1955年の第5回ショパン国際ピアノコンクールの優勝はアダム・ハラシェヴィチ。アシュケナージが優勝できなかったことに腹を立てた審査員のミケランジェリが退場したことは、1980年の第10回(ダン・タイ・ソンが1位)で審査員アルゲリッチがポゴレリチが評価されないので退場してしまったことの次くらいに有名ですよね。
しかしながら当時の、1955年くらいの音楽雑誌を自分が探した限りではこの件にほとんど触れられていないのは不思議でした。実は日本ではショパンコンクールはまだ有名でなかった?
ところが、最近偶然見つけた1968年の『新音楽』(大阪勤労者音楽協議会【労音】機関誌)No. 215に、1955年のコンクールのことが音楽評論家・野村光一氏により書かれていました。ハラシェヴィチとアシュケナージが労音の招聘で1968年2月に同時に来日したため、この記事が書かれたようです。
一部抜粋します。
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今から13年前1955年に催された第5回ショパン・コンクールのときハラシェビッチが第1位になり、アシュケナージが第2位になった。(※1)
そのとき日本から参加してこれまた入賞した田中希代子(※2)さんが、コンクールの後帰国して、その際、ポーランドから送られてきたコンクールのテープを使ってNHKから当時の模様を放送された。わたしは話の引き出し役を仰せつかって、田中さんにいろいろ質問したが、そのとき録音でハラシェビッチとアシュケナージの演奏を初めて聴いたのである。わたしの印象ではどうも第2位になったアシュケナージの方が音もテクニックもばりばりしていて、ピアニストとしては優れていたように思われた。もっとも、NHKに送られた実況録音は予選のものも本選のものもいろいろ入り混じっていて、全プログラムのある部分だけだったようである。したがって、わたしが聴いた2人の演奏はそれぞれ課題曲中の最優の部分だというわけではなかったのかもわからない。とにかく、アシュケナージのはショパンの「三度のエチュード」だったし、ハラシェビッチのはマズルカとノクターンとのどれかだった、ぐらいの薄れた記憶しか今は残っていないのである。こうなるとエチュードを弾いているほうが得だ。それにその後アシュケナージが日本に来たときも、この「三度」を実に見事に弾いたので、この曲は最初から彼の得意中の得意であったに相違ないのだ。それをとっぱぢめから聴かされたのだから、彼の方が有利だったということになったのかもしれない。至難な三度の連続をあんなに美しいはっきりした音でてきぱきと大変なスピードで弾いてしまっているのに、わたしはすっかりびっくりしてしまったのだ。
一方のハラシェビッチはマズルカを微妙なリズムと美しいダイナミックの陰影ですこぶる情調豊かに演じてはいた。殊に、コンクールのことだから、どうしても技術が主眼点になるだろうとも考えたので、おそるおそる田中さんにアシュケナージが一番みたいな気がしますね、と尋ねたところが、彼女は即座に、『いやそうとはいい切れないのですよ。もちろんアシュケナージの方がテクニックに冴えていますが、やはりショパンともなれば、ハラシェビッチのほうが音楽的なつぼにはまった弾き方をします。だから、あの人が1位になるのは当然だったのでしょう』と答えていた。そういわれればそうなるのも当然だろうと考え直して、さらにハラシェビッチのノクターンやソナタなどを聴き直して、あふるるばかりなごやかな彼の音楽に陶然となったことが、今になって想い出されるのである。
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。。。結局どちらが上とか下ということでなく、個性の違いってことなんですね。
アダム・ハラシェヴィチ(Adam Harasiewicz, 1932年生まれ) 初来日は1961年
ウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy, 1937年生まれ)初来日1965年。若い~
※1 第3位は中国のフー・ツォン(1934年生まれ)。ツォンはこのとき「マズルカ賞」も受賞している。
※2 田中希代子(1932-1996) 日本人として初めてこの1955年のショパン・コンクールで第10位に入賞した。ちなみに日本人として初めてショパン・コンクールに出場したのは1937年の第3回における原智恵子(1914-2001)で、入賞こそしなかったものの、というか入賞しなかったことに聴衆が納得しなかったため「聴衆賞」を受賞した。(『世界の賞事典』日外アソシエーツ社より)
↓ 1955年ショパン・コンクールの動画