナー向けの雑誌社の代表を務めるかたわら大手新聞にも何度も取り上げられている新スポーツを主宰をするなど超多忙を極めている御仁なのだが、身につける下着もブランド品をという「気遣い」ようは一〇〇%オッサン化した僕らの良き見本としなければならないのだった。ただ、彼は三〇代のとき大病を患い死の淵から蘇った経験の持主でもあり、人生において何が一番大事かを熟知している元高校球児なのであった。

 このようなイケイケの同級生がいる一方、オドオド喋りが特徴の村木君の存在も貴重だった。保険屋らしく様々な噂話を持ち込むのだが、要領がいまいちで頻繁に勝山の愛のムチの餌食になっていた。

 こうして支援の輪は急速に広がっていった。また、市の東部で豪農とされる稲富君の納屋から前回選挙で使用した資料が発見されたことも、その後の作業を急加速させた大きな要因であった。 埃をかぶった資料を前に勝山が言った
 「・・今ごろ、持ってきやがって・・」
 しかし、そう言った勝山の顔は本当に嬉しそうだった。

 この同級生の支援の広がりが、先輩や後輩諸君からの支援へ発展したのだった。多くの同窓生が事務所のブースに集うようになり、テーブル周辺には差し入れのお菓子や飲み物が絶えることはなかった。特に、平成の卒業生で組織されている後輩諸君の活動は、同級生の発奮材料となり活動全体の相乗効果を生んだのだった。
 
また、三原候補へのメッセージは日を追うごとに増し、その大きいメッセージ用紙は何枚も増え、ブースの壁に貼りきれなくなる勢いだった。
さらに、中部地方で暮らす同級生の後藤さんからとんでもない連絡が入った。支援のお願いを自宅の電話でしたいので資料を送って欲しいとのことだった。勝山は大変な驚きを持ってそのお願いに感謝したのだった。

 事務所に来てくれる同級生や後輩女性の主な活動は、電話による支援依頼だった。事務所の財政状況は逼迫し使用電話機の数は限られていたために、寒い別事務所からの電話作業だった。電話作戦は舌力が必要だ。今回一度この作業を手伝ったのだが、僕など僅か一時間で舌がうまく動かなくなってしまった。
 こうして支援の輪が着実なものとなる中、投票日の一週間前の十二月九日の日曜日の夜に総決起大会が開催されたのだった。

続く、、、
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