1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×29『過去の戦い』

2013-06-14 22:12:08 | 雑談の記録
 前回の第45回衆議院議員選挙は二〇〇九年の夏に行われた。当初、この衆議院選挙は、当時の阿曽首相の人気を背景として二〇〇八年の秋に行われることが支配的な雰囲気であったために、現職だった三原代議士はその年の夏に選挙事務所を開いたのだった。そして、それと同時に黄壁城高の有志の会による後援会活動も始まったのだった。

 しかし、その後の阿曽首相の資質問題等に関連した民自党に支持率低下に加え、アメリカ合衆国のサブプライムローン問題に端を発した経済低迷に対処するための補正予算成立を先決として、選挙は先送りされたのだった。
 これによって、有志の会による後援会活動は出鼻を挫かれるかたちになったのだが、準備期間を必要とする我々にとっては先送りはむしろ歓迎される出来事であった。しかし、三原陣営にとっての先送りは、他の民自党候補と同様に、事務所費の増大やその後引き続いたの民自党の支持率低下を招き、約一年後の不利な選挙戦を強いられる結果となったのだ。

 勝山をはじめとする有志の会の同窓生は、毎週木曜日に事務所に集まり、政治情勢や後援会体制作りについて話し合い来るべき決戦の日に備えたのだった。しかし、解散と言われなが時間だけがいたずらに経過していく中で活動のモチベーションを維持するのは困難なであった。中だるみ的な時期もあった。だた、時間の経過とともに世間では政権交代の風が次第に強くなり、それと比例して我々には危機感がつのっていった。しかし、有志の会の危機感とは裏腹に、世間の「風」を受けた支援者の声には諦めの霧が掛かり始めたのだった。

 そして、いよいよ選挙戦に入ってもその霧が晴れることはなく、むしろ濃くなっていくかのようだった。我々の力ではどうにもならない濃い霧と風に包まれた中での戦いは、ある意味、自分との戦いであったように思う。自らが激しく活動していなければ、濡れしぼんで吹き飛ばされるような感覚だった。

 当時、三原は現職であり各業界団体からの支援は今回の選挙よりも多かったが、黄壁高の有志の会の協力者及びその活動力は今回のそれと比べると明らかに少なかった。

 そして、三原は落選した。確かに、善戦は出来た。それなりの票数を得ることもできた。だが、復活当選を果たすには至らなかった。
 落選が確定したのは、即日開票の一日が終わろうとしている頃だった。一縷の望みを抱いて事務所に残っていた支援者も、三原の敗戦の弁を待って蜘蛛の子を散らすように去って行った。

 三原は今回の選挙期間中に限らず、いろんな場面でよく口にしていたことがある。それは、前回の選挙で落選が確定し、事務所の雛壇から敗戦の弁を話したときの心境だ。
 「、、オマエ、よく、その話をするよな、、」
 「、、あぁ、よく話してるな、、」
 「、、なんか、理由とかあるんか?、、」
 「、、ある、、」
 「、、なに?、、」
 「、、忘れないようにさ、、」
 「、、なるほど、、」
 「、、オマエ、ワカッテル?、、」
 「、、ナントナク、、」
 「、、ほら、人間ってウマく出来ててさ、、イヤな事ってすぐ忘れるようにできてるだろ、、でも、、忘れちゃダメなんだよな、、ダメなんだよ忘れちゃ、、」
 「、、確かに、オレ、前回の選挙のこと、もう殆ど思い出せんし、、」
 「、、だろ、、」
 「、、ナルホドな、、」
 「、、ほら、プロスポーツ選手がさ、負けたときの写真とか、相手チームが勝った写真を自分のロッカーに貼ってあるって話があるだろ、、それと一緒だよ、、悔しさを忘れないようにさ、、もっとカッコつけると、負けたことに負けたらダメってことさ、、」
 「、ほーっ、なるほどなぁ〜っ、カッケー!、」
 
しかし、選挙バカは当時の心境を詩に残しているのであった。

『走れ火の玉』

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
火の粉をふりまき走り抜ける

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
自身の炎が種火となる

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
種火はやがて大火をまねく

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
燃え上がれ 激しく燃えろ

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
走れ 走り抜けろ
灰になるまで 命尽きるまで

続く、、、
コメント
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